旅先で出会う青山学院 17【豊国(とよのくに)大分】
2025/12/04
大分は、かつて「豊国(とよのくに)」と呼ばれていた。冬の日豊(にっぽう)本線の車窓から眺める風景には、雄大な大河こそ見えないが、四方を山々に囲まれた、穏やかで肥沃な穀倉地帯が広がっている。荘園時代の原風景を今に伝える田染荘(たしぶのしょう)も含まれ、この地の歴史と風土を象徴している。

「豊前(ぶぜん)」と「豊後(ぶんご)」に分かれたのは、7世紀後半のことである。大分県内では、戦国大名・大友宗麟が今なお高い人気である。江戸時代には、日田に幕府直轄地(天領)が置かれたほか、中津藩、府内藩、杵築(きつき)藩、日出(ひじ)藩、森藩、臼杵(うすき)藩、佐伯藩など、多くの藩がこの地に点在した。大分県、すなわち旧・豊前・豊後の全域を一円的に支配していた時代は、大友宗麟の治世にまでさかのぼる。府内(現在の大分市)を拠点とした宗麟は、九州北部一帯にその勢力を拡げ、フランシスコ・ザビエルを招いてキリスト教の布教を許可し、その活動を保護したことで、多くの信者を得た。江戸時代に入っても、各地の村々では隠れキリシタンとして信仰を守る人々が存在し、領主たちもその存在を把握しながらも、積極的に取り締まることはなかったという。


私が大分を訪れたのは、学生たちとのゼミ合宿のときである。目的地には別府が選ばれた。「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と謳われる別府温泉は、別府観光の父と称される油屋熊八が富士山頂に建てた碑文に由来する。日本各地に名湯が乱立する中、早くからその魅力を打ち出したことで、別府は代表的な温泉地としての地位を確立した。「別府八湯」は、広範囲にわたり温泉が点在し、泉質も多彩で、その豊富さは全国的にもよく知られている。

別府観光の定番といえば、やはり「地獄めぐり」である。温泉の噴気や熱泥などを「地獄」と見立て、「海地獄」「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」など、七つの地獄を巡る。これらの地獄は、大正から昭和初期にかけて観光名所として整備され、人力車での見物が一般的だった時代を経て、昭和3(1928)年にはガイド付きの遊覧バスが運行を始め、多くの人々に親しまれるようになった。




ちょうどその頃、日本国内では観光ブームが巻き起こりつつあった。当時の観光客は外国人ではなく、主に国内の人々であり、今のように全国の名産品が手軽に手に入る時代ではなかったからこそ、地域ごとの文化や風土を味わうことが貴重な娯楽となっていた。温泉や自然、文化財や景観を活かしながら、郷土料理を楽しめる食事処の整備や交通インフラの発展が進み、観光地は一日を通じて巡る「回遊型」のスタイルへと変化していった。別府温泉も、まさにその典型であり、同様の手法は全国の観光地に広がった。今の学生たちには少し物足りないかもしれないが、それでもなお、歴史の重みと地域の魅力を伝えている。
かつての温泉地の楽しみは、湯治が中心であった。別府では、今もなおその湯治文化が色濃く息づいている。友人と共に湯治場へ赴き、1か月ほど滞在しながら自炊をし、何度も温泉に浸かって心身を癒す。病やけがの回復、健康の維持、精神的な安らぎを求めての湯治は、今も昔も変わらぬ贅沢である。
最終日、豊後高田と宇佐を訪れた。宇佐には全国の八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮があり、奈良時代、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の野望を和気清麻呂(わけのきよまろ)が神託によって退けたという伝説が今も語り継がれている。
豊後高田では「山城屋」という酒屋を訪れた。幕末に酒造業として創業し、今では地元・大分の銘酒を全国に届ける販売店として知られている。芋焼酎の印象が強い大分だが、日本酒にも力を注ぐこの店は、従来の酒屋の枠を超えた、どこか革新的な空気をまとっていた。

店主の廣田さんは、文学部史学科出身だ。在学中に積極的にインターンシップをこなし、卒業後はIT企業に就職。忙しさの中で自身を磨き、実家に戻った今では全国からの注文に応えて、大分の酒を届けている。
出発の三日前に突然電話を入れたにもかかわらず、見学の申し出を快く受け入れてくれた。別府駅から列車とバスを乗り継ぎ、およそ1時間半。目的地のバス停に降り立つと、笑顔で出迎えてくださった廣田さんの姿があった。
学生たちの表情もぱっと明るくなる。インターネットビジネスの話題から始まり、「売るということ」「地元への愛着」へと話は深まり、やがて一緒に「昭和の町」を歩き、蕎麦屋では昼食までご馳走になった。学生たちが「OBだから」と遠慮なくご馳走を受ける姿に私は少し身が引き締まるような思いを抱いていた。「後輩だから」と笑う廣田さんの言葉に、この旅のすべてが詰まっていた。
