旅先で出会う青山学院 13【佐賀】
2025/09/26
佐賀は静かな町である。高いビルは駅前にしかない。だからこそ、佐賀で開催される国際競技大会がある。佐賀インターナショナルバルーンフェスタである。11月初旬、100以上の気球が空を舞い、観客は80万人を超えるという。佐賀バルーンミュージアムで、その雰囲気を少しだけ体感した。
現在の佐賀城は天守閣が無い。跡地には本丸歴史館として御殿の一部を復元し、観覧できるようになっている。ボランティアガイドの方が熱心に館内を案内してくれる。彼らは文武に優れた人材を輩出した佐賀を大変誇りにしている。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名な『葉隠』は佐賀藩士山本常朝が心得を口述したものをまとめたものである。公開されず、一部の人にしか知られなかった。「死ぬために生きる」とする武士道の精神は、近世初期の武士の姿を表現したものであり、江戸時代を通した武士道とは異なる。かかる武士道は明治時代になると、再び注目されるようになり、その精神が武士道だと定着する。
佐賀には大学の講演で訪問した。大隈重信や副島種臣、江藤新平など、佐賀藩出身で明治維新に活躍した人物は多い。講演では大隈重信の英語力を紹介した。江戸時代、外国語と言えばオランダ語であった。しかし開国すると、大隈は英語の時代がくることを予測し英語力を身につけた。大隈は学んだ英語力で対外交渉にのぞみ、明治政府の危機を何度も救った。
旅館あけぼのという老舗旅館に泊まった。画家の青木繁が好んで宿泊した。宿泊当日、落語家の林家たい平師匠を招き寄席を開催していた。若女将によれば「地元佐賀の人に本物の笑いを届けたい」「少しでも元気にしたい」という。利益度外視の地元旅館ならではの発想である。
佐賀大の山本長次教授と打ち合わせを兼ねた食事をして旅館に戻ると、女将から「ご一緒にどうですか」と、林家たい平師匠を囲んだ打ち上げに参加させていただいた。たい平師匠の周りは笑顔が絶えない。コロナがようやく落ち着いてきたものの景気は改善せず、沈む気持ちを、たい平師匠は楽しい気持ちにしてくれる。かつて、落語家は出征しても帰還する人が多いという話を聞いたことがある。戦地で兵隊たちはささくれた気持ちになる中、落語家の話術でほっこりした。だから落語家は、最後の戦闘で居残りを命じられることが多かったという。確認したことはないが、人を笑顔にする仕事はすばらしい。女将が私を紹介すると「円楽師匠には大変お世話になった……」と話をされ、エビやホウボウなどを皿によそっていただいた。青学を介した御縁に感謝である。
佐賀県は日本を代表する陶磁器産地である。良質な陶石が採れることが理由である。江戸時代、佐賀藩内で生産された陶磁器は伊万里港から全国へ送られたことから、総称して伊万里焼という。伊万里の街並みを歩くと、橋の欄干にすばらしい陶磁器が飾られ、伊万里焼の街であることを実感する。伊万里駅から自転車で30分ほど行くと、突然、隔絶された山間の地に、陶磁器の里(大川内山)が登場する。
藩窯で生産された伊万里焼は将軍や朝廷などに献上された。陶磁器の技術は門外不出とされ、江戸時代、入口には関所が設けられ、出入りを厳重にした。今でもこの地で多くの陶工がしのぎを削る。
佐賀駅内の土産物屋をのぞくと、丸ぼうろが土産物として軒に並べられている。パンの様な独特な食感で甘くておいしい。
長崎から小倉に通じる長崎街道を別名シュガーロードという。砂糖を始めとした南蛮渡来の貿易品が送られた。カステラ、ボウロはポルトガル語である。南蛮菓子だが茶道の茶請けなどに使われた。ほかにも洋菓子メーカーとして著名な、 グリコ(江崎利一)やモリナガ(森永太一郎)の創業者は佐賀出身である。
森永製菓の創業者、森永太一郎は、慶応元(1865)年に伊万里の陶器問屋の家に生まれた。24歳のときに渡米する。九谷焼を米国に売り込んだものの全く売れず、無一文になる。働き口が無い時には、メソジストミッション教会の二階に泊まった。後に日本メソジスト監督になるハリス牧師や美山貫一牧師の世話になった。太一郎はのちにハリス牧師より洗礼を受けている。
米国では皿洗い、工場掃除なんでもやった。そして、ケーキ製造技術を修得し、マシマロ、キャラメルを作れるようになり帰国する。
森永製菓は、広告を上手に利用した。天使がTM(森永太一郎のイニシャル)の上で逆立ちしているエンゼルマーク(天童印)は最初に登録された商標である。
大阪市で開催された第五回内国勧業博覧会のときには、会場入口に大広告塔を設置した。明治37(1904)年7月にはマシマロバナナの広告を報知新聞に掲載した。これは菓子業界初の新聞広告と言われている。さらに明治40年には新聞に全頁広告を掲載した(明治40年3月1日「時事新報」)。このときの広告費は一カ月の売上高(2000円)の4分の1だったという。しかし、広告掲載後の7月の売上は3倍以上の7000円になった。
関東大震災のときにはビスケットやキャラメルを配布し、ミルクを無料で提供した。
太一郎は社長の座を退くと、キリスト教の伝道者として全国で講演活動を行った。青山学院でも何度も講演している。
太一郎は、昭和12(1937)年1月24日に昇天する。葬儀は青山学院で行われた。現在のガウチャー記念礼拝堂付近に中等部の大講堂があった。その大講堂で催された。葬儀までの4日間、阿部義宗青山学院長を始めとして松野菊太郎牧師(麻布クリスチャン教会牧師)や砂本定吉牧師(広島女学院大学の創設者)、小崎牧師※など、多くのクリスチャンが参加した。会葬者は7000人、弔電は2877通に及んだという。生徒にはキャラメル1箱が配られた。
※小崎弘道は元同志社社長。弘道の長男、小崎道雄は霊南坂教会牧師。葬儀に参列したのは、この親子のいずれかは不明。ただ、いずれも深い付き合いがあり、故森永太一郎百日祭のときには、両人が説教・祈祷を行った。