旅先で出会う青山学院 15【鹿児島】
2025/10/14
鹿児島といえば桜島である。都市に隣接した活火山で、時には火山灰が雨のように降るという。壮麗な桜島を見ていると、小事にこだわることがバカらしく思えてくる。
鹿児島には松方正義の講演会で行った。教科書にも近代史の多くの場面で登場する松方正義は、2度総理大臣に就任する。講演のタイトルは「政治家の矜持」。工夫すらせず、ぶれる現在の政治に対し、信念に基づき頑固にやり遂げる政治家の姿を紹介した。財政通として知られ、日本史の教科書では、多くの紙面を割いて松方財政を紹介している。デフレ政策は多くの痛みを強いる政策だ。この明らかに不人気なデフレ政策を、何故この時期に実行し、どのようにして成し遂げたのかを紹介した。
松方は示現流(じげんりゅう)の達人だった。「相手も死ぬが自分も死ぬ」という一人一殺の武術である。一刀両断に全力で振り下ろす示現流は必殺だが二手は無い。また、全力で振り下ろすことで自身にスキができ、相手に切られる。自分の覚悟を示し、国民に覚悟を強いた松方デフレは示現流の極意を貫いている。
松方正義の講演は企画展にあわせて開催された。鹿児島県は西郷隆盛ファンが圧倒的である。明治維新で活躍し、故郷の土に眠る「西郷どん」を今も愛し、語り継いでいる。鹿児島県歴史・美術センター黎明館では、明治維新で完結する鹿児島の歴史を乗り越えようと、松方正義展を企画した。展示の評判は上々だった。
鹿児島中央駅から繁華街である天文館に向けて少し歩くと、加治屋町の電停(路面電車の停留所)がある。西郷隆盛、大久保利通、大山巌、西郷従道、吉井友実……明治政府で活躍した多くの人々が加治屋町で育った。彼らは薩摩藩の独特な郷中教育によって育てられた。郷中教育には、特定の教師はいない。歳上の人が歳下の人を教えるという教育スタイルで、学問だけでなく、武術やしつけなど、心身ともに鍛えられた。郷中教育の教典ともいえる薩摩いろは歌の「い」には「いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひに せずばかひ(甲斐)なし(昔の賢者の教えや学問も実行しなければ意味がない。実践実行が大事である)」と、実行の大切さを伝えている。
鹿児島は美味しいものが多い。さつま揚げはもちろん、黒豚とんかつ、鹿児島ラーメンと、事欠かない。氷菓「白熊」にも挑戦した。そして芋焼酎もたまらない。鹿児島で呑む芋焼酎はとりわけ美味しい。抵抗感なく体に染透る感じで、後味もよい。どんどんいける酒である。かつて「芋焼酎は翌日には残らない」といわれたのに、体中の全てが空っぽになったことがある。私にとっては警戒の酒である。鹿児島市内を歩くと、各地に醸造所が存在する。薩摩はシラス台地のため米が不足し、江戸時代は大坂から米を購入していた。「米で醸造するのではなく芋で酒が醸造できれば国益だ」と、芋焼酎が奨励された。
市街地から市電で30分程度。上塩屋の電停からすぐのところに東酒造がある。創業100年を超える老舗である。焼酎だけでなく、灰あく持もち酒ざけなども醸造している。最近ではリキュールを開発した。同社の福元万喜子会長は本学女子短期大学の卒業生である。昭和42年に入学した。「鹿児島からだとさぞかし不安が多かったのでは」と問いかけたら、高校の同じクラスから4人も進学したという。多くの卒業生を輩出したアオタンは、高校生のあこがれだった。代官山駅にあったシオン寮に住み、勉強に遊びに楽しい日々を過ごした。卒業後すぐに鹿児島に帰郷し、家業を引き継いだ。
東酒造の社訓は「何ごとも自然が一番」である。100年もの年月には色々あったが、流れに任せて、多くの人々に支えられて今日まで続いてきた。
鹿児島に行く1か月前、福元会長から「鹿児島に来られるとき、酒ずしを振舞いたい」と、声をかけていただいた。酒ずしとは、鹿児島の郷土料理で、もともとは島津の殿様の宴会の食べ残しを、御殿女中がお酒と一緒にしておいたら、翌朝、かぐわしい香りと、えもいわれぬ美味しさとなった。これが酒ずしのはじまりといわれる(諸説あり)。各家で作り方が異なるようだが、お酢を一切使わず灰持酒ですし飯を作り、山菜や魚介類、さつま揚げ等をミルフィーユ状に重ねていき、重石をして半日程度熟成を待つ。春の食材だと一層美味しくなるそうだ。おすしといえども飲酒運転になり、熟成を待つ時間もありとハードルが高い。私にとっては得難いチャンスに恵まれた。お酒がご飯や魚・野菜に染み込み、刺激的な味である。酒気が強いとは思わなかったが、その日の夜はよく眠れた。
福元会長は講演会にも出席してくださった。講演終了後、「みんな青学出身よ」と、友達も紹介してくださった。女子短大のOG会は活発で、旅行に行ったり、講師を呼んで勉強会を開いたり、ボランティアやバザーなど色々な取り組みをしたという。卒業して50年以上になるが「青学での生活は宝物、同窓生とのつながりは深く、今も続いている」と、青山学院で得られた財産は今も輝き続けている。