旅先で出会う青山学院 5【喜界島】
2025/04/21
喜界島にあるカフェで知人と談笑していたら、突然「貴方、青山学院の先生?」と訊かれた。正月早々のことである。この時期、青山学院の話題といえば、きまって箱根駅伝のことである。「青学が駅伝で優勝したことで勇気をもらった」「一緒に応援してました」と、嬉しそうに話をしてくれる。ところが、ここでの青学の話題は違っていた。「丸山牧師ってご存知?」。丸山邦明牧師。青山学院出身で喜界島で牧師を務められ、平成26(2014)年5月に昇天された。
奄美諸島は奄美大島をはじめ、徳之島、沖永良部島、喜界島などの諸島によって構成される。沖縄と鹿児島のほぼ中間点にある。梅雨入りは本土と比べて半月早く、沖縄よりは半月遅い。喜界島は奄美大島に隣接する島である。東京からの直行便はない。奄美大島から飛行機で20分程度。離陸したと思えば、すぐ着陸だ。船(フェリー)だと奄美大島名瀬港から約2時間。小さな島である。レンタサイクルを借りれば、4時間程度で島内を一周できる。島内には信号機は1機しかない。恐らく不要なのだろう。信号機が全くないと島外に出たときに困るからだという。
島内はサトウキビ畑が広がる。もちろん製糖工場も存在するが、家族経営で行う小さな黒糖工場も点在する。喜界島は、黒砂糖の産地として江戸時代から知られている。奄美大島と徳之島と共に薩摩藩から黒砂糖の産地として三島(さんとう)と言われた。近世後期には砂糖惣買入制が実施され、島内で得られた全ての砂糖を薩摩藩が買い入れ、鹿児島・大坂へ送られた。米を作ることは許されず、砂糖作りが強要された。砂糖を安く売らされ、米を高く買わされた。もっとも当時は米は高価なため、米を買うのもままならないのが現実である。
サツマイモか海藻が日常の食料だった。薩摩藩の領域(おおよそ鹿児島県域)は米作生産の適地でなかった。シラスで覆われた台地で、決して豊かな土地ではない。奄美三島の黒砂糖は藩財政に大きく寄与したのは確かである。地元の人は言う。「薩摩藩からは、サトウキビだけでなく、人間まで絞られた」。夏場に代官がサトウキビ畑を見分(検見)し、予想収穫量を決める。実際の収穫量が少ないと厳しく咎めを受けた。隠したわけでもなく、実際に収穫が少なかったとしてもである。「サトウキビが短ければ首に罪人札をかけられ村中を引き回される。指先で砂糖をなめたため鞭で打たれ、製造が粗悪だと首枷(カブリ)や足枷(シマキ)をかけられた。少量でも他に売却すれば死刑に処せられた」と、言われている。それでも、黒砂糖生産は島の人々の誇りである。自分たちが作った黒砂糖が、薩摩藩の財政を支え、明治維新の原動力になったと信じている。
現在島内の人口は6000人程度。わずか20年程度で3000人近く減少した。島内の4分の1(1455ha)はサトウキビ畑である。耕地の約9割に相当する。「競争力を高める」という名のもとで、経営合理化が求められ、機械化が推奨されている。ハーベスターを使えば30haから50haを収穫できるという。しかし、地元の農家の方は言う。「みんな50haやるようになったら、30世帯しか住めなくなる。それでは病院も、学校もなくなってしまう。私たちがそれだけの耕地を所有するということは、それだけの人がこの島から離れていくということです」「島で生活し、島で生きた人にとって、本土に渡るということは、東京の人がニューヨークに行くことよりも勇気がいることです」。好んで故郷を離れるならいざ知らず、本人が好まなくても離れざるを得ないという気持ちは心が痛む。離島問題は深刻だ。
奄美諸島は薩摩藩の流刑地だった。大久保利通の父利世や村田新八は喜界島に流された。西郷隆盛は奄美大島、徳之島、沖永良部島に流されている。太平洋戦争のとき喜界島は本土防衛の最前線として米軍の機銃掃射にさらされた。ポツダム宣言受諾後は、奄美諸島はアメリカの施政権下となり、日本に復帰するのは昭和28(1953)年のことである。
「先端」を辞典で調べると「長い物の一番はしの部分」「(転じて)時代・流行の先頭」とある。まさに喜界島は本土から見れば端であり、世界の最前線である。境遇は沖縄と同じである。
喜界島には「象のオリ」がある。「象のオリ」とは、軍事通信の傍受を目的とする巨大な円形のケージ型アンテナ施設(高性能円形無線傍受施設)の通称である。形状が象の檻に類似しているからそう言うのだそうだ。この「象のオリ」は全国で3か所に配備されている。当然、戦争があれば、標的となる施設である。防衛という観点では必要なのかもしれない。しかし地元の声は「よりによって、なぜこの島へ」である。再び喜界島の人々が危険にさらされる。丸山牧師は先頭に立って反対した。
自転車で一本道をしばらく行くと、集落が近いことを知らせるガジュマルの木が私を迎えてくれる。横に広がりを見せるこの大木は安心を与えてくれる。どこまでも透明で、美しい海がある。多くのウミガメが集まる岩場もある。サンゴ礁でできた島は夢の島である。
喜界島には二つの港がある。町に近い湾港と、町の反対に位置する早町港である。普段、フェリーは湾港に停泊するのだが、波が荒いと早町港を利用する。もっと波が荒いと、港に寄らず鹿児島港に行くこともあるそうだ。突然、帰港先が湾港ではなく早町港に変更したときのことである。寄港は夜であり、宿まで歩くと相当の距離である。途方に暮れて宿に電話をしたら、迎えに来てくれた。
決して豊かではない生活だが、皆が助け合って生きている。本当に困っているようだと、誰かが家の前に黙って米を置いていくという。そんな中、丸山牧師は多くの人々に慕われ、島内の精神的支柱であったという。離島の狭い世界で、困ったときに耳を傾けてくれる人がいるというのは、どんなに救いであっただろうか。
丸山牧師が眠る墓地は、島の丘の上にある。