懐古・世田谷キャンパス【職員座談会編】世田谷キャンパス開学60周年記念
2025/11/18
開設60周年を記念して、かつて世田谷キャンパスに勤めたことがある11名の現役の職員の皆様にお集まりいただき、当時のキャンパスの様子や、事前アンケートで挙げていただいた一押しの話題、キャンパスとの別れなどについて話を伺いました。皆さん、勤めた部署も時期も違いますが、当時の写真を持ち寄って懐かしんだり、様々な話題に共感したり、世田谷キャンパスという、ともに過ごした空間への愛情が随所に見え、楽しくも、少ししんみりとした会となりました。
(2025年6月20日実施)
──事務室は一つのフロアだったのですか。
山﨑 1号館の半地下に庶務課があって、そこに部長と課長の席があり、庶務・経理・施設があって、階段を少し上った1階に教務課と就職と学生課がありました。

──宗教センターは違う場所なのですね。
S 庶務課とは吹き抜けを挟んで反対側の半地下に宗教センターと学生相談センターがありました。ここは元々は図書館だったと聞いています。一人部署だったのでコピー機がなく、コピーやFAXのたびに、ドアに鍵をかけ、階段を上っていったん自動ドアから外に出て、1階の部署の間を抜けて、階段を降りて、庶務課の横を通って、部長席の前にあるコピー機まで行って、そして戻る、という感じでした。年中走っていました。
──不便ですね。情景が浮かんできます。情報科学研究センターはどこにあったのですか。
田島 8号館です。
藤森 購買会の前の建物の中にありました。2回ぐらい引越ししました。
田島 テニスコートの前だよね。
岸 僕が異動で赴任したときはCAT(先端技術研究センター)の中に入っていました。
藤森 夏のすごく暑い日に改修工事があって、軽トラでN島さんと一緒に引っ越しをやりましたよ。
〈田島―岸―藤森で回顧話に花が咲く〉

──それではイベントの話題を取り上げます。事前アンケートで山﨑さんから「学生教職員混合ソフトボール大会」という一押しの話題を挙げていただいています。
山﨑 理工学会が主催する、学生は研究室単位で出場するソフトボール大会がありました。“教職員も1回は出場しましょう”という話になって、ここにも何名か出場した方がいらっしゃいますが……。〈写真を披露〉

山﨑 みんな充実していたかのように写ってるんですけど、このときピッチャーはK上さんだったと思うんですが、ちょっと打ちやすい球だったんでしょうね、実はコールド負けだったんです。
〈皆笑い〉
山﨑 ちゃんと最後まで試合が出来なかったんです。女子も出ていいっていうので、K巻さんと私が出て、1回だけ打席に立ったけれど、ほとんど出番がなくて終わってしまったという……。学生に負けてしまった思い出ですね。今も相模原でやっているのかな?
──当時参加された方はいらっしゃいますか。
〈挙手 岩本、YK〉
──参加された岩本さん、YKさん、何か思い出がありますか?
YK 打てなかった記憶があります。
岩本 ゴルフと違って、1回も練習してないんですよ。
──以前の常務理事対談のときに、理工学部の先生には野球好きな人が多いっていう話を聞きました。
馬場 テニス好きも多かったですね。
──次に、イベントの流れで、事前アンケートで岩本さんと馬場さんの一押し「ゴルフコンペ」についてお聞かせください。
岩本 私は94年の6月から庶務課施設係だったんですけど、ゴルフ好きのO田部長が同じフロアにいらっしゃって、世田谷キャンパスに異動すると必ずゴルフをやらなきゃいけないという“縛り”がありました。年1回、創立記念日に合わせて理工学部杯のゴルフコンペをやるんですね。私は初心者で、道具も持ってなかったのですが、O田部長から道具を一式借りたり、 最終的にはパターを1本いただいて参加しました。それがおもしろい方式で、ただ自分の名前で参加するんじゃなくて、出走表が作られるんです。自分の名前しか覚えてないんですけど「アシナガーノキレナガーノ」他、いくつかあったような……。Si田さんとかK倉さんが馬名をつけて、上達具合で勝者の予想が決まって……。
馬場 N久さんの「ママゴンガッショウル」っていうのはあまりに面白いので覚えているよ。
岩本 コンペが近づいてくると17時過ぎになるとO田部長から「練習行くぞ」と声がかかって。近くに打ちっぱなしの練習場がいくつかあったので、よく田島さんにコーチをしていただきました。指に血豆が出来るまで練習して、練習の後はチョイ呑みに行って、というのが定番のコースでした。
──理工学部杯はどこのゴルフ場でやるんですか?
岩本 御殿場とか、佐野とか、千葉もありましたね。大体現地集合で何台かの車で乗り合わせて行きました。
──今の岩本さんの話を聞いて、馬場さんはどうでしたか?
馬場 もう全部話してくれたので。
〈皆笑い〉
──馬場さんはなんという馬名だったんですか
馬場 確か出走表を持っています。今度持ってきます。

──この中でゴルフコンペに参加された方はいらっしゃいますか。
〈挙手 田島、岩本、馬場、山﨑〉
──4名ですね。
岩本 職員だけでなく警備さんも参加していましたね。

──馬場さん、機械工作室ではどういう仕事をされていたのですか。
馬場 簡単に言うと、学生への物作りの指導ですね。旋盤だとかフライス盤だとか、そういう工作機械を使って、ある形状のものを作っていく。 そこまでのプロセスなどを指導していくのがメインの仕事でした。
──学生と一番接していらっしゃいますね。昼夜問わずですか?
馬場 一応9時―17時の間ですね。当時の機械工学科の学生がメインでした。
──思い出やエピソードはありますか?
馬場 「機械を昼夜使いたい」という先生がいて、夜中に鍵を勝手に開けて忍び込んで使っていたっていうことがありました。
──見て見ぬふりをしてあげた?
馬場 まあそうですね(笑)。 熱心な先生でしたね。
──学生の面倒を見てきて、平成、令和と進む中で、違いを感じることはありましたか。
馬場 今も当時も皆さん真面目ですね。時代の違いは、特にはないですかね。 変わったのは服装ぐらいで……。バブル当時は派手でしたね。それこそ“ワンレンボディコン”の子が来ることもありました。
──外は変われど、中は変わらず、といったところですね。
馬場 そうですね。 そんなに大きく変わったような感じはないですかね。

──女子学生は少なかった印象はありますか。
馬場 学科によりましたね。化学科は多かったです。
S 機械工学科は少なくて、私がいた頃は1学年に2人ぐらいでしたね。
馬場 そうでしたね。
S “居場所がない”と言って、よく宗教センターに来る女子学生たちがいました。

──次に、先生の話題に移ります。松本さんからは事前アンケートで思い出深い先生として、富山健先生と三輪修三先生と寺崎和郎先生を挙げていただいています。
松本 理工学部の学生は研究室に必ず入って卒業研究の単位を取得して卒業となるので、先生方とファミリーのように研究を続けているんですけれども、自分が新人で入ってから最初に驚いたのは、出勤したら、建物の窓から寝袋が垂れて干されていたことでした。「あれは何だろう?」って当時教務係長だったI豆さんに聞いたところ、「寝袋だね、布団の代わりにして干してるんだね」って。その頃は泊まり込みもOKだったみたいで、おそらく研究中に何時間後かに記録を取ることもあるらしく、泊まっている人もいるらしいと。「うわ~、そういう学部なんだ~」と学生の研究への熱意を感じました。
──鵜飼常務も機械工学科出身で、やはり寝袋がぶら下がっているのが名物だったと仰っていましたね。
S 対談で薦田常務が「配管がむき出しだった」と仰っていましたが、そのむき出しの配管を“タオルかけ”にして、泊まった先生や学生が朝起きたらそのタオルを手に取ってトイレに行って、洗った顔をふいて、また配管で干す、という光景が、そこら中で見受けられた記憶があります。
あるときは、ソファの上に何かぐちゃぐちゃした毛布があるなって思って見ていたら、その中からむくーって人が出てきたり……。
──なんか理工学部っぽくていいいですね。
松本 何年か経つといろいろな先生とお知り合いになりました。なぜか、機械工学科の先生の話が多いのですが、富山健先生に「研究室に遊びに来てごらん」と言われて行ってみたら、2足歩行ロボットの基礎モデルを動かして見せてくださいました。今から約40年近く前の話なので、当時としてはあり得ないほどの新しい研究に驚き感動しました。今や、ロボットクリエーターの第一人者になられている古田貴之さんが、この研究室で助手として富山先生と一緒にいつも楽しそうに働いていらっしゃったのが印象的かつ懐かしい思い出です。
──古田先生が助手の頃、「青山学報」にロボットのことでご執筆いただいたことがあります。

松本 三輪修三先生も機械工学科の方で、「小さい足踏みオルガンを作ったから見にいらっしゃい」って、結構「見にいらっしゃい」と言われることが多いのですが(笑)、研究室を訪ねてみました。「すごい素敵ですね。音は出るんですか」と伺ったところ、「あ、それは触らないで。見るだけ」と。研究室全員で作って、音も出たけど、とても壊れやすいから今は見るだけとのこと。「このオルガン、皆さんの前にお見せすると喜びますね」と言ったら、「見せられないんだよね~……研究室の中で作ったら大き過ぎちゃって研究室の扉から外に出せないんだ」と照れ笑いしながら教えてくださいました。あのときの三輪先生の笑顔が忘れられません。
──お茶目な印象です。
松本 もうお一人、寺崎和郎先生は逆になかなかワイルドな印象の先生でした。ソーラーカーの研究をされていて、学生たちと製作したソーラーカーで耐久レースに出られていました。世田谷祭でソーラーカーを公開することになり、私も初めて見たんですけど、当時はソーラーパネルが畳何畳分もあるくらいの大きなものでした。世田谷祭が始まる前に、先生が「ちょっと乗ってみるか」と喜んで乗っていたら、勢い余って一般道に出ちゃって、戻れなくなっちゃって……。
〈皆笑い〉
松本 学生が助けに行って事なきを得ました。

松本 3人の先生方を含め多くの先生方は「ものづくり」にすごく力を入れていらして、思えば、今となっては全て日常生活で普通に使われているものの前身でした。それぞれ楽しそうに嬉しそうに研究をされている先生方がまるで鉄腕アトムのお茶の水博士と重なって見えていました。今その未来系が現実に私たちの生活の近いところに出てきているので、当時すごく貴重なものを見せていただいたんだなぁと思いました。すごく良き思い出です。
──ありがとうございます。皆さん素晴らしい研究をされている一方で、なんだかくすぐられるような先生ばかりです。
松本 はい(笑)。素敵な先生方でした。
──渡邊さんは、思い出深い先生として隆雅久先生のことを挙げていらっしゃいます。
渡邊 私が新人で入ったとき、理工学部事務部の図書館に配属になったんですね。ある日、隆先生が授業が終わった後だったんだと思うんですが、たくさんの教科書や参考書を抱えながら「こんにちは」って入っていらっしゃって。「いやあ、暑いね」って仰って。多分夏だったんだと思うんですが、「このままね、地球はね、どんどん温度が上がっちゃうんだよ」って仰るんです。現在は「地球温暖化」という言葉がスタンダードに毎日のように耳にする時代ですけど、当時1990年代前半で、30年以上も前の時代は、まだ地球温暖化は話題になっていなくって。そんな頃に「このまま地球はね、どんどん温度が上がっちゃって、もう生命体は暮らせない星になるよ」ってきっぱり仰ったんですよ。そのとき私は20代前半だったんですが、その言葉がすごく心に突き刺さって、「うそでしょ!」って思ったんですね。今でもすごく印象に残っていて、その後の私の人生の、ある瞬間ごとに隆先生が仰ったあの場面を思い出すんですよ。隆先生の言葉がすごく重くて、理工学部の思い出=隆先生の地球上の生命体消滅説ですね。
〈皆から驚きの声〉
──隆先生は予言者のようですね。研究者のお立場の先生のお言葉ですからリアルで怖いですね。ありがとうございました。

──次に「人」という関連で、岸さんが「マジックおじさん」を挙げていらっしゃいます。
岸 あのー、僕が喋ることはどれも使えなくて時間がもったいないのでは、と……。
〈皆大笑い〉
岸 書いちゃった手前、少しだけお話しします。
僕、祖師ヶ谷大蔵駅から商店街を歩いて通勤するときがあって、朝、駅から学校に向かって歩いているとですね、向こうからこちらの駅の方に向かって歩いて来るおじさんがいたんです。 その人の頭がツルツルのところにマジックで真っ黒に塗ってある。ピカピカと朝日を浴びて歩いている人がいまして……。
〈騒然〉
──手品の“マジック”かと思っていましたが、そちらのマジックなんですね(驚)。
岸 「僕だけなんだろうな、見てるのは」と思っていたら、祖師谷に住んでいらっしゃったパートの人に「マジックを塗ってる人が歩いてるんですよね」って話したら、「あ! 知っています!」って。「あー良かった、知っている人がいて」って嘘つきにならずにすみました。ネットで調べて写真は持ってるんですけど……。
〈皆で画像を見て騒然〉
岸 一般の方なので写真は出せないんですけどね。
──毎日会うんですか。
岸 時々会うんですけど……。 ピッカピカなんですよ。黒光りして歩いて来る。なぜだかわからないんですけど。
──ご存知の方はいらっしゃいますか。
複数 初めて聞きました
── 山﨑さんも祖師ヶ谷大蔵組ですが、知らなかったですか?
山﨑 歩いていましたけど、ちょっと気がつきませんでした。
岸 下向いて歩いてちゃ駄目ですよ。そう、ちょっと目線を上にもって。
──ちゃんと前を見ていたからこそ見える風景があるってことですよね。強烈なお話でした。ありがとうとございました。
岸 出せないんですけどねえ。
〈出してしまいました〉

──岩本さんもご存じないのですね。
岩本 お会いしたことはないですね。きっと時間帯がずれていたからだと思います。僕が毎朝会っていたのは、「とんねるず」の木梨憲武さんの親父さん、木梨サイクルの親父さんです。
〈皆「あー!」という共感〉
岩本 事務用の自転車を買って配達してもらったことがあります。
──お顔がそっくりだそうですね。
──岸さんはもう一人、思い出深い人として、職員のK田さんを挙げていらっしゃいます。
岸 そうですね。K田さん、僕より皆さんの方が語ることが多いだろうと思いますが。
── どういう人物だったのでしょうか。
岸 やっぱり昔の方って面白い方がいっぱいいらっしゃって……。K田さんもその特徴あるお一人だと思いますけれど、僕が一番印象的だったのは、世田谷のオープンキャンパスのときに、入口でお客様をお迎えするんですけど、やってきた子どもたちに向かって「一緒に睨みつけるぞ! ムっ!」ってやっているんです。普通だったら、子どもがこっちを向いたらやめるじゃないですか。そのまま睨んじゃうんですよね。そういう面白いおじさんでした。情報センターの事務室は別の建物だったので、こういうイベント事じゃないとK田さんとはあんまり一緒にお仕事出来なかったんですけど、そのたびに笑わせてもらいました。
──他の方もK田さんの思い出がありますか。
田島 いつもおしゃれで、スーツをちょっとラフに着こなしてる感じなんだけど、結構弾けてて、江戸っ子みたいな感じで。
岸 H中さんって、結構ピカピカしたブルーのスーツを着たりするときがあってですね、(K田さんが)僕のところに来て、「おい、お前んとこの親分(H中さん)、あのトンボ、ブンブン飛んでるか? 銀ヤンマ飛んでるか?」って。「あー飛んでますよ、ブンブン」って答えて。
──“なんとか組”みたいな世界ですね。
岸 そうですね。「おい、ブンブン飛んでるか」ってね。
岩本 K上さんもよく玉虫色のスーツを着てましたね。
──玉虫色? 近づきがたい感じですね。
馬場 飲みに行ったとき、隣の席がうるさくなってきて、K田さんがカチンときたのか、睨みつけたら黙っちゃったもん。
S 一方で、学生の面倒見がとても良かったです。K田さんは就職担当だったんですが、理工の学生が苦手な履歴書の書き方も一から教えてあげたり、優しかったですよ。
──いいフォローをいただきありがとうございました。これで載せられそうです。
──次に、田島さんはもうお一人、O田部長のことを挙げていらっしゃいます。
田島 昼間は恐ろしくダンディで近寄り難いんですけど、17時を過ぎると何か違う人になって。
〈皆笑い「知ってる」という共感〉
岸 また出せないと思いますよ。
田島 “ジャガーチェンジ”……………………………。
〈一番の盛り上がりをみせた場面でしたが、岸さんの言う通り、これ以降の内容は、残念ながら全て省略させていただきます〉

田島 皆さん、職員旅行に参加していましたか?
〈皆うなずく〉
田島 今考えると信じられないんだけど、旅行などへの補助金が出る時代でしたよね。確かマイクロバスを借りて行っていたよね。
岩本 屋形船とか、 日の出桟橋から出るクルージングもありましたよね。
田島 当時は結構盛んだったから、面白いですよね。私は事情があって旅行には行ってないので、職員旅行編は松本さんにお願いします。
松本 新人の頃に「世田谷には職員旅行があるんだよ」って聞いて、正直びっくりしました。守衛さんも一緒に参加されて、職員みんながファミリーみたいな雰囲気で。土曜日の授業が終わったお昼過ぎにマイクロバスで出発して、日曜日に帰ってくる一泊二日の旅だったんですけど、けっこう遠くまで行って、観光名所を回ったり、地元の美味しいものを食べたりして、夜は宴会で盛り上がって。シンプルな旅だったのに、すごく楽しくて、今でもふと思い出しては懐かしくなります。
それから10年くらい経って、私が幹事だった年には、ちょうど北陸新幹線(当時の呼称は「長野新幹線」)が開通したタイミングで、東京から1時間で行けるようになった軽井沢へ行きました。軽井沢プリンスホテルのコテージに泊まって、夜は全員で宴会場に集まってにぎやかに食事をして、そのあと希望者だけでコテージに戻って、自然と二次会が始まって。どちらの場面でも笑い声が絶えなくて、あのときの空気感は今でもよく覚えています。翌朝はゴルフを楽しんでいた方々もいましたよね。
──小澤さんの頃は職員旅行はあったのですか?
小澤 今話題にしている軽井沢の旅行がちょうど新人で入職したときのことで、同じ部署だった松本さんにお声掛けいただいて、当然のように「連れて行かれた」感じです。
松本 連れて行かれちゃった?
〈笑〉
小澤 松本さんとSさんと私は当日少し早めに集合して、旧軽井沢を一足先に回りましたよね。
〈3人で思い出話に花を咲かせる〉

──藤森さんは職員旅行に参加したことはありますか。
藤森 参加していないですね。情報センターは別棟だったこともあり、事務室の方々とは少し距離があった感じですね。
田島 大学附置の組織だったので、事務組織としては別でした。旅行の補助金が部単位で出ていたので、管理部が本部管轄だったり、情報センターは情報センターで持っていたということもあります。
──渡邊さんは職員旅行で思い出がありますか。
渡邊 1993年頃だと思うのですが、バスに乗って下町に行って料亭みたいなところに行って、芸者さんがいて、もちろんO田部長もいらっしゃって。初めて松茸の土瓶蒸しが出てきて、「こういうところだと土瓶蒸しがあるんだ」って思った記憶があります。「美味しいよ」って言われて飲んだんですけど、某メーカーのお吸い物の素と同じような味だった記憶があって。
〈皆笑い〉
渡邊 理工学部のみんなで行った、っていう記憶が強く残っていて……。日帰りで行った記憶はあります。
岩本 津久井の方でバーベキューもしましたよね。バスで家族も連れていってもいいっていう旅行もありましたよね。
馬場 あったあった。みんな車で来てたよね。
岩本 K田さんが主催されて、すごい風が強い日で、鉄板の肉が砂ぼこりでジャリジャリしていたという。
〈皆笑い〉
〈ここでハーフタイム みんなで持ち寄った写真を見あって、思い出話に花を咲かせている。マジックおじさんの画像も披露されている〉

──食事にまつわるお話を伺いたいと思います。田島さんと藤森さんのお二人が思い出の場所として「キッチン駅前」というお店を挙げていらっしゃいます。
田島 世田谷キャンパスは祖師ヶ谷大蔵駅、千歳烏山駅両方からとても離れているのはご存知ですよね。食べ物屋さんってあんまりなくって……。正門の前にパスコのパン屋があって、その左隣の店がなんかやってるんだけどちょっと怪しい噂があって……。あとちょっと右に行った所に、お寿司屋さんと蕎麦屋さん、それぐらいしかない中で、「キッチン駅前」っていう全然駅前じゃないのに……。
〈“確かに”という笑い〉
田島 千歳農協の対面ぐらいにあって、本当に小さいお店なんです。10人くらいしか入れないかな。
藤森 カウンターとテーブルが二つ三つくらいでしたね。
田島 すごく無骨な親父さんと、愛想の良いおばさんの夫婦がやってるお店なんですね。 で、美味しいんですよ。
藤森 特に生姜焼きが美味しいんです。
田島 生姜焼きなんですが、あんまり生姜の味がしないんです。
〈皆笑い〉
田島 網で焼いて、お醤油がこんがりしてて、ちょっと生姜が入ってるのかもしれないんですけど、我々はいつも「醤油焼き」って言っていました。
それと、「唐揚げピラフ」っていう、なんか謎の組み合わせで、当然そんなお店だから、ピラフなわけがないんですよ。茶飯に近いんだけど洋風茶飯みたいな。こういう四角い皿にピラフが載っていて、少量の野菜と唐揚げが2・3個載っている。そこにK沼さんはマヨネーズオプションをつける。“唐ピラマヨ”って言って頼んでいました。私は「醤油焼き」と「唐揚げピラフ」の二つが鉄板でした。
藤森 文系出身なので、世田谷のことを全然知らなくて。就職したときに1回見学で行ったぐらいでした。新人で配属された青山に2年いて、3年目の1993年から世田谷に配属になって、土地勘もないし、生活環境が全然わからなくて……。当時は田島さんとM橋さん、N島さんがいて、お昼を食べに連れていってくれたのが「キッチン駅前」でした。M橋さんもカウンターに座ると、「玉子丼コロッケ」。いつもそれを食べていましたね。 ちっちゃな食堂で、小洒落たところではないんですけれど、それでも目の前で調理したものが熱々で出てきて、すごく美味しかったです。リーズナブルでしたし。

──山﨑さんは、「神戸屋キッチンパン食べ放題」「栄寿し」「仙味洞」を挙げていらっしゃいます。
山﨑 「神戸屋キッチン」も「仙味洞」も、学校から千歳船橋に行く途中にあったので遠いんですよ。だからお昼に行くんだったら車で行くしかなくて。「行く人?」って集って車で行きました。
岩本 So田さんがよく車を出してくれました。
渡邊 So田さんは「神戸屋キッチン」が好きでしたね。
小澤 「神戸屋キッチン」だと、教務課に自転車が1台あったので、どうしても食べたいときはその自転車に乗って行って、店内で一人で食べることは出来なかったので、サンドイッチ系を買って戻ってくる、ということを、頻繁ではなかったですがやっていました。
──自転車があるといいですね。自転車ってそんなになかったんですか?
岩本 庶務課にも1台ありました。
──情報センターは建物が違うので事情が違ったのでは。
田島 学食がメインだったんじゃないですかね。あとは店屋物(てんやもん)とか、あと何だっけほら、
岸 山盛りの蕎麦屋がなかった? ガスタンクの方に。
田島 ガテン系の人がたくさん来ている。
藤森 マルガ!
松本 T治さんが大好きだった。M橋さんとかH野さんがすごい量を召し上がる方でマルガで頼んだっていう話を覚えています。
──皆さん、だいぶお店の話で盛り上がりましたが、山﨑さんは今いろいろ出てきたお店の中でどこが一番好きだったんですか。
山﨑 「神戸屋キッチン」はだいぶ好きでしたね。パンがおいしかった。「栄寿し」もすごく安くて、いつも忘年会とか納会のときによく使っていました。美味しかったですね。
──「栄寿し」の名前はよく出てきますね。
山﨑 今もまだありますね。
〈皆「そうなんだ」〉
小澤 車が無いときは、Sさんと二人で頑張って早歩きをして「栄寿し」に時々行っていました。二人で行こうって決めた日は、機械工作室の横の裏門から出ると近いので、そこから出て、ぱっと食べてぱっとお金置いて出てくる、というのがギリギリ出来ました。
──忘年会や新年会はどこでやっていたんですか。
皆さん 地元ではやらなかったですね。
〈新宿や渋谷でやったときの思い出話に花を咲かせる〉
小澤 O田部長が退職されたときの送別会は新宿プリンスホテルで行いました。私でいいのかしらと思いながら花束を渡す役を務めました。なので、世田谷キャンパスの事務全体の夜の会は、新宿や表参道でやる、というイメージです。

──地元での思い出は無いですか?
S 多分、広味坊でやったことがあるはず……。
山﨑 五十嵐さんという方がやっていらっしゃる結構有名なお店でした。お昼は早く行かないとすぐに混んじゃうお店でした。
──次に事件の話題ということで、YKさんが挙げてくださった「自衛隊機墜落事故」です。衝撃的なトピックだったので調べましたところ、1999年11月22日に起こった事件のようです。
YK 僕が入職した年だったんですが、庶務課でしたので、半地下が職場だったんですね。教務課はガラス張りで、昼間は明るいというのがすごく印象的で、施設・経理・庶務にいくに連れてだんだん暗くなっていくんですね。その日、午後2時に、自衛隊機が墜落した時間なのですが、いきなりストンと電気が落ちてしまって……。教務課から「あーっ」ていう声が聞こえてきて、最初何が起こったか分からなくて。パソコンが真っ暗になったんですよ。当時はまだ厚木キャンパスがあった頃で、厚木からの連絡便が確か2時に着くんです。その荷物を仕分ける係だったのに真っ暗だったから仕分け作業がすごく大変で、2時間ぐらい消えたままで仕事にならなくて……。

──どういう原因だったかは、いつ分かったのですか。
YK 家に帰ってテレビをつけたら、狭山の方で自衛隊機が落ちたことが分かりました。埼玉県の狭山で起こった事故の影響で、東京で停電が起こるんだ、っていうのがすごく印象的でした。
──事務室も仕事をしていたと思いますし、授業もあったと思いますが、どういう状態だったんでしょうか?
YK ただの停電にしてはすごい大惨事だと思うんですけど(笑)。
〈皆「記憶にない」と騒然とした空気に〉
岩本 長時間だと実験装置が危ないですよね。
〈皆分からず首を振っている〉
岸 情報センターで電気が落ちたら大変なんで。でも記憶にない。サーバがぶっ飛んだらおおごとですよね。
──YKさんだけというのも不思議ですね。馬場さん、機械工作室は大丈夫だったのですか。
馬場 機械が止まっちゃったっていうことはあったけど、雷だったかなあ? あれは相模原か。記憶にないなあ。
田島 授業をやっている時間だったら大騒ぎになるはずだなあ。
──記録を見ると復旧が早かったようです。「都心の一部は10分前後で送電再開。27分後までに、埼玉を除く約70万軒の送電再開」と書かれていますね。
小澤 YKさんのお話では、庶務のすぐ上のフロアになる教務課で叫んだ方がいたとのことですが、その叫び声も含めて、部署の停電や授業トラブルで先生が駆け込んだりしてきた記憶、全くないです……。もしかして、私が当日不在だったかも?
──パラレルワールドのような不思議な感じですね。ありがとうございました。
──次に Sさんから「ぶっかきでんけい」という言葉を挙げていただいています。
〈皆「あー!」〉
S 世田谷にいた人は、学生も教職員も知っている言葉だと思います。4月に異動したときに、年度初めなので学生証配付などのお手伝いに呼ばれて、教務の人から「これ“ぶっかきでんけい”の順に」って言われたんです。まず何を言われたのか聞き取れず、言葉が聞き取れても意味が分からず、「すいません。“ぶっかきでんけい”ってなんですか?」って聞いたんです。
──頭文字か!
S 分かりました? そう、当時の5学科「物理」「化学」「機械」「電気電子」「経営工」を“ぶっかきでんけい”と理工の人は普通に言うんですけど、キャンパスが違うとわからない言葉があるんだなって思った最初がこの言葉でした。

──渡邊さんは、世田谷キャンパスの思い出として、キャンパスの自然について挙げていらっしゃいます。
渡邊 私が1997年に世田谷から青山に移ったときに感じたのがですね、「ギンナンの出来が、世田谷の方が勝ちだ」と思いました。
松本 確かに実が大きかった。
渡邊 臭いのは変わりないんですけど(笑)、実の大きさが全然違いました。自分なりに考えると、青山キャンパスはコンクリートが多いので、世田谷キャンパスの方が圧倒的に地面が多くて、樹には好条件だったから銀杏の状態も良かったのではないかなと。

──他にもどんな植物があったんでしょう。イタリアポプラが生えているという記事を読んだことがあります。
渡邊 八重桜が結構植わっていました。
田島 テニスコートの脇に、白樺林があったと思います。
渡邊 レンガの塀に沿って、ソメイヨシノも生えていました。
松本 梅の木もあって、近くの小学生が「取らせてください」と言って入ってきたことがありました。


S 正門にクリスマス・ツリー用のモミの木があり、まっすぐできれいでした。そのまま残して今もマンションの入口に立っているはずです。
〈皆「へえー」〉
──そのモミの木を目印に、後日、跡地に行ってみたいと思います。

──最後に、キャンパス移転業務の様子と、世田谷キャンパスへの思いについてお伺いします。岩本さん、お願いします。
岩本 あの当時だから自分も出来たんだなあ、というくらい忙しく、体力的にもきつかったですね。理工学部の移転なので、実験装置、実験機器の移設というのがすごく大変で。馬場さんの機械工作室でもそうですが、一つひとつの機器が大きく、中には特殊なものもあり、精密機器を引っ越し業者とA~Dランクまで格付けをして。設置後も微調整が必要だからメーカーを呼んで調整しなければいけないだとか、そのような過程を経て引っ越したんですけども、すべての研究室にヒアリングをしてやっていくので非常に大変で……。その後決められた期間内に順番に研究室単位で搬出して、相模原ではそれを受け入れる体制を整える。受け入れ先の相模原はゼネコンが工事をしているので、工事と引っ越しの進捗を合わせなくてはいけない。それが引っ越し業者とゼネコンがあんまり仲良くなくて(笑)。相模原になかなか寄りつけない時期もありました。
相模原では外構工事が間に合わないっていう時期もあり、引っ越しは、トラックで建物ギリギリまでにつけて運ばなければならないので、なかなかその調整が出来ない時期もあって、本当にギリギリのスケジュールでやっていました。先生方もそうだけど事務の方も荷物はあんまり多くするなという指示があり「一人何箱まで」という規制がかけられて、皆様に協力していただきました。移設作業の最中に化学科の光延旺洋先生が、元々病気がちだったのですが、体力的にも限界に来ていらっしゃったようで、移転が終わる直前に亡くなられています。ギリギリまで学生に実験をやらせたいという願いもあり、実験もやりつつ引っ越しの準備もやりつつで、結構先生方にはご苦労をおかけしました。僕らも引っ越し業者とほぼ毎日深夜まで残って寝食を共にしていました。

──想像出来ないぐらいのご苦労ですね。
岩本 20年前だったから出来たかなっていう。
──長年いた世田谷キャンパスから出ていくことに対する思いはいかがでしたか。
岩本 荷物が一つずつ減っていくたびにすごく寂しい気がしましたね。日々の業務が終わった後に見回りをするんですけど、だんだんだんだん荷物がなくなっていくわけですよ。先生方の研究室も、実験室もそうですけど、やっぱりちょっと寂しく思いました。 いつだったか、夜にネズミがちょろちょろ走っていて、「キャンパスがネズミに取られちゃう」って思いましたね。
──寂寥感がありますね。
岩本 多分皆さんも同じ思いだと思います。
──小澤さんはどうでしたか。
小澤 引っ越し作業のことを何故かあまり詳しく覚えていないんですが、世田谷キャンパス最終日は、普段は業務が終わったらそれぞれ順次帰宅するところ、教務課の全員で1階フロアを出て扉を閉めて、「このメンバーで集まるのはこれで最後だね」という形で締めくくったはずです。それから、最終日より前の3月下旬には、和食のお店で教務課だけのお疲れ様会をやりましたね。当時の教務課メンバーの行先は青山と相模原がほぼ半々ずつで、私は青山から相模原に新たに配属されることになっていた2名の方に、2002年の秋頃、世田谷まで一度足を運んでいただいて大学院業務の引継ぎをしましたが、世田谷から相模原に行くか行かないか、メンバーによって移転作業への温度差があったかもしれないな、と今になると思います。

──岸さんはどんな思いでしたか。
岸 厚木の物と、世田谷の物と、パソコンも含むんですけど結構な台数を相模原へ持っていかなきゃいけないんで、1回それを綺麗にしなきゃいけないとか、そのときにA坂さんとI田さんと僕だったんですけど、I坂さんは先に相模原に行かれちゃって、僕とI田さんと2人なんですけど、I田さんは青山に行くことになっていて、相模原行くのは僕だけだったんです。さっき小澤さんが「温度差があった」って言われたようにめちゃくちゃ温度差がありました。人生で一番忙しかったんじゃないかな。ちょっと死ぬかと思いました。

──それほどまで!
岸 いろんな物を詰めたり……。岩本さんのプロジェクトのような忙しさではないんですけど、現場として、もう本当に大変な思いをしたって……。細かいことを言うと、厚木と世田谷で持ってる物とか定期購読している雑誌も違って、そういうものを統合して、「どっちのをどうするんだ」っていうことも含めて、いろんな仕事があったので、ちょっと本当に忙しかったっていう記憶があります。
──お疲れ様でした。想像出来ないようなつらさだったのでしょうね。さっきまでの会話の内容と全く違う、悲壮感を覚えます。
〈皆笑い〉
岸 たまに真面目になります。
──YKさんも引っ越しのときに世田谷キャンパスにいらっしゃいましたね。
YK 確か2000年の1月ぐらいに「相模原に土地を買う」みたいなことを聞いたときに、「世田谷がどうなる」っていう話は無かったんですけど、「これから変わるのかな」って感じました。それからたった2・3年で、自分がまさかどっちかに異動するなんて思いもよらなかったので、すごく大きいことが起こったんだな、経験したんだなっていうのを感じました。
──離れるとき、どんな思いでしたか。
YK 岩本さんや岸さんみたいな思い出はないんですけど、庶務から全く違う学生生活グループへの異動が決まっていたので、全然想像が出来ない状況でした。
──ちょっと不安も出てきますよね。 世田谷キャンパスは好きでしたか。
YK 皆さんおっしゃいましたけど、すごくアットホームな感じの、守衛さんが普通に話しかけてくださったりとか、とてもこじんまりとしてて良かったと思います。
──田島さんは移転の直前で異動されていますね。
田島 そうなんですよ。 私は多分、厚木の引っ越しの方をやれっていう感じで、岸さんと別れたのかな、と思っていて。厚木の引っ越しのために最後の1年間、行ったんですよね。 厚木でもやっぱり同じようなことをやってたけど、電車やバスがなくなっちゃうので、逆にもうみんな割り切って、限りある時間の中でやったので、今、岩本さんや岸さんの話を伺って、もしかしたらこっちに残ってた人たちの方が大変だったんじゃないかなと思います。ある意味自分の方がラッキーだったのかなと思いながらも、埼玉から厚木まで毎日片道2時間以上かけてロマンスカーで通ってましたけど……。

──遠いですね。
田島 はい。それで勘弁してもらいました。
岸 その後相模原で一緒に。
田島 そう。また合流するの。
岸 相模原でも、夜11時までやったら「また明日」みたいに。
田島 新しいキャンパスになってからもまた結局やるんですけど、地獄の月100時間超え残業っていうのを2ヶ月ぐらいやったかな。みんなやっていたと思いますよ、当時は。今「やれ」って言われても多分出来ないですよね。さっき岩本さんも仰っていたけど、体力がある若い元気なときだったから出来たなっていう、そんな感じですね。
──世田谷が閉じる1年前に異動になったときの思いって何かありましたか。
田島 やっぱり寂しい感じはしましたし、今や年上の人はほとんどいないので、自分が結構長い、ほとんど一番長いんじゃないかってぐらいな形になってますが、逆にそんなに長くいた感じはしないんですけどね。みんなアットホームで良かったなと思いますね。
──馬場さんは新人から在籍されて、閉じるときの思いはどうでしたか。引っ越し作業なども大変だったと思いますが。
馬場 扱うものが重量物なので、結構それなりに大変でしたね。相模原でのレイアウトだとかいろいろ考えなきゃいけないし、配線をどうするかとか、いろいろ考えたり……。実際引っ越しになったときも重量物なので、いろいろ気を遣いました。移動先も図面でしか分からなくて実際行ってみないと、もう本当に大丈夫なのかってドキドキしましたね。 配置したらそれでもう固定になっちゃうので……。実際にちょっと見に行こうって、まだ工事中の相模原を見に行ったら、怒られちゃって(笑)。現場確認は出来たんですけれども、後から「勝手に行っちゃ駄目だ!」って怒られました。
岩本 開学準備室が厳しく管理していましたね。
馬場 誰かしらには断って行ったと思うんですけど、開学準備室まで話はいってなかったのかもしれない。
〈開学準備室の管理の厳しさの思い出話が展開〉
──世田谷が閉学してしまうことについてはいかがでしたか。
馬場 どうだったんだろう。元々機械工作室の職場がプレハブだったので、そこから綺麗なところに行くのはちょっと嬉しいなっていう思いもありましたけどね。ただ、ずっといたところであり、どんどん機械が出ていってしまうのを見ると、ちょっと寂しいなっていう思いはありましたね。

──藤森さんにとって、世田谷キャンパスはどういう場所だったでしょうか。
藤森 理工学部って本当に今まで縁のない空間だったんですけども、情報科学研究センターには田島さんもいらして、大型の計算機をまだ使っていた時代だったので、メンテをしてくださるアルバイト学生などがいて、すごく良い環境で仕事をさせていただきましたし、事務全体の中でも入試の打ち上げとか一緒に参加させていただいて、すごく楽しい思い出があります。2000年まで世田谷にいて、2001年から開学のワーキンググループに参加することになりまして、 理工学部の引っ越しの仕方について調べろと言われて関西学院大学にヒアリングに行きました。理工学部の引っ越しを経験している大学が少なく、「情報を集めろ」と。実際それが役に立ったかどうかは分かりませんが、そういう経験を積ませてもらいました。

──閉学についての思いはありましたか。
藤森 閉学することに感傷を覚える、というよりも、相模原をうまく開学しなきゃいけないっていう、そちらのバタバタの方に軸が置かれましたね。お別れ会という行事にも参加出来ませんでしたし、あと思い出に浸るために見に行くっていうことも出来ず、相模原でも全然違う部署に異動になったので、僕はちょっとプチって切られた感じで、何か切り分けられない部分が正直あります。
──松本さんは世田谷がなくなってしまうときに、どう思われましたか。
松本 新人のときに配属された場所ということもあり、私も寂しかったので、「跡地にマンションが建つ」という話をいろいろ伺って、校舎が解体されている様子や、新しくマンションを建設している様子を見には行きませんでした。あの場所にたくさんの思い出があるので、今でもまだ存在しているような感じのままです。

──お察しいたします。
松本 新人の頃は、近くにドラマなどの撮影所があるので、「ここはドラマで使ったよ。女優さん(吉永小百合さん)が来て、ここが病院という設定で事務室横のこの階段から撮ったんだ」と先輩職員の方から教えてもらいました。それ以外でも、やはり理工学部の校舎らしく、ロボット系のドラマで使っていたと聞きました。
──ロボット系のドラマ(?)ですか。
〈皆笑い(後日「マグマ大使」と判明)〉
松本 近くに砧の撮影所があるから結構ロケに使ったんだよって、M呂さんに伺って。M呂さんは何でも知っている方でした。改めていろいろな意味で人に自慢が出来るのかわからないんですけど、自分の中では世田谷キャンパスは「誇り」でした。なので、たくさんの思い出とともに、まだそこにある記憶のままですね。でも今日、皆さんがものすごく残業されて相模原へ移転するのに大変だったと、改めて知りました。皆さん本当にお疲れ様でした。
──Sさんも移転のときにいらっしゃいますが、いかがでしたか?
S とにかくやらなければならないことをひたすらこなしていく感じだった気がします。移転をどうするかの検討のときからやることが多く、一言では言い表せないです。
解体が始まる前にと思い、移転した2003年の夏に世田谷キャンパスの前を通ったのですが、祖師谷に向かう通りの塀に丸く穴が開いていて、世田谷キャンパスを壊していく様がせつなく感じられ、それ以来、一度も見に行っていません。見に行くチャンスがなくなったのもありますが、しばらくは理工は理工のイメージで持っていたかった、というのがあったのかもしれません。今は「そのうち見に行ってみよう」と思っています。
──チャペルにあった鐘やステンドグラスとかそういうものは移設したのですか。
S 世田谷キャンパスは「7号館講堂(礼拝堂)」という名称で、鐘もステンドグラスもありませんでした。三輪研究室の院生が廃材で作ったパイプオルガンがあり、周りからは貴重なものだと言われましたが、何年も前から音も鳴らず、三輪先生が「自分が責任を持つから捨てなさい」と仰られたので移設せずそのままにしました。建物の取り壊しの際に一緒に壊されたと思います。
──山﨑さんはいかがでしたか。
山﨑 引っ越しが3月の年度末で、私は経理担当だったんですけど、企業などからの外部資金をすごい金額でもらってくる先生が多くて、その先生方の最後の締めが3月末なんですけど、それを処理しながら引っ越しということで、あの半地下の事務所の自分の席の横に段ボールを置いて、そこにファイルを置きながらそこから出して処理して、また戻す、ということを繰り返していた記憶があります。岩本さんも言ってましたけど、庶務とか経理、施設さんは、夜10時とか11時ぐらいまでいたかなと思います。車で通っていたので結構遅くまででも帰れはしたんですけど……。そうですね、すごく大変でしたね。

──閉鎖に対する思いはいかがでしたか。
山﨑 業務の忙しさで感傷に浸ることはあまり出来ませんでした。皆さんはあんまり見に行けなかったって仰ってたんですけど、翌年、ちょうど車でキャンパスの前を通る機会がありまして……。マンションや、隣にスーパーができていて、スクーンメーカー寮があったところはだいぶ変わっちゃってたんですけど、入口のレンガの塀はそのまま残っていて。もみの木もそのまま立っていたので、見た感じはそのまんまなんですよ。でも「青山学院大学理工学部」と書かれたプレートは取れちゃって、マンション名のプレートがかけられていて。近くにあったバス停の名前も確か「青山学院大学理工学部前」だったものが「千歳台6丁目」に変わっていました。それを見たときはさすがに「あぁ、なくなっちゃったんだな」と思いました。
──現実を突きつけられた感じで、悲しいですね。
山﨑 そうでしたね。
──渡邊さんは新人から入られて途中で世田谷を出られましたけど、どんな思いがありましたか。
渡邊 やっぱり自分が社会人1年目で初めてお給料もらった事務所が無くなるところで、「どうして残すっていう選択肢を選ばなかったんだろう。何も無くさなくてもいいのに」って当時思っていました。
──確かにそうですよね。
田島 悔しくてマンションの販売説明会の話を聞きに行ったんですよ。
〈皆「へえー」と驚いた様子〉
田島 なんかやっぱり思い入れがあったのか、将来的にも面白いなと思って話半分で聞きに行きました。
──そうでしたか。ありがとうございます。
皆さんの思いを知ることが出来ました。ありがとうございました。
思い出は尽きないと思います。まだまだいっぱいお話を聞きたいところですが、ここまでとさせていただきます。
今日は開設60周年の年にふさわしい貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

(了)
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