100年前 関東大震災と青山学院
2023/09/01
今からちょうど100年前。
1923年9月1日に発生した関東大震災。
内閣府のウェブサイトでは次の通り記録されている。
その年の12月22日に発行された「青山学報」に、当時の院長代理、A・D・ベリーによる報告「震災に遭へる青山学院の現状」が掲載されている。
石坂正信院長が復興のための援助を乞うために渡米していた間、院長代理を務めたベリー神学部長が現状報告を行った冒頭文である。
このベリーは、震災の前日8月31日に横浜港に着いたばかりであった。
当時の青山キャンパスには、以下の学校が存在した。
●青山学院(男子系)
中学部 - 高等学部
- 神学部
●青山女学院(女子系、代官山へ移転中)
青山学院がどのような被害を受け、その困難な状況下、どのような活動を行ったかを記していきたい。
●校内の被害
・神学部校舎、中学部校舎(新ガウチャー・ホール)、高等学部校舎(勝田館)などレンガ造りの構築物はほとんどが倒壊した
・ベリーは「粗末な木造建築だけが、依然として旧態を保っている。木造建築の安全は、今後の建築に暗示を与えるところが多い」と記している
●人的被害
・学院内での死傷者は出なかったが、中学部生徒4名、高等学部学生1名、女学院の生徒2名が亡くなった。
●青山学院
・校庭と神学部寄宿舎を被災者に開放
・中学部寄宿舎を聖路加国際病院に貸し出し、負傷者の収容・治療の便を図る
●青山女学院
・体育堂を開放し、孤児・迷子の収容、保護を行う
・専攻科の裁縫研究科、家政科、家庭科の生徒が中心に胴着730枚、シャツとズボン下200枚、衣類600枚を仕立て、罹災者に与える
青山女学院は代官山のキャンパスへの移転が計画されており、1922年から一部完成した代官山の校舎にて授業を行っていたが、建物が大破し、移転を断念せざるをえなくなった。
また、9月30日、貞明皇后陛下が慰問に訪れた。
●両校
・教職員、学生・生徒が協力し、震災救護団を組織し、すべての避難者を差別なく収容し、夜間は警備も行い、避難者の保護に努める
・避難民への食事の世話や保護などを行ったほか、東京・横浜地区の一般市民・校友(卒業生)宅への慰問袋(配給)配布、片付けの手伝い、東京市の要請で被害地の調査やポスター貼りなどの社会奉仕活動を行う
1.震災の後間もなく、アメリカのメソジスト監督教会海外伝道局に電報を打ったところ、7万円の寄付が送られ、教職員の給与や経営費、バラック校舎建築費を賄うことができ、危機を脱することができた。
この7万円は神戸港に到着。アイグルハート理事が現地に赴いて受け取り、その紙幣を腹帯に巻いて3日後に帰京したという。
2.石坂院長らの渡米
さらなる資金援助を求め、石坂正信院長、アイグルハート理事、アルバータ・B・スプロールズ女学院院長が渡米(9月27日に横浜港を出港)。全米各地を周り、支援を要請した。
一例として、アイオワ州のデモインで行われていた外国婦人伝道会社の総会に出席し、600有余の有力な婦人を前に演説を行った際、演説の前から「ひたぶる盛んな同情があふれていた」と石坂は回顧している。満場一致で「日本を救援すべし」と決議された。石坂はこうも記している。「余が特に感じたことは、どの集会に出席してみても『Good Spirit』をもって我らを救援せんとする精神の旺盛なると同時に、謙遜な態度の顕著なことです」。
授業再開に向け、バラック校舎(仮校舎)が建設された。
ベリーはこの建設について「特記すべきは、清水組(現・清水建設株式会社)が、ほとんど利得を打算せずして、犠牲的に工事に励み、期日通りにバラックを急造したことである。清水組の篤志に対し深く感謝せざるを得ない」と記している。
その清水組の献身などにより、10月6日に女学院、10月10日に中学部、10月25日からは神学部と高等学部がバラック校舎での授業を再開した。
石坂らの復興支援要請などにより、アメリカ国内での日本への復興募金運動が高まり、青山学院へ50万円分の支援金が割り当てられた。
その支援金を元に、高等学部校舎(現・1号館)、中学部校舎(現・2号館)、講堂が建てられた。〈75万円〉
支援金だけではそれら校舎の建設資金は賄えなかった。その不足分を本学の卒業生であり清水組の清水釘吉氏(後に同社社長)が自ら寄付し、建築も請け負った。
校友会の寄付により、中学部講堂(旧・大学礼拝堂)が建てられた。〈7.5万円〉
正門は、高等学部の学生からの寄付で再建。〈1,350円〉
銀杏並木は、中学部の生徒からの寄付で整備。〈2,000円〉
女学院は、アメリカメソジスト監督教会婦人外国伝道会社から40万円の寄付を受けて、本校舎(旧・高等部北校舎)が建てられたほか、校友と父母の寄付で、体育堂が建てられた。
なお、この震災をきっかけに、青山学院(男子系)と青山女学院(女子系)の合同へと動くことになった(1927年に合同が実現)。
青山学院の歴史を記す『青山学院100年 1874-1974』には次の一文がある。
資料によって数は違うが、70~80名の朝鮮人を保護したようである。
先日、韓国のKBSテレビが本学資料センターを訪れ、本学が所有する資料『震災記』を取材し、昨日、韓国内で放送されたばかりだ。この『震災記』は、当時の中学部の生徒が記した関東大震災に関する作文集である。下記の青山学院資料センター発行の「Aoyama Gakuin Archives Letter」28号に、青山学院史研究所助教の佐藤大悟先生が書いた記事があるので読んでいただければと思う。
さて、佐藤助教の勧めに従って、大岡昇平の『少年―ある自伝の試み』を読んでみた。
大岡昇平(小説家、評論家 1909-1988)は震災当時14歳で、青山学院中学部に通う生徒だった。
第9章に震災時の記録を載せている。
以下に、大岡の言葉や思いをかいつまんでご紹介したい。
松濤に住んでいた大岡は、「横浜の朝鮮人が群れをなして東京に上ってくる」という流言が伝わってきたと書いている。ラジオさえまだない時代で、人伝で伝わる流言の波と、それを確かめようがない不安の生起をリアルに伝える叙述がされている。
この流言を受け、大岡少年も自警団に加わることになる。
その自警団の中核は、在郷軍人(予備役軍人)や上級学校に行かない主に商家の子弟で組織されていたと記し、「こんな時に威張ったり取り締まったりするのが好きな連中」と表現している。
大岡の所属する自警団が、怪しい風体の人物をつかまえては朝鮮人かどうか尋問しているなか、近くの小学校の先生を尋問している姿を見た大岡は、「そこの先生ですよ」と自警団に教えた。それでもなお尋問する自警団の姿を見て「少年に大人に対する尊敬の念を失わせるのに少なからず貢献した」と述べている。
大岡によると青山学院は、東京で朝鮮人の入学を許す数少ない学校の一つであり、大岡のクラスに二人の朝鮮人がいたが、震災を境に来なくなってしまった、と記し、案じている。
また、大杉栄という無政府主義者、その内縁の妻、親類の子どもが、震災のどさくさに紛れて甘粕正彦大尉に殺されるという事件にもショックを受けた様子が書かれていた。
大岡は、その人の置かれた環境によって、物事の捉え方・感じ方が違うことにも冷静に触れている。
「大人が忙しく、子どもにかまう暇がなくなり、新聞を隅から隅まで読むようになった」と記す大岡は、外国から寄せられた救援物資や寄付金の到着が早く、その額が大きかったことを知って感銘し、それに引き換え国内では、木材や米の買い占めが行われていることを知り、「恥ずかしいような気がした」と語っている。
看護師と食糧を載せ救援に来たソ連の船が、神戸港外で追い回されたことにも言及している。
青山学院に関する記述もあった。
青山学院の正門前から渋谷に向かう道路沿いに、すいとん屋が立ち並んだという。「青山通りをどこまで行っても続いているので、なんとなく気味が悪くなって引き返してしまった」と記すほど並んだようだ。食糧事情が悪かった当時、米以外の粉から作ることができるすいとんは重宝した。今でもある小学校では関東大震災を覚えて、9月1日の給食にすいとんが出るそうだ。
学校は、バラック校舎ができるまで休校となり、校舎と寄宿舎の間にバラック校舎が3棟建てられ、旧校舎から机を運んで臨時の教室とした。
授業は午前と午後の2部制となり、それぞれ5時限(35分授業に短縮)とし、1か月ごとに学年で午前と午後を交代したようだ。
午後の組は朝寝の自由を与えられ、午前の組は毎日土曜日と同じになり、大岡少年は友達の家に遊びに行ったり、映画館で過ごしたりしたようだ。
現在、青山キャンパスは、渋谷区の「帰宅困難者支援(受入)施設(一時滞在施設)」に指定されている。
2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が発生した東日本大震災のおり、青山学院は、約8,000人の帰宅困難者の方々を受け入れた。
一昨年の2021年、学院ウェブサイトに「東日本大震災から10年 青山学院の3.11」と題したドキュメントを作成、公開した。
10年という一つの節目を迎えた日に合わせ、帰宅困難者受け入れという記録を残すべく、現場で指揮にあたった本学の職員にインタビューした記事である。
その中で、急遽現場の指揮官として立った石黑隆文氏(現・総局長)はインタビューの中で、大岡の著書『少年―ある自伝の試み』に触れていた。
今回、100年前の関東大震災時の青山学院の様子を振り返ってみた。
がれきの中から立ち上がる力強さ、歴史を創る瞬間が垣間見えた。
自らの苦境にかかわらず、社会奉仕を行う青山学院の若者たちの姿に感銘を受けた。
そして、差別なく避難民を受け入れるマインド。尊敬の念に堪えない。
そこには多くのサーバント・リーダーたちが存在した。
人は苦境に立ったとき、その人間性が表れるという。
「困っている人たちを受け入れることが当たり前」。
このマインドがこれからも長い間受け継がれ、青山学院を形成する一つのuniqueであり続けるよう、願う。
100年という大きな節目のときに、あらためて防災の意識を高め、備えを怠らず、他者へも目を向けられるよう、心がけていきたい。
〈参考文献〉
・「青山学報」23号(1923年12月22日)
・「Aoyama Gakuin Archives Letter」28号(2023年7月26日)
・『青山学院一五〇年史』資料編Ⅰ 学校法人青山学院 2019年
・『青山学院120年』学校法人青山学院 1996年
・『青山学院100年 1874-1974』学校法人青山学院 1975年
・『青山学院九十年史』学校法人青山学院 1965年
・『青山女学院史』青山さゆり会 1973年
・大岡昇平『少年―ある自伝の試み』筑摩書房 1975年
〈協力〉
・資料センター