未知なる海底へ 人類と地球の謎を追う〈校友・江口暢久さん〉
2026/03/17
個性を尊重してくれる両親の元、のびのびと育った江口さん。幼い頃から地球科学に興味をもち、地質学で博士号を修めます。世界の海洋科学掘削の流れが大きく変わろうとしている時代──そのうねりをとらえ、サイエンスコーディネーターへと舵をきります。
世界最大規模の地球深部探査船「ちきゅう」に乗り込み、研究者と掘削技術者、両者の架け橋としての働きを支えていたのは青山学院で学んだ寛容さ、傾聴力、学問への探求心でした。
──生まれは京都、幼少期を徳島で過ごされたと伺いました。
両親は青山学院の同級生で、父は中等部から高等部、母は中等部から大学まで在籍していました。父は高等部卒業後、京都大学へ進学し、京都にいる間に結婚し、私が生まれました。父が徳島の大学で数学の教員として職を得て、私が2歳のときに徳島へ引っ越しました。
徳島にいた頃から本が大好きで、小学生の頃には、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』や、エーリッヒ・ケストナーの児童書などを読んでいました。ありがたいことに本の購入には制限がなく、懇意にしている本屋さんで読みたい本を選んで持ち帰ると後日親が支払うというシステムでした。父は数学者になる前は地質学を専攻しており、幼少時から地球科学に関する話をよくしてくれました。「なぜ?」という問いになんでも答えてくれる父から得たことは多かったです。

──そのころの夢は何でしたか。
夢は二つありました。
一つは「汲み取り屋さん」です。今でもたまにバキュームカーを見かけますが、臭いがひどく、皆が嫌がる仕事をしているのは偉いこと、すごいことだと思っていました。
もう一つはフランスに行ってコックになること。台所仕事が好きで、母の隣りでよく台所に立っていました。今の料理好きにも繋がっています。
──その後、青山学院中等部で学ばれました。
父が、青山学院高等部の恩師から高等部の教員になるように勧められ、高等部で教員をすることになり、私も青山学院中等部で学ぶことになりました。徳島から東京、それも青山という環境の変化の衝撃が大きかったですね。勉強面では、特に英語が、今まではできる方だったのに、一気にできない方になってしまいました。ただ、青学の良いところは、みんなが優しかったことです。学校全体の精神が寛容で、青学に入って良かったと思いました。
──高等部での思い出に残る授業や先生はいますか。
2年、3年次の担任で歴史の松本通孝先生です。既に退官されていますが、松本先生が講義をされる読書会は20年近く続いていて、数か月に1回の開催を今も楽しみに参加しています。
高校時代は真面目に勉強をせず、数学と英語の成績が赤点でした。英語の先生とそりが合わず、答案用紙の裏面に、英語教育に対する意見を書いたら、その先生がかなりお怒りだったと、父に聞かされたことも……(笑)。今、振り返れば、香本不苦治先生の漢文や、飯沼千鶴子先生の古文の授業を真面目に受けておけば、教養の幅がまるで違ったのにと悔やまれます。

──文化祭の実行委員長を務めたと伺っています。
オーガナイズしてマネージすることが好きなのだと思います。2年の夏休みは準備のためほぼ毎日学校に来ていました。今も残る「お祭り広場」というイベントは私たちの代で始めたものです。この経験は後の仕事にも繋がっていますが、全部で30人弱のチームをまとめて学校全体を動かす面白さを、文化祭で覚えました。
文化祭実行委員の活動を通じてありがたかったことは、先生たちが生徒に本気で相手をしてくれたことです。高校生を一人の大人として扱い真剣に向き合ってくれたことに、心から感謝しています。夜遅くまで、一緒に問題の解決策を考えてくれました。それがどれほどすごいことか、ありがたいことだったか、大人になってから身に染みてわかります。自分が部下を持つ立場になってから役立っています。
──文化祭以外での思い出はありますか。
クラブは、山岳部に入りました。父が顧問でした。休みになると合宿で二人とも一緒にいなくなる、と母が笑っていました。
また、宗教の時間や礼拝のときに、聖書を読む機会があったことが、非常に大きかったです。欧米のキリスト教国の人と話すとき、キリスト教の知識があるかないかではまるで違います。1年のときには当時100人ほどいた聖歌隊に入り、『メサイア』を歌ったことも良い思い出です。自分の奥行きが広がったと思っています。

──青学ではなく、琉球大学に進まれました。
地球科学の勉強がしたかったのですが、当時の青学には自然科学系の学科がなかったんです。学びたいことはありながらも、具体的な手段や道筋がなく、しばらく自宅にいたら、あまりに居心地が良すぎて……(笑)。「このままではダメだと思う」と父に相談したら「その言葉を待っていた」と言われました。そこで札幌で一人暮らしを始めました。アルバイトをして貯めたお金で、英会話学校にも通いました。
札幌での暮らしも心地良くなってきた頃、琉球大学で海洋学を学ぶ弟から「琉球大学で大学入学試験の二次募集があるよ。来たら?」と連絡をもらいました。琉球大学は当時の国立大学で唯一、海洋学科があったんです。それは面白いかもしれないと思い、共通一次試験を受けました。無事に合格して琉球大学に入学しました。
周りは18歳の子たちばかりで戸惑いもありましたが、ドクター(博士課程)まで進むつもりでしたから、仲間にノートを貸せるくらい必死に勉強しました。卒業研究は、浮遊性有孔虫の化石から年代を測定する研究をしました。
修士に進んでからはすぐに、地質調査所(現・産業技術総合研究所)の方に誘われて2か月の航海に出て、太平洋の真ん中で海底の堆積物を採取したり、炭素循環の研究の手伝いをしたりしました。通産省(現・経産省)から委託されたプロジェクトでした。そのご縁で、修士論文はつくばの地質調査所の研究所に通って書きました。そこで、後に東京大学の名誉教授になられる先生に「ドクターは東大に行けば?」と背中を押され、東大海洋研究所の平朝彦先生を紹介していただきました。当時、東京中野区にあった東大海洋研究所に行き、平先生にお会いすると「来ればいいじゃん」とあっさり(笑)。ところが、例年の倍の志願者数で「厳しいかな」とも思いましたが、無事平先生の研究室に入ることができました。入るとすぐに航海に出て、お酒を酌み交わしました(笑)。
平先生は私のデータを見て「お、いいデータが出たね、面白いじゃない」とまずほめてから、「こういう解釈をすると、こっちにも話が進むよね」と助言してくれます。そのご対応がとても心地良く、私も部下や学生と接するときに見倣っています。
──その後、高知大学に就職されました。
はい。博士号取得後、高知大学海洋コア研究センターの助手として1年間、学生を見ていました。学生を見る仕事は自分に向いているなあ、と感じました。
このまま教師を続けていくと思っていた矢先、転機が訪れました。
2001年に平先生から「こっちを手伝ってほしい」と呼び戻され、海洋研究開発機構(JAMSTEC)で2003年から始まる日米主導の新しい国際科学プログラム「統合国際深海掘削計画(IODP)」の立ち上げに、サイエンスコーディネーターとしてアメリカ人の同僚と関わりました。
──サイエンスコーディネーターとはどのようなお仕事なのでしょう。
当時の日本には無いポジションです。博士号を取得した人は研究者になるという不文律がある中で、平先生や他の指導教官から「お前は研究もできるが、マネジメントの才能がある。そっちの道の方が良いのでは」と言われたことがありました。私自身、研究の世界の面白さは感じつつも、研究そのものに固執するより、博士としての知見を活かしながら大きな国際科学プログラムを動かすのも楽しそうだし、自分に合っていると思い、マネジメントの道を選びました。

──高等部文化祭実行委員長を彷彿とさせます。
IODPが始まってからは、プログラムを運営する法人に移り、スウェーデン人のボスのもと、アメリカ人、カナダ人、ドイツ人の同僚と楽しく国際プログラム運営の仕事をしました。その後、JAMSTECから「地球深部探査船『ちきゅう』の運用チームにきてほしい」とのオファーがたびたびありました。「船を動かす仕事も楽しいかな」という想いが芽生え、再びJAMSTECに戻りました。

──「ちきゅう」との関わりについて教えてください。
海洋科学掘削には、60年近い歴史がありますが、1990年代になると、日本でも独自の掘削船を造る計画が動き出しました。計画時は「ゴジラ丸」と呼んでいました。そして2005年7月に竣工したのが地球深部探査船「ちきゅう」です。過去の地球の環境史や、巨大地震の発生メカニズム解明を目指す、世界最大級の科学掘削船です。
「ちきゅう」が国際運用を開始するとき、エクスペディション・プロジェクト・マネージャー(EPM)として、多国籍の研究者と掘削現場の橋渡しをすることになりました。掘削船を1日動かすには多額の費用がかかります。現場の掘削技術者たちにとってはまさに「時間=金」ですが、研究者たちは納得いくまでデータと地質試料を求めたい。この相反する両者の間に立ち、双方の知識を身につけ、専門用語(共通言語は英語)を理解して、通訳のような役割を果たすのが私の仕事です。研究者の意図を汲みつつ、掘削の技術的な限界も理解して最適な落としどころを見つけるのです。
──地質学、鉱物学、地震学、微生物学、採掘技術、航海や気象の知識など幅広い知識が必要なのではないでしょうか。
広く浅く、どんな内容でも対応できるようにしてきました。国際的な場では、科学だけでなく政治や芸術の知識など、引き出しの数が問われます。

──EPMには緊急対応能力も求められると思います。
胆力や経験値が必要となりますが、基本的に「人が死ぬ状況でなければ良い」と腹を括っています。幸運にも「ちきゅう」ではまだ人が亡くなるような事態は起きていませんが、怪我や病気に罹るとすぐには陸に戻れないので、それが一番怖いですね。また、天候悪化から技術トラブル、そして、長期間、多数の研究者が乗船する閉鎖空間では人間関係のトラブルはつきものです。研究者の方々はとても純粋ですが、自分の研究へのこだわりがある分、どうしても我を主張してしまうことがありますし、ナイーブです。そんなときは私が緩衝材となってジョークで笑いを誘い、場の空気を和ませるようにしてきました。ここで活きてくるのが、青山でのキリスト教の学びです。宗教や文化のタブーを理解しつつ、誰かを傷つけるようなことはせずに、欧米の研究者たちに通じるジョークを言える。違いを認め、相手をリスペクトする精神は、対人関係において大きな武器となっています。
──これまでのミッションで一番思い出深いものは何でしょう。
2012年に日本海溝で行った「JFAST」の航海です。東日本大震災を受け、翌年にすぐ実施したオペレーションで、水深7000mの海底から1000mも掘り進め地震で滑った断層に到達するという、壮大な計画でした。他国からは「うちの船では掘れない」と断られたのですが、私は「『ちきゅう』ならできる」と言い切って、後で技術者たちから「余計なことを言うな」と怒られました(笑)。しかしみごとに巨大な津波を起こした断層を構成する堆積物を採取し、滑った断層に残っていた摩擦熱の計測にも成功し、大きな成果を挙げることができました。限られた時間だったためやりきれない部分もあり、それは続く2024年の「JTRACK」で完遂。ミッションで使用したパイプの長さ世界一でギネス記録に認定されました。
航海は時に、想像を絶するほど過酷です。2018年からの南海トラフ調査では、6か月もの間、同じ場所で掘り続けました。しかもトラブルの連続で、後に学術誌『nature』の取材で「6か月続いた悪夢」と私が漏らした言葉が、そのまま引用されました。

──EPMとしてのやりがいは何でしょうか。
チーム一丸となってプロジェクトを完遂させ、確かなサイエンスの成果を導き出すことです。「ちきゅう」をはじめ、国際プログラムで海底から回収されたコア試料は、アメリカ、ドイツ、そして高知にある保管施設に分配・収蔵され、研究や教育への利用のために公開されます。こうした国際的な知の基盤を支える役割に、大きな誇りを感じています。
──深海調査の意義や魅力についてお聞かせください。
何よりも「まだ誰も知らないことがいくらでもある」という点だと思います。私たちは、自分たちが住んでいるこの星のことを、まだ全然わかっていません。環境破壊や温暖化が叫ばれていますが、それは「人間がこれからも住めるか」という人間主語の話です。自然科学を扱うときは、地球を客観視することが大事だと感じます。
深海調査の魅力は「未知の世界がわかる」ことです。かつて海底の下に生物はいないと思われていましたが、地底深くにも膨大な微生物がいることがわかりました。高温・高圧下で生き延びる彼らの存在は、生命の起源がどこにあるのか、あるいは他の星の環境でも生物が存在し得るのではないかという、壮大な問いに繋がっていきます。

──これからの夢や抱負をお聞かせください。
子どもたちに「科学って楽しいんだよ」と伝える活動をしたいですね。地学や生物学は好奇心から始まる学問です。「数学が苦手だから理系をあきらめる」なんて、本当にもったいない。理科教育をもっと大切にしてほしいと思います。地質学は、人間の営みが始まるずっと前の、宇宙の中の一つの星としての地球を見つめる学問です。「自分たちはどこから来て、どこへ行くのか」という問いそのものです。
──在校生へのメッセージを。 皆さんに伝えたいのは、いろいろなことを嫌いにならないでほしいということです。「今できないから嫌い」と決めつけてしまうと、可能性が閉じてしまいます。できないときは、それを少し横に置いておく習慣を持ってみてください。仲の良いアメリカ人研究者から学んだことの一つに、“Think outside of the box” というものがあります。常に今の状態に縛られるのではなく、そこから外に出て考えるということです。科学の歴史はそれの連続だったと思います。 また、夢も一つに縛られる必要はありません。叶わなかったことを悔やむより、新しい夢を持てばいい。自分を卑下したり、無意味に悩んだりする暇があるなら、具体的に動きましょう。 そして、他者へのリスペクトを忘れないこと。「雑用」なんて仕事はこの世にはありません。その人の働きが無ければ動くことはできません。みんな役割が違うだけで全員が対等です。そうやって周囲を尊重しながら自然体でいれば、人生はぐっと楽しくなります。皆さんも自分らしい歩みを楽しんでください。 ──本日はありがとうござました。


江口 ちなみに、研究者たちがブランチを取りながら話し合った際のオリジナルのアイデアを書いた紙ナプキンが今でも残っています。そのときの研究者の中には、ノルマンディー上陸作戦のタイミングを計った海洋物理学者もいました。またその時代は、オイルもガスは陸上を掘っていましたが、海の底にもあるだろうと見越し、オイル会社が海洋掘削船の準備を進めているときでもありました。そのため研究者たちは海洋掘削船を借り上げて、メキシコ沖で試し掘りをしました。その1回目の掘削航海にアメリカの小説家ジョン・スタインベック(ノーベル文学賞受賞者)がレポーターで乗船しており、雑誌『ライフ』の中にスタインベックの書いた記事が載っています。 さらに実際に採掘してみると、もちろんマントルまでは掘れませんでしたが(未だに掘れていませんが)、海洋底を掘ることで地質学が大きく変わると研究者たちは気づきます。しかしながら60年代は東西冷戦たけなわのときで、折しも人々の関心も予算も宇宙開発に向けられ(69年アポロ計画)、海洋研究は後回しにされてしまいました。 その後、アメリカの研究者たちが中心となり、1975年には海洋科学掘削が国際的にオープンにされました。予算の関係もあったのでしょう。資金提供で、アメリカの掘削船に乗れるようになったのです。実際にアメリカで学んでいた日本の研究者たちも海洋掘削船に乗りこんでいました。 アメリカが始めた初めてのプログラムの2航海目で、プレートが動いていること、つまりプレートテクトニクス理論が証明されました。その証明に日本人の研究者たちが貢献したそうです。話はシンプルなもので、中央海嶺を中心にプレートとして両方向に動いていてもいいはずであり、同じスピードで、中央海嶺から離れれば古くなっているはずであると仮説を立て、岩石の上の堆積物である化石を採取し、ケイシツ(ガラス質のこと。放散虫やケイソウとかのプランクトンの化石)の年代を測定。年代は軸を中心に綺麗に古くなっていることが分かったのです。風化や植生等によって綺麗な形で残っていない陸上と違い、海洋底は綺麗な形で残っている。日本海溝など地震が起きる場所は別ですが、海洋の真ん中は何も起きず、ひたすら堆積物がたまっていく。そのため、地質学の研究にうってつけだったのです。