Column コラム

旅先で出会う青山学院 1【 弘前(前編)】

青山学院大学経済学部経済学科教授

落合 功

青森駅前を歩いていたら、「らっせらー、らっせらー」という威勢のよい掛け声が聞こえた。自分が青森に居ることを認識する一齣だ。少し歩くと、いくつもの大きな簡易倉庫が立ち並んであり、そこで祭りのときに披露されるねぶたが製作されていた。八分程度完成したであろう製作途中のねぶたを覗き見ることができた(見られるようになっており、決して「盗み見」ではない)。

青森から鉄道で50分程度で弘前に着く。弘前では「ねぶた」のことを「ねぷた」というそうだ。地元の人に聞けば、「どちらでもよい」と無下な対応だが、地域でのこだわりがあるようだ。江戸時代、青森は南部藩と弘前藩に分かれており、今でもその名残があるらしい。しかし、明治21(1888)年7月28日の「官報」で青森県の事務概況を紹介したおり、そこに「本県の如きやや無神経の人民なれとも……」という文言に県民全体が憤り、各郡有志が県知事辞職を勧告する事件が起きている。青森県の人々は地域の個性を大事にしつつも、一事があるときには一致団結する気風があるのだろう。

弘前は本多庸一の故郷だ。本多はキリスト教界の指導者として活躍し、青山学院の日本人初代院長を務めている。本多は幼名を徳蔵と名乗り、多感な青年時代をこの弘前で過ごした。戊辰戦争に直面したとき、当初、弘前藩は奥羽越列藩同盟に参加するはずだったが、後に新政府側に参加する。津軽藩士だった本多は藩の「気まぐれ」に翻弄された。キリスト教という普遍的な価値を必要とした理由の一つに違いない。


本多庸一(1902年頃)

 

さて、弘前駅から30分程度歩くと弘前城があり、その横に弘前市立図書館がある。付近を見渡すと、旧東奥義塾外人教師館があり、笹森記念体育館、陸奥新報社本社がある。ここら一帯に弘前藩の藩校である稽古館(学問所)があった。稽古館が設立されたのは寛政8(1796)年のことである。

 


1886年の東奥義塾

 

総坪数は6577坪余りで4万7000石の小藩には不似合いの規模だが、藩主寧親(やすちか)の主導で行われた。用地にあった藩士の屋敷は屋敷替えを命じ、杉200本、大木、大石を集めて造られたという。当時は儒学が学問の基本であったが、天文暦(気象、暦、土地測量)、音楽(笛、太鼓など)なども奨励した。文化5(1808)年になると藩校を三の丸の東側に移転する。このころ学問所の学風も古学から宋学(程朱学)に改められた。本多が稽古館に入学するのは11歳のときである。朱子学を中心に文武に研鑚を積んだとされるが、ちょうど入学前年の安政5(1858)年8月に医学館が設立し、さらに入学する安政6(1859)年2月には蘭学堂が新設されている。若き本多徳蔵も恐らくこれまでの漢学とは異なる洋学の新風に触れたに違いない。その後、16歳のときに稽古館の司監(取りまとめ役)に任じられている。

 


本多(後列左端)とジョン・イング一家(前列中央)(1876年)。
イング牧師は本多が連れてきた方で、青森にリンゴ栽培を伝えたといわれている

 

明治維新になり、文部省が学校令を発し、全国の藩校は廃止を余儀なくされた。稽古館も資金不足にはいかんともし難く、同様な運命をたどることになり、明治5(1872)年8月に廃校が決まった。

東奥義塾(現在)後ろが岩木山(津軽富士といわれる)東奥義塾(現在)後ろが岩木山(津軽富士といわれる)
(後編へ続く)

 

参考文献:北原かな子『洋学受容と地方の近代』岩田書院 2002年
資料提供:東奥義塾

 

「青山学報」277号(2021年10月発行)より転載
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