【37の名言】②津田仙〈コリドールギャラリー〉
2026/03/06
2025年5月に新たな装いで開館した「青山学院ミュージアム」には、〈コリドールギャラリー〉と名付けられた空間があります。
ここには、光のメッセージとして、先人たちが残した37の言葉が紹介されています。
それらの言葉は青山学院にとっての箴言であり、至言です。そして青山学院の未来への夢を込めた想いです。
シリーズ2回目は、津田仙の名言をご紹介いたします。
道徳上の教を受けて其徳育と云ふものを進めたならば必ず我国を益々文明にし又青年諸君も全き人に成って人間の尽すべき責任を尽すことが出来ると思ひます。
津田 仙 (1837-1908)
青山学院の草創期を支えた農学者
津田仙「徳育の必要を論じ青年諸君に告ぐ」『農業雑誌』第314号、1888年
「道徳についての教育を受けて、その徳(人としての正しいあり方や品性)を育てることを進めていけば、きっと日本はますます文明的な国になり、また若者たちも立派な人間に成長して、人として果たすべき責任をしっかりと果たせるようになると思います。」

津田仙が、東京青年会の要請に応じて「徳育の必要を論じ青年諸君に告ぐ」と題して演説した際の言葉が『農業雑誌』に収録されており、この言葉はその中の一節です。『農業雑誌』の編集者が、農業をはじめとした実業とともに、国民の徳育が不可欠であると常日頃から考えており、農業関連とは違う内容だが掲載した旨が冒頭に書かれています。
佐倉藩士(現在の千葉県佐倉市周辺)の家に生まれ、幕臣津田家の婿養子に入り、1867年には幕府使節団の通訳として渡米した。明治維新後、学農社を設立して『農業雑誌』を発刊し、学農社農学校で農業教育を行うなど、農学者として活躍した。1873年のウィーン万国博覧会で聖書への関心を抱き、帰国後ソーパーから受洗する。メソジスト監督教会による宣教・教育や、禁酒運動、盲唖教育にも尽力した。津田塾大学の創設者津田梅子の父である。
仙は、明治初期のキリスト教主義学校の創立に数多く携わった。中でも中心的に関わった学校は、同志社、普連土女学校、東京盲唖学校、などが挙げられる。普連土女学校の開校時の仮校舎は、仙の自宅内に設けられている。
そして青山学院である。
ドーラ・E・スクーンメーカーが「女子小学校」を創設した際、教室として津田家の隣の岡田邸を斡旋。その岡田邸売却後は、一時、津田家の客間を貸している。
「女子小学校」とはいうものの、仙の娘だけでなく、妻そして息子二人までも入学させ、スクーンメーカーを大いに助けた。
また、米国メソジスト監督教会の宣教師ジュリアス・ソーパーが築地に「耕教学舎」を設立する際や、現在の青山キャンパス購入の際に、大いに手助けをした。
「耕教学舎」という校名は、仙が命名したといわれている。
江戸幕府の遣米使節の通訳として渡米。北海道開拓使の嘱託や、青山の開拓使農事試験場(現・青山キャンパス)で農事研究に携わった。農学者ダニエル・ホイブレンクに学び『農業三事』を著わし、西洋野菜の栽培を取り入れ、東京市内に初めて外来種による街路樹を植えた。
福沢諭吉、西周らで有名な啓蒙的思想集団「明六社」にも名を連ねた。
津田仙の業績については、アオガクプラス「津田梅子の父、津田仙と青山学院」をご覧ください。
津田仙は、青山学院の種を播いた、草創期における中心的人物であるのだが、その活躍は青山学院にとどまらず、新しい日本を切り開いた偉人達のカテゴリーに連なる。農業、教育、キリスト教界、その他。仙の活躍は、枚挙にいとまがない。
1908年、自宅へ帰る汽車の中で脳溢血で亡くなった。享年70。
幕臣だったためであろう、新政府下では役職に就かず、明治の偉人たちほど名前は知られていない。仙が亡くなった際、東京朝日新聞は、「貴族院議員津田仙氏は~」とはじまる訃報記事を掲載したが、仙は無冠だった。新聞社が「貴族院議員」と間違えるほど、業績を残した著名人であったことが窺える。4月28日に青山学院で営まわれた津田仙の葬儀で本多庸一は「天下萬世のために身を犠牲に供したる基督にある大平民であります」と弔辞を読んだ。内村鑑三や新渡戸稲造らも追悼で津田の業績を讃え、仙を「大平民」と呼んだという。
津田仙は、青山墓地に眠る。
〈参考文献〉
・氣賀健生『青山学院の歴史を支えた人々』(学校法人青山学院 2014年)
・『青山学院一五〇年史』通史編Ⅰ(学校法人青山学院 2023年)
〈協力〉
・青山学院大学青山学院史研究所
・青山学院ミュージアム