Interview インタビュー あおやま すぴりっと

シャーロック・ホームズに終わりはない~It is always 1895〈対談〉日暮雅通さん×北原尚彦さん

日本を代表するシャーロッキアンであり、翻訳家、作家として第一線で活躍を続ける日暮さんと北原さん。お二人とも幼い頃からミステリーに親しみ、アインシュタインへの憧れとSF好きが高じて、時は違うものの、本学理工学部物理学科に進み、同じく推理小説研究会に所属しました。実験や研究の傍ら、読書会や会誌作りに熱中します。その情熱が、翻訳家として、作家としての道を切り開くことになりました。

世紀を越えて愛されるシャーロック・ホームズの魅力から学生時代の思い出まで大いに語っていただきました。

(2025年10月20日インタビュー)

シャーロッキアン
元来は「ホームズとワトスンが実在したら」という前提で研究する「ゲーム」を行う熱心な研究家を指したが、現在では「シャーロック・ホームズが好き」ならば全てシャーロッキアン、というようになった。

 

第1章 少年時代からミステリー、SF、理系好き

■いつもそばには本があった ―SF×ミステリーで育まれた少年時代

──まず、お二人の幼い頃から高校時代のお話を伺います。日暮先生からお願いいたします。
日暮 私は千葉県出身なので、夏になるとよく房総の海へ海水浴に行っていました。子ども心に覚えているのは、海の家の中でもとりわけモダンな感じの店があったことです。実はそのお店は、青学の広告研究会が研究の一環として出していた模擬店だということを後々知りました。それが私と青学の最初の出会いですね。小学生の頃はラジオの構造に興味を持ったり、雑誌の付録の工作に夢中になったり。中学時代に真空管ラジオを組み立てたのも楽しかったですね。電気や回路に興味がありました。あの時代の世帯にはよくあった百科事典や子ども向けの文学全集も、兄は読んでいましたが私はほとんど読まなかったので、大人になってから後悔しました(笑)。

 

    日暮雅通さん
日暮 雅通さん

    1954年千葉県生まれ。青山学院大学理工学部物理学科卒業。著作権エージェント等を経て翻訳家として独立。英米の小説、ノンフィクション、児童書など幅広い分野を手掛け、訳書は約200冊。『シャーロック・ホームズ・バイブル』で第76回日本推理作家協会賞受賞。日本推理作家協会、日本文藝家協会、日本SF作家クラブ、日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員。

 

──ミステリーが好きになられたのは高校時代からだったのでしょうか。
日暮 中学からです。相変わらず純文学には興味がなかったのですが、ちょうど文庫版が増え始めたこともあり、エンターテインメント、ミステリー、ファンタジーに親しんでいきました。高校になると、学校帰りに文庫本を1冊買って帰り道で読む、という生活でした。思考法や嗜好は“理系でミステリーも好き”でした。
──最初に興味を持たれたSFやミステリーはどなたの作品でしたか。
日暮 SFはフレドリック・ブラウン(アメリカ)の短編などを好んで読んでいましたね。ミステリーですと、ホームズは別として、G・K・チェスタトン(イギリス)などの古典系ミステリーでしょうか。あの頃は黄金期のミステリーを読むのが最初でしたよね。
北原 ミステリーの入口とでもいうべき作品がありましたね。
日暮 高校1年生の頃に庄司薫さんが『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞され、その中にあった、日比谷高校では生徒がいろいろな同人誌をつくるという話の影響から、僕のまわりでも同人誌をつくる、一種のブームが起きていました。その流れでミステリー研究会を立ち上げて同人誌を作り、文化祭で売ったりしていました。


『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫 2012年2月 新潮文庫
(初出は1969年1月 中央公論社)

 

日暮 このミステリー研究会には、1年下に、フランスミステリーの翻訳家として有名な平岡敦君がいて……。
北原 そういう関係だったのですか?
日暮 そう。文化祭で売る同人誌を黙々と作ってくれました。僕は文化祭のときは軽音のステージなどに行ってしまうので、後日、「あのとき、居てくれなかった」と恨み節を言われたことがあります(笑)。

──北原先生の高校時代までのお話をお願いいたします。
北原 親にもよく言われますが、私は小さい頃から本好きで、図書館に並んでいたポプラ社の『少年探偵団』『名探偵ホームズ』『怪盗ルパン』やSFなどのおどろおどろしたところから読んでいました。どちらかというと『少年探偵団』を多く読んでいました。鉄腕アトム、ウルトラマンの世代でしたので、よくプラモデルも作っていました。模型作りが好きで学研の『○年の科学』の付録、さらには誠文堂新光社の『子供の科学』を読んでラジオを組み立てたり、付録の紙飛行機を作ったりしていました。そのあたりは日暮さんと同じですね。

中学、高校時代は、自宅の国分寺から学校があった吉祥寺までの定期券を手に入れ、帰り道は降り放題、本屋に寄り放題となりました。読みかけの本を読み切ったら途中下車して次の本を買う、といった毎日でした。新刊ばかりだとお小遣いが足りなくなるので、割と古本文化が発達していた中央線沿線の古本屋を巡りました。ミステリーを本格的に読むようになったのは中学2年生からで、当時ブームだった横溝正史の『犬神家の一族』などを読み、3年生のときにはSFも読み始めました。我々の世代は少女漫画も読むのですが、萩尾望都さんの『11人いる!』がきっかけでSFに目覚めたのです。そこからミステリーとSFを交互に読むようになりました。日暮さんのように、サークルを立ち上げるまでは行かなかったですが、友人と学校帰りに古本屋に寄ったりしていました。この頃に、ミステリー、SF、古本という現在に至る私の趣味の3本柱が形成されました。

 

    北原尚彦さん
北原 尚彦さん

    1962年東京都生まれ。青山学院大学理工学部物理学科卒業。作家・翻訳家・ホームズ研究家・古書研究家。1990年に小説家デビュー。小説、エッセイ、翻訳と幅広く手掛ける。『シャーロック・ホームズ語辞典』で第43回日本シャーロック・ホームズ大賞を受賞。ドラマ『ミス・シャーロック』(Hulu)の監修を手掛ける。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。日本古典SF研究会会長。

 


『11人いる! ―SFロマン傑作選』萩尾望都 1976年7月 小学館文庫
(初出は『別冊少女コミック』1975年9~11月号掲載 小学館)

 

第2章 鍵はアインシュタインが握っている!?

■青山学院大学理工学部物理学科に進学

──なぜ文学部ではなく理工学部の物理学科に進まれたのでしょう。
日暮 講談社ブルーバックスの影響が大きいです。都筑卓司先生(当時横浜市立大学教授)の物理に関する著書が次々に出て、高校1年の頃から愛読していました。同じ理系の中でも、特に物理に対する思いが深まりました。北原さんもそうだと思うけど、アインシュタインの影響が大きいですね。
北原 確かに大きいですね。
──アインシュタインは難解ではありませんか。
日暮 確かにその当時はよく分からないけど、憧れなんです。当時、大学の物理学に進んだ人の憧れはアインシュタインだと言っても過言でないほどです。
──北原先生も物理学科に進まれました。
北原 SFが好きだった、という単純な理由でした。SFの中でも理系、特に物理に特化したハードSFにのめり込んでいました。最初に読んだ雑誌『SFマガジン』に堀晃さんの作品が載っていて、すごく憧れました。堀さんはハードSFを書きつつ、技術者でもあったので、「自分も将来、研究をしながらハードSFを書ければなあ」という未来像がぼんやりとあり、物理学科を目指しました。ただ、物理は理論を理解していれば問題が解けるのですが、生物や化学はやたら覚えるものが多くて……。それが苦手で、「英語」「数学」「物理」で受験できる大学として、青学があったという次第です。
──日暮先生は、どういった経緯で青学に進まれたのですか。
日暮 東京教育大学(現・筑波大学)には朝永振一郎先生(1965年ノーベル物理学賞受賞)の教え子など、物理学の凄い先輩方がいると聞いて受験しましたが、残念ながら受かりませんでした。ちなみに、先ほど話に出た都筑卓司先生も朝永先生の教え子です。当時、各大学がアピールのためにも予算を投じて施設拡充している中で、青学は理工学部創設10年目で、私立大としては最新版の大型コンピュータ「IBM360」を「IBM370」に更新したころでした。そういう最先端の施設があることは魅力的に映りました。


IBM360(Wikimedia Commmonsより)

 

──確かにその当時、早稲田大学と慶應義塾大学と同時期に導入していました。また東工大などの国立大学の先生方を本学の教授に迎えていました。
日暮 あの頃は国立系の先生方が多かったですね。なかなか出会えないような、素晴らしい先生方がいたのを覚えています。
──北原先生の連載が掲載されている『本の雑誌』2025年10・11月号を拝読いたしました。その中に、青学の合格発表をご確認されたその足で、渋谷の古本屋巡りをされたと書かれていました。
北原 すぐにタガが外れて本を買いに行きました(笑)。

 

■青山学院大学世田谷キャンパスのこと

──お二人とも本学の理工学部物理学科に進まれましたが、1年次の一般教養課程を学んだキャンパスが、日暮先生は世田谷キャンパス、北原先生は青山キャンパスだとわかりました。
北原 えっ、日暮さんの頃は違ったんですか?
日暮 いきなり世田谷キャンパスで、一般教養で必要な授業だけ、シャトルバスに乗って青山に通っていました。
北原 ええ、知らなかった。そんな時代があったんですね。
日暮 だから、世田谷キャンパスから青山キャンパスに来ると世界が違うんだよね。
北原 ああ、それはまあ、ありましたね(笑)。
日暮 色鮮やかだなと(笑)。
北原 今知って衝撃だったのですが、もしかして1年次に青山キャンパスに通ったのは数年間しかなかったんでしょうか。わたしの次の学年は厚木キャンパスなんです。日暮さんの頃で違うとなると、10年もなかったんでしょうかね。実は、私の世代まではずっと1年次は青山キャンパスに通っていたと思い込んでいたので。
──1978年から81年までだったようです。
北原 たったそれだけだったんですか?
日暮 じゃあ僕が卒業してすぐか。次の年から青山キャンパスに来たんだ。
北原 一般教養の1年間だけですが。私の次の学年からは厚木キャンパスができて、文系は1・2年が厚木、3・4年が青山になったんです。理系は1年が厚木、2年から4年が世田谷ということに。
日暮 確かに僕らの頃に、一般教養のためにバスに乗って青山キャンパスに行くのが大変だっていうのがあったからな。次の年から変えたのかもね。
北原 だから1年間だけはずっと青山キャンパスに通って、2年からは世田谷キャンパスとなっていました。
──もともとは1年次は青山キャンパスで履修することになっていたのですが、学生運動が盛んになって、青山キャンパスに入れなくなってしまった時期があったそうです。当時、世田谷キャンパスの方は落ち着いていたので、そちらで授業を、となったそうです。
北原 学生運動の影響があったのですね。
日暮 じゃあその前は理工学部も青山キャンパスだったんですか?
──はい。1970年から1977年度まで、世田谷キャンパスで全ての授業を履修することになったようです。
北原 そんな変遷があったんですね。面白い。今日一番面白いかも(笑)。
日暮 高校でもありました。大学紛争が高校にも飛び火して。僕らが高校に入学する前の年に図書館封鎖とかありましたね。それで生徒会が解散させられて。入った年には高校の紛争は終わっていたんですけど、まだ名残がありました。その頃は大学はみんな大変だったんでしょうね。なるほど。
北原 今日は歴史が良く分かりました。

世田谷キャンパス
世田谷キャンパス 1965-2003

世田谷キャンパスの歩みは、下記ページをご覧ください。

 

■授業あれこれ

──それでは大学に入学されてからの理工学部での思い出をお聞かせください。
日暮 最初に驚いたのは、指定された「バークレー物理学コース」という5冊の教材すべてが英語のテキストだったことです。授業は日本語ですが、学生一同面食らいました。そのテキストを実験的に使った初期のことだと思います。英語はあまり得意ではなかったのですが、必死に読んだおかげで英語で物事を考える良い勉強になりました。きつかったのは、千葉から通学していたので片道1時間半以上かかり、当時は実験が終わるまで帰ることはできませんでした。しかも実験が終わればみんなで飲みに行ってしまうので常に寝不足で眠かった(笑)。


『バークレー物理学コース1 力学(下)』〈復刻版〉今井功監訳 2011年 丸善

 

北原 私は高校時代よりも行動エリアが広がり、古本屋巡りがますます楽しくなりました。2年次からは実験が多くなり、物理の統計実験だけではなく、化学の定量実験や工学の旋盤実験などいろいろやりました。理工学部は進級のために必要な最低限の単位が厳密に決まっていて、毎年、悲鳴をあげながら単位を取っていたおかげで、4年間で卒業できました。
大きいコンピュータがあって、パンチカードを打ってセットして演算をさせたり、当時としては最先端でした。「自分は今、すごいことをやっている」という実感がありましたね。パンチカードって、自分で買っていましたっけ?
日暮 購買会で買うんだよね。
北原 そうでした。購買会に“どーん”と置いてありました。
日暮 たくさん間違うとやり直しなのでいっぱいお金がかかってしまう……。
北原 ほんの一行間違うだけで、プログラムが走らない。
日暮 8年経っても同じことやっていたの?
北原 まだ私の頃もそうでしたね。青学らしいなと思ったのは、英語の授業でドラマや映画の映像を見てリスニングする授業があって、すごいなと思ったことを覚えています。
──卒業研究では何をテーマにされたのでしょうか。
日暮 朝永振一郎先生のお弟子さんである池田正幸先生が青学にいらして、先生の影響が大きかったですね。卒業研究は、横井敬先生に付いて実験物理で宇宙線の観測と分析をするはずだったのですが、すでに翻訳の仕事を始めていたので、研究室にはほとんど顔を出せませんでした。
北原 私は、ハードSFの堀さんの有名な作品『太陽風交点』の影響で、理論物理系の研究室に入り、「太陽風の噴出」をテーマに卒業研究をしました。計算ばかりしていたので、宇宙の構造の研究をもっとやりたかったな、という思いはありましたね。


『太陽風交点』堀晃 1981年3月 徳間文庫
初出は1979年11月早川書房。第1回日本SF大賞を受賞

 

第3章 手掛かりは、推理小説研究会にある。

■未来の小説家が集う推理研

──ハードな勉学の一方で、お二人とも推理小説研究会(推理研)所属だったと伺っています。
日暮 当時はそれぞれの大学にある有名なミステリー研や軽音のサークルに入りたいからといった理由で受験先を選ぶ人もいました。私はとにかく物理学科に進学するということに必死でしたが、入学後は北原さんと同じく、推理研に入りました。
北原 私は推理研がミステリーもSFも扱っているというので、すぐさま入会しました。日暮さんもOBとして顔を出してくださっていましたね。8歳違いでしたが、すでに翻訳本を出されていて「あの翻訳者が先輩だったのか! しかも同じ物理学科とは!」と驚きました。
日暮 ミステリー作家の山村正夫先生が学外顧問をしてくださってたね。
北原 私が入学したての頃、新入生サークル勧誘で推理研を訪ねたとき、「山村正夫って知ってる?」と聞かれました。入部テストのようなものだったらしく、知っていることを伝えたら「おーっ」と言われました。学外顧問といっても公認というわけではなかったので、みんなで「師匠」とお呼びしていました。森村誠一さんを連れてきてくださったこともありました。菊地秀行さんもOBでした。日暮さんのちょっと上でしたか。
──調べたところ、シャーロッキアンの先輩だと思いますが、日本シャーロック・ホームズクラブの主催者で精神科医の小林司先生が、当時、女子短期大学で講師として勤めていらっしゃったと思います。
北原 青山キャンパスでばったりお会いしたことがあります。「短大のカウンセリング室にいるから遊びにおいでよ」と言われましたが、さすがに青短のカウンセリング室には行けなかったですね(笑)。
──推理研ではどのような活動をされていたのでしょうか。
北原 部室代わりになっていたロビーにはたいてい誰かしらいて、授業が終わったら近くの喫茶店でおしゃべりをする。実際の活動日である水曜と土曜日には読書会などをしていました。SFとミステリーを交互に読んで、感想や意見を言い合う。当時は読書会があまりメジャーではなかったので、1冊の本についてみんなで話し合うことはとても新鮮でした。それから年に4回、ガリ版印刷の『AMマンスリー』という会誌を発行していました。マンスリーと言いながら、年4回の発行でしたが(笑)。
みんなで書いて、蝋引き(ろうびき)原紙の下にヤスリ板を敷いて鉄筆で書くガリ版印刷の最後の世代でした。ロビーで作業していたらお年を召した方に「懐かしいことをやっていますね」と言われたことがあります。読書会と会誌の作成、夏と冬休みの合宿、そして飲み会が主な活動でした。
日暮 そうそう、会誌を刷るまでが大変だった。原稿を督促して、集めて、編集して、それをみんなで集まって徹夜でやってたよね。
北原 徹夜で「ガリ切り」するから「徹ガリ」と言っていましたよね。終わった後は、中目黒で打ち上げです。今と違って渋谷で飲むより安かったので。
日暮 ミステリー研は、慶應、早稲田、立教、そして青学の順でできましたね。早稲田は会員数も多くて、様々な会誌を作っていました。ガリ切りのプロのような人がいて、すごくきれいに仕上がっていました。うちは少ない部員で作って、字が汚くて読めない(笑)。
北原 わたしも下手で、自分の字だと分かるんだけど、汚い(笑)。

 

■学園祭の準備はいいか?

日暮 青山祭の思い出も大きいですね。ちょうちん行列で練り歩きました。一方、世田谷キャンパスの学園祭(廻沢祭)では、物理学科で女装喫茶などの企画をやりました。


1974年の青山祭にて。右が日暮先生。当時はディア・ストーカーをかぶっていた

 

北原 ちょうちん行列では1年生全員、女装で参加しました。
日暮 その伝統は僕の頃にできたんじゃないかな(笑)。
北原 (笑)ひどい伝統を。でもみんなノリノリで女装していました(笑)。
日暮 北原さんの頃は「恐怖の館」をやっていましたか? 僕らの頃は、江戸川乱歩の研究発表でしたが、ほぼお化け屋敷になっていました。
北原 そう、研究発表と見せかけて……。私の頃はSFやホラー映画に登場するモンスターを作っていました。最後に陳列しているモンスターの中に人が入っていて、わっと脅かすことをやっていましたので、ほぼお化け屋敷ですね。
日暮 そうそう、エイリアンも作っていたじゃない。
北原 先輩が作ったのが残っていて、それを身につけて呼び込みでキャンパスを回っていました(笑)。


青山祭の推理研の出し物で、エイリアンの着ぐるみを着て餅つきをする北原先生

 

日暮 僕は軽音もやっていたので、廻沢祭(世田谷キャンパスの学園祭)では他大学の学生と一緒に演奏もしていました。
当時の僕らにとって、青学といえばブルーグラス(アメリカの伝統的な音楽ジャンル)の名門「ブルーマウンテンボーイズ」があったことで有名でした(現在もOBが活躍中)。推理研に入っていなかったら、音楽のほうに行って、同じ頃活動を始めていたサザンオールスターズの人たちと会えたかもしれませんね。物理とミステリーとブルーグラスという3つの要素で青学を選んだと言えるかもしれません。
──いろいろなさっていたのですね。
日暮 若くて怖いもの知らずだから(笑)。上手い人を見ていると、自分もできる気になっちゃうんですね。でも、演奏はもう遠ざかってしまったので今は無理です。

 

第4章 名探偵登場!

■お勧め作品、好きな言葉・キャラクター

──シャーロック・ホームズを初めて読んだのはいつ頃でしょう。
日暮 小学生の頃に読んだはずですがどれが最初だったか、よく覚えていないんです。江戸川乱歩との出会いなら覚えていますが……。気づいたら既にあった、という感じだったので。中学生のときに新潮文庫版の『シャーロック・ホームズの冒険』を読み、本格的に全編読もうと思ったのが、創元推理文庫版のシリーズでした。


『シャーロック・ホームズの冒険』阿部知二訳 1960年 創元推理文庫

 

北原 私も本格的に読んだのは創元です。小学生のときに最初に読んだホームズ本は、ポプラ社の「名探偵ホームズ」シリーズ(山中峯太郎・文)の『怪盗の宝』でした。原作を少しアレンジして書かれたものでしたが、子ども向けながらとても面白くて。ですが次はホームズは出るけれどモーリス・ルブラン作のルパン物『怪盗対名探偵』を間違って読んでしまいました。装丁が似ていて……。なんか変だなと思い、そこで一旦止まってしまいました。その後、中学生になって推理小説を読み始め、たまたま家にあった『シャーロック・ホームズの冒険』を読み、すごく面白くて、全編読みました。


『名探偵ホームズ全集7 怪盗の宝』山中峯太郎訳 1954年6月 ポプラ社
書影は北原先生が当時読んだ頃のもの

 

──おすすめの作品とその理由を教えてください。
北原 我々は60編すべてを愛しているので難しい質問です。もしホームズを初めて読む人にすすめるというのなら、やはり『シャーロック・ホームズの冒険』です。シリーズの中でも特に完成度が高く、ホームズとワトスンの魅力が凝縮されています。短編なのでテンポ良く読め、名作揃いですから、どの話から入っても楽しめると思います。ただ、ホームズとワトスンの出会いから物語をたどってみたいという人には、最初の長編『緋色の研究』を読んだ方がいいかなと思います。ですが『緋色の研究』の後半はホームズが出てこないウエスタン小説みたいなパートがあって、そこはもしかすると“ホームズの話じゃなくてつまらない”と思う人もいるかもしれません。ですので、非常にずるいやり方なのですが『緋色の研究』でホームズとワトスンが出会って事件が始まるあたりまで読んでから『シャーロック・ホームズの冒険』を読むと、一番楽しめますよ。ちょっとアクロバティックなおすすめですが(笑)。
日暮 僕の場合も条件付きの答えになりますね。「ストーリーとして面白い」だとか……。自分が「子どものころから強烈に印象づいている作品」という条件だと、僕の場合は『バスカヴィル家の犬』と『まだらの紐』です。どちらも子どもにとっては少し怖い物語で、その不気味さゆえに記憶に焼きついています。ホームズ作品の中には論理的な推理の面白さだけでなく、こうしたホラー的な要素を持ち合わせているものもあります。一方、エンターテインメントとして完成度が高いと感じるのは『赤毛連盟』です。北原さんもおすすめされている『シャーロック・ホームズの冒険』に収められており、軽妙なテンポと鮮やかな謎解きが見事で、初めてホームズを読む方にもぴったりだと思います。第一短編集である『シャーロック・ホームズの冒険』には代表作が多く収められており、シリーズの中でも脂が乗った時期の作品が多いです。
──作品中の好きな言葉は何でしょう。
日暮 ホームズの言葉の中で特に印象に残っているのは、「些細なことこそ重要だ」という一節です。小さな違和感や何気ない行動の中に真実が潜んでいるというその視点に、ホームズらしさを感じます。
北原 日暮さんと重なりますね。それ以外で言えば、「勉強には終わりがないんだよ」というセリフです。最後の最後に最大のものが待っているんだと、ホームズが放つこの一言に深いものを感じます。

 

■ワトソニアン

──ホームズ物語の中で、ホームズの次に好きなキャラクターは誰でしょうか?
北原 それは、ワトスンと答えるしかないですけど(笑)。
日暮 いちばん好きなキャラクターという設問だとしても、必ずしもホームズと答えるとはかぎらないですね。
──そうなんですか!
日暮 シャーロッキアンでなく“ワトソニアン”と称する人たちもいます。「ワトスンが大好きっ」という。
北原 いますね。ホームズのシリーズは、ホームズとワトスンと二人を立てたところで、非常に成功している。史上最も成功したキャラクター小説だと私は思っています。ホームズ以前の探偵小説でも、例えば、エドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンや、エミール・ガボリオのルコックなどの探偵がいますが、ホームズに対してワトスンを立てたのが、やはり大成功した理由であり、未だに140年以上読み継がれている理由だと思っています。だから、やはりワトスンかなと思います。
日暮 僕も同じですね。だいたいそのあたりは意見が一致していますね。


ジョン・H・ワトスン John H. Watson
illustration by Sidney Paget.The Strand Magazine in October, 1891.(Wikimedia Commmonsより)

 

──ちなみに、ホームズとワトスン以外であれば、誰でしょうか。
日暮 ホームズ物語の場合、悪役を含む強烈なキャラクターって、登場してすぐいなくなる人ばかりですからね。ずっといるのはハドスン夫人くらいですし。ホームズがただひとりその能力を評価した女性であるアイリーン・アドラーという考え方もあるんですけれど、やはり1作だけでいなくなってしまったし。北原さん、だれかいますか?
北原 モリアーティ教授でしょうか。「最後の事件」と『恐怖の谷』の一部に登場するだけですが、ほかに“モリアーティ亡き今”という形で書かれている作品もあるので、後まで影響しているといえば影響していますね。
日暮 確かに。モリアーティの場合、少し専門的になってしまうのですが、様々なパロディが書かれ、彼に対する考え方もどんどん変わってきていて、実は善人だったという説もあるし、そういう意味では変幻自在でいいキャラクターです(笑)。


シャーロック・ホームズとモリアーティ
illustration by Sidney Paget.The Strand Magazine, December 1893.(Wikimedia Commmonsより)

 

日暮 (インタビューアーに)お二人は誰かいますか?
──アイリーン・アドラーとハドスン夫人でしょうか。ハドスン夫人はホームズとワトスンのそばにずっといられるので。
日暮 それは確かに羨ましいですね(笑)。

 

■時を越えるホームズ&ワトスン

──映像作品における理想の配役はありますか?
日暮 日本だと岸田さんがいたね
北原 岸田森さんですね。ホームズを紹介する番組内の短いドラマでホームズを演じられていて、それがぴったりとはまっていたんですよ。


岸田森さん 『婦人生活』1966年より(Wikimedia Commmonsより)

 

日暮 ホームズクラブでも、岸田さんがいいっていう人、結構多いよね。昔、ドラキュラじゃなくて、なにかに出ていたよね?
北原 和製ヴァンパイア映画「血を吸う」シリーズですね。私は、岸田さんといえば『怪奇大作戦』とか『帰ってきたウルトラマン』のイメージが強いですね。
日暮 僕の頃は『怪奇大作戦』かな。
北原 あと『傷だらけの天使』の時の脇役。昔のドラマ好き、昔の特撮好きの人だと、岸田森大好きっていう人は結構いますね。岸田森ホームズだったらモリアーティを、仮面ライダーで『死神博士』役を演じた ……… 天本英世さん! あの方のモリアーティはちょっと観てみたいですね。
日暮 合うねえ。


天本英世さん 「天本英世記念館をつくる会」ウェブサイトより

 

北原 twitter上で「この配役が良い」とつぶやいたら、わりと賛同を得られました。ワトスンは、誰がいいでしょうかねえ?
日暮 ワトスンにこの役者っていうのは日本人にはいないなあ。
北原 実際に演じた人となれば、ジェレミー・ブレットとデビッド・バークってなっちゃうんですけれど。
日暮 過去のテレビや映画でどれが一番かって問われればね。
北原 グラナダ版の『シャーロック・ホームズの冒険』だと、前半と後半でワトスン役がデビッド・バークからエドワード・ハードウィックに代わっているんですが、私は前半のデビッド・バークの方が、わりとかっこいい感じでいいと思います。それ以前、ベイジル・ラスボーン主演のホームズ映画シリーズでナイジェル・ブルースが演じたワトスンがいかにも間抜けな感じだったために、ワトスン=間抜けな引き立て役というイメージが定着しちゃっていたんです。それを、原作のワトスンは“もっとちゃんと対等なパートナーなんだよ”って引き戻してくれたのが、ジェレミー・ブレット=ホームズに対する、デビッド・バーク=ワトスンでした。やはりこのコンビというのはシャーロッキアンにとって非常に重要なんですよ。
日暮 『The Private Life of Sherlock Holmes(シャーロック・ホームズの冒険)』(1970)というビリー・ワイルダー監督の映画でロバート・スティーヴンスという役者がホームズを演じたんですが、僕は彼がはまり役だと思っています。
北原 まさにそうですね。三谷幸喜さんも、ビリー・ワイルダーのホームズ映画が好きだって言っていましたね。三谷さんはもともと、ビリー・ワイルダーの映画全体がお好きなのですが……。
日暮 1970年まで日本では、ほぼ劇場でもテレビでもホームズ映画はなかったので、僕らにとって初めてのホームズ映画を劇場で観たという意味でも貴重でした。ロバート・スティーヴンスをはじめ、だいたい有名なホームズ役者ってシェイクスピアの作品で演じています。シェイクスピア俳優はみんな演技が上手いですね。シェイクスピアもそうですが、ドラキュラ役を演じた人がホームズ役を演じることも多いですよね。
北原 ジェレミー・ブレットも舞台でドラキュラを演じたことがあります。岸田森さんも、日暮さんが先ほど言われていたように、ヴァンパイア映画で吸血鬼役を演じています。吸血鬼役をやっている人とホームズ役はよく合う。


雑誌『ストランド・マガジン』(Wikimedia Commmonsより)
『シャーロック・ホームズ』シリーズを掲載した月刊誌。1891年に大衆向けに創刊された。『シャーロック・ホームズ』が不動の人気を誇るきっかけとなった。雑誌もホームズのおかげで売れに売れた。

 

■人々を魅了するもの

──ホームズの物語はなぜこれほど人を惹きつけるのだと思われますか。
日暮 ホームズの物語の魅力を語るとき、まず「時代の違いを理解すること」が大切だと思います。たとえば、同じ名探偵ものでも、ホームズの時代は推理小説の黎明期でした。後の黄金期とは前提が異なり、今のように読者が作家にフェアな立場で挑戦するパズル小説としての形式は、まだ確立されていなかったのです。それでも面白いのは、そこに論理の力があったからです。作者コナン・ドイルは、当時の小説にはなかった「理性による謎解き」を物語の軸に据えました。ただし読者はホームズと競い合うのではなく、ワトスンと一緒に驚き、感心しながら物語を追っていきます。ワトスンが「そんな推理があったのか!」と感嘆するたびに、読者も同じ感情を味わう。つまり、読者はパズラーではなくワトスンの目を通してホームズを見ているのです。この探偵と語り手のコンビの関係性こそ、140年近くも読み継がれている最大の理由だと思います。
北原 時代背景がヴィクトリア朝だという点も魅力的ですよね。ロンドンに地下鉄が開通しながらもまだ馬車が主要な交通機関であったり、電報から電話へと移り変わるなど科学や技術が発展しはじめた一方、心霊現象や超常的なものも流行っているという混沌とした社会の中で、ホームズが理性と知性で〝ずばり〟と真実を解き明かしていく。たとえば『バスカヴィル家の犬』では、伝説の怪犬という超自然的な要素が登場しますが、実際には科学的に説明できるトリックとして描かれます。その点も魅力です。
──理系の方の心にも訴えてくるのですね。
日暮 科学の発明なども、まさに過渡期でしたね。いろいろな新しいものが出てくる。そういう面白い時代でした。
北原 だからコナン・ドイルが科学的に間違ってしまっている作品もあるんですよね。
──なにかと惹きつけられる時代なのですね。
北原 アガサ・クリスティーやエラリー・クイーンの時代などもそれぞれの時代なりの魅力はあると思うのですが、たとえばクリスティーですと、ポワロはなぜベルギー人なのに、イギリスにいるのかとか、その辺の時代背景をからめると面白いでしょう。


サー・アーサー・コナン・ドイル Sir Arthur Conan Doyle 1859-1930
(Wikimedia Commmonsより)
『シャーロック・ホームズ』シリーズは、長編4冊、短編集5冊(短編56作)の合計60作品から成り、これを正典または聖典と呼ぶ。別の作家がドイルの作風で書く二次創作物をパスティーシュなどと呼ぶ。

 

 

第5章 シャーロック・ホームズは終わらない
シャーロッキアンとしての活躍

■ご自身の思い入れのある作品

──ご自身が関わったなかでいちばん思い入れのある作品についてお聞かせください。
日暮 私にとって転機となった『シャーロック・ホームズ事典』です。実は大学院に進んで物理の研究を続けるつもりだったのですが、在学中に推理研の先輩からこの事典を翻訳する仕事を紹介され、方向が大きく変わりました。まだ若かったので「これで翻訳家になれるかも」と思ったものです。実際はまだまだ厳しいのですが、一番思い入れがあり、苦労し、楽しかった、そういう作品ですね。


『シャーロック・ホームズ事典』パシフィカ 1978年
訳者の一人として名を連ねた。日本シャーロック・ホームズ大賞の前身「第1回延原賞」受賞作

『シャーロック・ホームズ・バイブル 永遠の名探偵をめぐる170年の物語』日暮雅通 早川書房 2022年
第76回日本推理作家協会賞受賞作、第45回日本シャーロック・ホームズ大賞受賞作

 

北原 一番思い入れがあるのは、自作のパスティーシュ集『シャーロック・ホームズの蒐集』です。ホームズの正典全60作品を読み尽くしてしまい「これで終わりか」と思ったとき、ほかの作家が書いたホームズものがあると知り、「これを読み続ければホームズは終わらない」と思いました。やがて編集者から「パスティーシュを書いてみないか」と声をかけてもらって書いたのが、この作品です。原作の中で名前だけ登場する〝語られざる事件〟を短編として書き起こしたもので、苦労した分、愛着があります。


自作の初のパスティーシュ集『シャーロック・ホームズの蒐集』北原尚彦 東京創元社 2014年

『シャーロック・ホームズの建築』北原 尚彦(文)、村山 隆司(絵・図) エクスナレッジ 2022年
第45回日本シャーロック・ホームズ特別賞受賞作

 

──仕事の中で、物理学や大学での学びが役立っていますか。
日暮 翻訳の仕事全体のうち科学や技術、デジタル関係に関わるものも多いので、そうした領域では確かに理系の素地が生かされています。仕事全体で活かされていると感じるのは、意外にも大学の必修だった「キリスト教概論」です。当時は「物理を学ぶのに聖書なんて必要あるのか?」と思っていましたが、翻訳の仕事をしていると、必ずといっていいほど聖書の引用や寓話が出てきます。「あのときの話だ」と思い出す瞬間が少なくありません。また、英文学の授業では古典の英詩を学び、初めてその世界を知ると同時に、「英詩を知っていないと、今後海外の人と渡り合えない」と思いました。聖書とワーズワースなどの英詩は知っておく必要があり、役立っていると感じます。
北原 理系が活かされたと思う場面はいくつもあります。特に印象深いのは、『シャーロック・パズルブック』を監修したときです。現代版ドラマ「SHERLOCK」を題材にしたクイズ集で、英単語のアナグラムや数理パズル、暗号、演算問題などが多数含まれていました。当初はホームズ関連の監修だけを担当する予定だったのですが、計算式の誤りを見つけてしまい、結局すべて自分で検算し直すことになりました。シャーロッキアン的知識と理系の知識両方が役立つ仕事で、「理系でよかったな」と思いました。

 

■これからの挑戦

──今後挑戦してみたいことは何でしょう。
日暮 海外のホームズ研究団体「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」の歴史をまとめた本が5冊あり、その著者と「このシリーズを日本語に訳す」と約束していたのですが、彼が亡くなってしまいました。これは必ず形にしなければならない使命だと思っています。一方で、いつかオリジナルのミステリーや、高校生の頃からの憧れの青春小説、あるいはSF作品を書いてみたいという願望を、心の片隅で温めています。
北原 ぜひ読みたいです。書いてください。
──北原先生はいかがですか?
北原 私は、雑誌「建築知識」に連載中の〈シャーロック・ホームズの建築〉シーズン2を完結させ、1冊にまとめることが一番の目標です。そしてパスティーシュの続きの執筆や、少しはめを外して、対決ものパロディの長編小説も書いてみたいです。また、古いホームズ・パロディのアンソロジーをまとめたことがありますが、次は現代のミステリー作家さんたちに声をかけて、新しいホームズ作品を集めた現代版アンソロジーを企画してみたいですね。
日暮 アンソロジー、いいですね。日本ではホームズの現代ものの書下ろしがほとんどありませんからね。やるべきです。
──おふたりにとってシャーロック・ホームズとは。
北原 趣味の一つであったはずが、気がつけば自分の人生と切っても切れないものになっていました。憑りつかれているようなものですが、ホームズの本をめくる人が一人でも増えてほしいと思っています。
日暮 私は北原さんと同じでシャーロッキアンですが、それが仕事になっているということは、仕事と生活がホームズに直結しているわけです。一時「ホームズばかりやっている翻訳家」と言われて悩んだこともありましたが、今は死ぬまでやろうと開き直っています(笑)。
──コナン・ドイルも同じように悩んで、シャーロック・ホームズシリーズを書くのを一度やめたときと似ていますね。
日暮・北原 (笑)
北原 (笑)まさにそんな感じですよ。
日暮 そうかなあ(笑)。

 


ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(BSI)1940年(Wikimedia Commmonsより)
ホームズ関連の団体のなかで最古(1934年創立)の団体。ホームズの誕生日とされる1月6日に近い金曜日に行う年次総会の夕食会が有名。入会が難しく、数少ない日本人会員のなかの一人が日暮さんである。

 

最終章 若者たちへのメッセージ

■1本の鋭く尖った芯を持つ 人との出会いを大切に

──最後に若者たちへメッセージをお願いいたします。
北原 私が大切だと思うことは、なにか一つのことを続けることです。長く続けていると、自分の中に新しい発見が生まれてきます。また私の古本の師匠だった横田順彌さん(SF作家・明治文化史研究家)は「遠回りをしてごらん」と言っていました。調べ物でも、最初から目的地に最短距離でたどり着くのではなく、寄り道をすることで思わぬ知識やつながりが得られ、結果的に物事を立体的に捉えられるようになります。そして、学生時代にはぜひ人間関係を築いてください。私も推理研での仲間とのつながりが、後に仕事や執筆活動で大きく生き、影響も受けました。
それから本を読むことも大切です。誰かが「興味の持ち方は〝がびょうの形〟にするといい」と言っていました。丸い部分のように幅広くいろいろな分野に関心を持ちながら、その中に1本だけ鋭く尖った芯を持つということです。本から広く知識を得て発想が豊かになり、しかも1本の芯があることで自分の軸がぶれません。
日暮 皆さんに伝えたいことは、人でも物でも何でも、出会いを大切にすることです。人生を変えるきっかけは思いがけないところにあります。出会った瞬間に価値がわからなくても、後から振り返って「あれが良かった」と思えることは多いものです。私自身、大学時代にテキストや先生との出会いがあり、推理研の先輩を通じて『SFマガジン』の元編集長で、『月刊ムー』の創刊号から携わっている現顧問の南山宏さんと出会いました。資料整理の手伝いをしていたら「書いてみないか」と誘われ、英語の資料をもとに少年誌の記事を書いたこともあります。そうした経験で英語力と記事をまとめる力が飛躍的に伸びました。さらに就職活動に出遅れた私が最後に巡り合ったのは翻訳エージェントの会社で、社長も役員も著名な翻訳家。文書などすべて英語でやりとりする環境で鍛えられたことで、また成長できました。振り返ると、人生は出会いの連続です。だからこそ自分を小さく制限せず、可能性を信じて歩んでほしいと思います。

──本日はお忙しい中、ありがとうございました。

 

 

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■あとがき1
すべては2024年、青山学院創立150周年を迎える年――

アオガクプラスでイギリスの文化と演劇にまつわるコラム『佐久間康夫の「この世という広大な劇場」』(現在休載中)を連載していただいている佐久間康夫名誉教授から、青学出身でシャーロック・ホームズ全集他、訳業で著名な翻訳家の日暮雅通先生と、小説家の北原尚彦先生をご紹介いただいたことに始まります。

「推理小説好きで、知らぬ者はないVIP」

である日暮先生と北原先生に取材時(取材前から!)ガチゴチに緊張しましたが、穏やかで優しいお人柄のお二人に救われ、終始和やかで笑いの絶えない対談となりました。

本学での出会いや学びが現在にもつながっているというお話に感動し、創作と翻訳に情熱を燃やし続けるお二人の言葉
「興味の対象を画鋲の面のように広くし、一点に集中すること」
「出会いを大切にすること」
が胸に響きました。

日暮先生、北原先生、お忙しい中、お時間をいただきましたこと、本当にありがとうございました。
佐久間先生、素晴らしいお二人をご紹介くださいましたこと、感謝申し上げます。

そしてお読みくださいました皆様、ありがとうございます!
来年は2026年で21世紀も1/4を超えていきますが(it is always 1895!)、
どうぞこれからもごひいきくださいますよう、よろしくお願いいたします!! (聖)

 

■あとがき2
青山学院創立150周年を記念し、我が部の(聖)が企画した「EverGreen150 わたしたちのとっておき」で、ご自身の“永遠の名作”を紹介してくださった日暮雅通さん、北原尚彦さん。その際に、快くお引き受けくださった印象を(聖)が覚えていたこと、そして、大学理工学部と世田谷キャンパスの開学60周年の年にもあたることから、「あおやま すぴりっと」にご登場いただいてはどうか、という結論に至りました。

ただ、お二人の仲はどうだろう? 同業者としてライバル視していて、仲が良くなかったら中止かな? などと余計な心配をしつつお二人にご連絡したところ、お二人でのご相談の上、ご快諾をいただくことに。

お二人の間柄を知ることができ、しかもご快諾を得て、大変うれしく思いました。と同時に、にわかに、事の重大さに気づきます。
Wikipediaで「シャーロッキアン」と調べると、「著名なシャーロッキアン」の項には15名の名前が並んでいます。アイザック・アシモフ、フランクリン・ルーズベルト、牧野伸顕、そしてお二人の名前が並んで載っているではないですか!

これは下手な記事を載せるわけにはいかない、と(聖)と私は急遽、お二人のご著書を調べ、購入または図書館で借り、何十年ぶりかのシャーロック・ホームズの物語を読み漁ることに……。

そして迎えた対談当日。お二人の先輩・後輩の関係を越えた、シャーロック・ホームズに対する真摯で探求心のあふれた、知識の豊富さ、そしてジェントルマンとしてのふるまいに感銘を受けました。個別にお話をお聞きしてもよかったと思うほど、時間が足りなく、用意した質問の半分程度で終わってしまいましたが、対談をしていただいたおかげで、お二人の親しいお付き合いぶり、青学だからこその学びの発見、日本のシャーロッキアンの重鎮としての奥の深いお話を伺えたと感じています。

わが青学が生んだ偉大なシャーロッキアンのお二人をご紹介でき、感無量です。 (高木)

 

「青山学報」294号(2025年12月発行)掲載分に追加して掲載しました
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