世界に羽ばたき 恐れずに未来をつかめ〈校友・ワイス貴代さん〉
2025/10/17
「がむしゃらに頑張るより、スマートに物事をこなすほうがかっこいい」そんな社会の風潮の中で、学生時代を過ごしたワイス貴代さん。社会へ出たものの、世間の求める女性像に違和感もありました。しかし、徹底的に英語を学ぶことで、新たな人生が開けます。
現在はエア・カナダのアジア・太平洋地区の責任者として、そして日本におけるカナダを代表する立場として、多忙な日々を過ごしています。
「自分でも不思議」というほど一転した仕事への思いや、理事も務めている本学に期待していることなどを語っていただきました。
──幼少期はどんなお子さんだったのでしょう。
幼稚園の頃には、ジャングルジムのてっぺんから飛び降りるようなお転婆な子でした。また、海外出張が多かった父から外国の話を聞くことが大好きで、「色々な国でさまざまな経験ができる人生はいいな」と子ども心に思っていました。母の教育方針で、英語教室に8歳から通い始めました。
中学生のとき、通っていた英語教室のホームステイのプログラムで、1カ月間アメリカのアイダホへ行きました。ポストまでバイクで行くような広大な家にホームステイして、乗馬やキャンプを楽しみました。毎日が驚きの連続で、日本はなんと小さいんだろうと感じました。当時、TBSのアナウンサーで海外でレポーターをされていた見城美枝子さんに憧れていました。海外で現地の人と話し、その土地の話を伝える姿に「こんなふうになりたい」と思ったのが、最初に描いた将来の夢だったかもしれません。中学校ではオーケストラ部に入ってバイオリンを弾いていました。バッハやモーツァルトなど、バロックや古典派の音楽が好きでしたね。
──青山学院高等部に入学されてどのような3年間を過ごされましたか。
最初はびっくりしましたね、生徒たちがとにかくおしゃれで。ファッションへの驚きは大きかったのですが、素晴らしい先生や友人に恵まれたおかげですぐになじんで親しい友人もできました。
朝の礼拝は特別な時間でした。毎朝聖書を読み讃美歌を歌う時間は、そのときだけ脳が日常とは違う動きをするような感覚がありました。聖歌隊に所属し、皆で声を合わせて歌った「メサイア」は今でも一番の思い出です。ほかにはマンドリンクラブに入って指揮を担当したり副部長を務めたり、早稲田大学高等学院のギター部と合同演奏会を開いたりと、音楽に没頭していました。
授業で思い出深いことは、国語で「人はなぜ人に優しくするのか」というテーマで作文を書いたことです。人に優しくすることは自分が心地よいからであり、相手ではなく自分のためなのではと思っていたので、そのことを書きました。すると先生から「宇宙的な視点で考えてみると、また違う見方ができるかもしれませんよ」とコメントをいただきました。先生は、人間は人に優しくできるようにできているから、すごく自然なことなのだと仰りたかったのではと捉えられるようになってから、気持ちが楽になりました。今でも深く心に残っている言葉です。
──大学では英米文学科に進まれました。
大学のゼミではアメリカ近代戯曲を研究し、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』や、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』などを読み込んで、みんなで内容を議論するのが面白かったですね。シェイクスピアを読み、クラスメイトと感想をまとめる課題があり、友達の家に泊まって一緒に取り組んだのも良い思い出です。
サークルは「イフ基礎スキー愛好会」に入り、冬はスキー漬けの日々でした。初心者でも大丈夫と勧誘されたこともあり、親しい友人と一緒に入部しました。新潟県赤倉にあるスキー学校に入り、住み込みでインストラクターをしつつ自分も教えてもらうという冬を過ごしていました。スキー合宿も年3~4回あり、全国学生岩岳スキー大会という学生連盟の大会にも出場して女子団体で優勝したこともあります。これだけ真剣に打ち込んだおかげで、3年のときにはスキー検定の1級が取れました。
──学生時代も海外レポーターになりたいと思っていたのでしょうか。
はい。海外レポーターになるためにはテレビ局のアナウンサーになる必要があると知り、ナレーターのアルバイトをしました。モーターショーなど人前で話すアルバイトは楽しく、人前に出ることへの度胸もつきました。しかし、がむしゃらに苦労してでもアナウンサーを目指すというタイプでもありませんでした。当時は女子大生ブームと言われ、汗水たらして努力するよりも優雅さを求める風潮があったんです。スマートに物事をこなすほうがかっこいいと。そういう時代だったんです。特に、女性は上品にふるまうことを期待されていたように思います。母も私が上昇志向の強いキャリアウーマンになってほしいと思っていたわけではなく、優雅に英語を使う仕事をしてほしいという感じでした。男女雇用機会均等法が施行されるのは私が卒業した翌年の頃で、女性に対する期待や尊敬される女性のあり方は、今とはまったく違っていました。
海外レポーターは諦めて就職活動をしたら、日本経済が発展していたこともあり、受けた会社ほぼ全てから内定をいただくような状況でした。ただし、仕事はいずれも事務職です。どの会社にしようか考え、商社に入社すれば海外とのつながりがあるから面白い世界が見られるのではと、商社への入社を決めました。
──三井物産に入社されました。
社会人になると女性に求められている役割を、身をもって実感しました。同時に、私自身も本来の自分ではないけれど、社会や環境が求める理想像に合わせようとしていたところがありました。24歳で結婚して退職したのも、今思うと「寿退社」を目指しての結婚だったような気がします。
結婚後、何かをしたいという気持ちが芽生えて、サイマル・アカデミーという同時通訳を育成する学校に2年間通いました。英検(実用英語技能検定)1級も取りましたし、TOEICでは990点(満点)を取ったんですよ。なぜそこまでスキルを磨こうとしたかというと、頭の片隅で海外レポーターを諦めきれていなかったことに気付いたからです。「しっかり英語を勉強すれば、もしかしたら海外レポーターのような仕事に就けるかもしれない」と思ったんですね。自分の英語が社会でどれぐらい通用するのか試そうと、エコノミスト系のコンサルティング会社に入りました。その会社は企業にビジネス誌を売るような仕事をしていました。徐々に自信も付いてきて、「もう少し大きな組織で仕事をしてみたい」と思っていた頃に求人広告で見つけたのが、ユナイテッド航空の営業職でした。
──ユナイテッド航空ではどのような仕事をされたのですか。
企業営業の仕事で、商社や大手企業に営業してビジネスクラスの席を売るという仕事でした。当時はバブル景気の真っ盛りで、出張といえばビジネスクラスを利用していた時代です。席が足りないくらいだったので、旅行会社から「買わせてください」とお願いされるほど、航空会社側が優位でした。最初に就職した会社を思い浮かべて「男の人たちはこんなに楽で楽しい仕事をしていたんだ!」と驚きましたね。女性だからできないと思っていたことが、実際にやってみると、「なんだ、できるじゃない」と。外資系の会社は年功序列ではなく本当にフラットです。なんの分け隔てもなくさまざまな機会を与えてもらえました。おかげで仕事ぶりが評価されて新しいポジションも任されるようになりました。でも、長く働くうちに、だんだんと仕事に物足りなさも出てきました。
──そんなとき、エア・カナダからヘッドハンティングがあったのですね。
私の上司はアメリカ人で、そのポストに日本人の私が就く可能性はほとんどありませんでした。「今のポストで定年まで過ごすのかな」と感じていたとき、エア・カナダから日本法人のナンバー2である営業・マーケティング本部長のポストを提示され、さらに日本支社長になる可能性も高いと言われました。それを聞いて「面白そうだな」と思ったんですよね。ユナイテッド航空では19年間勤務し、とても感謝していましたし、自分の中で一番良いポジションまで来られた実感もありました。大切な仲間もたくさんできていたので非常に迷いましたが、「ガラスの天井」があったのも事実です。悩んだ末に転職を決めました。
──エア・カナダでの仕事について教えてください。
営業・マーケティング本部長を4年務めてから日本支社長になりました。旅行会社や企業のお客様に、当社のサービスや商品の魅力を理解していただくため、チームで考え計画を立て、実行していくのが仕事でした。加えて、需要そのものを喚起しないと供給しても空席ができてしまいますから、需要をどうやって創出するかに力を入れました。私が入社したときはちょうどリーマン・ショックの直後で、日本発着路線は成田―バンクーバー線の1本しか運航していませんでした。厳しい状況のなか、まずカルガリー線を就航させ、さらにトロント線も就航させました。そうした新しいフライトを日本のマーケットに盛り込んでいくという積極的な展開をしていきました。そして、「カナダに行ってみたい」と思ってもらえるような戦略的なマーケティングを実施しました。カナダ観光局と連携したり、大使館と一緒にプログラムを組んだり、留学生向けのアプローチも行いました。
──まるで、カナダの観光大臣のようなお働きですね。
ユナイテッド航空からエア・カナダに移ったときのモチベーションの一つに、「国を代表する企業のトップになる」ということがありました。アメリカの企業は日本にたくさんありますから、ユナイテッド航空でどんなに頑張っても、どこか「たくさんある中の一社」という感覚が拭えませんでした。でも、カナダのナショナル・フラッグ・キャリアの日本支社長になれたというのは、ある意味で「カナダを代表する立場になれる」ということです。それが私にはとても魅力でした。ゆったりと過ごしていた学生時代の私とは全く違うこのギャップに、青学時代を一緒に過ごした皆さんは驚かれるかもしれません(笑)。
2018年にはアジア・太平洋地区統括支社長に就任しました。当時、「逃げるな! 怠けるな! 照れるな!」という言葉をモットーとしていたのですが、何をするにも逃げたり怠けたり変に照れたりしていると先に進めないので、トライ&エラーで何でも試みて、できなかったとしても堂々としている、という姿勢で臨んでいました。これは今も変わっていません。また、若い頃から心にあるのは、アメリカの神学者、ラインホールド・ニーバー氏が言った「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」という言葉です。変えられないことに文句ばかり言って何もやらないのは、自分自身がネガティブになるし、周囲の運気も下げると思っています。ですから、やりたいことがあれば、なぜやりたいのかということを自分の中でしっかり論理立てて、それをしっかりと伝える力が必要だと思います。日本人は「こう言ったらどう思われるだろう」とためらって言えない人も少なくないように感じます。たとえ変なことを言ったって、相手はたいてい忘れてしまうものです。それに、次にしっかり伝えることができればカバーできますから、トライ&エラーでいろいろ挑戦してほしいですね。
──コロナ禍では航空業界は大変な打撃を受けたと思います。
みんなには「航空会社がなくなることはないし、人はかならず行き来しなければいけないのだから、再開の日に向けて頑張ろう」とポジティブなメッセージを送り続けました。もともと明るい性格でいつも楽しそうにしているせいか、周囲も「大丈夫かも」と前向きになってくれました。「明けない夜はない」という言葉も繰り返し言っていたら、みんなも「かならず夜は明けるよね」と言ってくれるようになりました。
──今後、新たにやってみたいことなどはありますか。
今のような働き方はあと数年でいいと思っており、その後のことはいろいろと考えています。政治や途上国の教育支援にも興味がありますし、とにかく新しい知見を広めていきたいですね。海外にももっと足を運びたいです。これまで訪れたお気に入りの国はケニアで、動物がサファリを圧倒的に支配していることに感動しました。娘が大学を卒業したときは一緒に南アフリカやジンバブエ、ボツワナなどに行きました。生命や地球を感じられるところが好きなんだと思います。
──学院への提言をお願いします。
私はサーバント・リーダーという考え方が大好きです。これはリーダーシップの根源だと思うので、それを教育の目標とされていることをうれしく思います。また、青山学院はキリスト教の教えに基づき、さまざまな考え方を受け入れている学校です。これからはダイバーシティ&インクルージョンの推進により、世界でも「青山学院」と言えば皆が知っている、という学校になってほしいと強く願っています。そのためにも、より多くの国の人を受け入れる体制を整える必要があるでしょう。時間がかかっても、その方向に進んでくれたらうれしいです。
そして、生徒や学生たちには世界に羽ばたいてほしいです。そのためにはコミュニケーション能力が何よりも大事なので、自分の考えを日本語だけでなく英語でも伝えられる人材を育ててほしいです。さらに、好奇心を持って新しいことに挑戦し、たとえ失敗してもやり直せる自信を持てる教育を望みます。プレゼンテーションなどの機会も多く与えてあげることで、自分の考えを伝え、その反応を見る機会が増え、生徒や学生は強くなっていくはずです。
──在校生に向けてメッセージを。
皆さんは大きな可能性を秘めています。ですから少しでもやりたいことがあれば、ぜひ挑戦してみてください。最初はうまくいかなくても、失敗から学ぶことはたくさんあります。何もしないよりも、挑戦して失敗し、学んだほうが良いのです。そして、ぜひ自分の目で世界を見てください。日本は素晴らしい国ですから、その良さを海外に伝え、日本をより強く大きくするのは皆さんの世代です。青山学院で学んだことを活かして世界に発信するためには、伝える力は非常に重要です。どうすれば自分の考えを上手に伝えられるかを常に考え、力を磨いていってください。何を知りたいかを考え、自ら探しに行く能動的な姿勢を持ち、人と接し、外に出かけて刺激を受けることで、可能性はますます広がっていくでしょう。
──本日はありがとうござました。
1962 年生まれ、東京都出身。青山学院高等部、大学文学部英米文学科卒業後、三井物産、ユナイテッド航空などに勤務、2009 年にエア・カナダ入社。
日本支社長を経て2018年よりアジア・太平洋地区統括支社長を務める。
青山学院理事、青山経済人会会長、NPO子供地球基金顧間など。