Story ストーリー

戦争の頃、青山学院の存続を守った二人の院長 1.國澤新兵衛

青山学院の150年近い歴史の中で、学院の存続が危ぶまれた時期がいくつかありました。
その一つ、今から80年ほど前の太平洋戦争中のお話を紹介します。

國澤 新兵衛 くにさわ しんべい (院長事務取扱 1943年6月~9月)

1943(昭和18)年、青山学院第7代院長の笹森順造の時代に、学内人事を巡り学生ストライキが起こるなどの混乱が生じ、笹森院長は辞任に追い込まれる事態となります。戦争真っただ中の挙国一致体制下にあって秩序の乱れは好ましくないと判断され、万代順四郎理事長が文部省に呼び出され、笹森院長の責任追及と、厳しい措置がありうる旨を伝達されます。結果、笹森院長は6月18日の理事会で辞職が決定となりました。

新しい院長が決まるまで、理事の國澤新兵衛「院長事務取扱」に選ばれます。
この記事のタイトルは「二人の院長」ですが、実際には「院長」ではなく、中継ぎの「院長事務取扱」という立場でした。

國澤(1864~1953)は当時79歳。青山学院の源流の一つである美會神学校の第1回生として卒業後、帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)土木学科に学び、その後、南満州鉄道の第5代総裁、日本通運の初代社長を務めている大人物です。多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の理事長も務めています。

小野徳三郎院長就任式の日(先頭から3番目が國澤院長事務取扱、4番目が小野新院長)
見守る学生たちの制服も国防色と戦闘帽に統一された

 

その國澤院長事務取扱の時、陸軍による青山学院への査閲が行われます。廃校にしようという目的のものだったそうです。
査閲の前夜、青山学院を廃校にしようとする意図を知っていた文部省の劒木亨弘(けんのき としひろ)氏より、事態を憂慮する電話が青山学院にかかってきます。「陸軍はこのたびの事件に乗じて青山学院をつぶそうとしています。査閲はその口実を作るためのものと考えられますから、十分注意してください」と。

査閲当日、國澤は丸くなった背中でヨタヨタと先頭を歩きあるいは走りながら、しかし、母校を守る気迫と、神に己を委ねた者の、平常は温厚な人格から発する強い意志とで、陸軍の査閲大佐を案内したそうです。

査閲後、文部省の劒木氏が心配し、何度も陸軍に電話を入れ、結果を待っていたところ、査閲した陸軍大佐が劒木氏に会いに来て、劒木氏の前で落涙したそうです。「私は間違っていました。私は青山学院を誤解していました。聞けば代行だというが、あの年老いた院長さんの必死の姿に私は心をうたれました。陸軍は青山学院をつぶしたりしません」と。さらには、「私は今後キリスト教学校に対する認識を改めなければなりません」と。

この話は、氣賀健生青山学院大学名誉教授(故人)が、劒木氏にインタビューして得たもので、氣賀健生著『青山学院の歴史を支えた人々』に収録されています。
「だから國澤さんは、青山学院のみならず、全キリスト教学校にとって恩人なのですよ」と劒木氏は語っています。

当時、日本のキリスト教主義の学校は、敵対国の欧米の教育をしているとして、政府から、そして陸軍などから白い目で見られていた時代です。教育に対する規制が厳しくなり、授業内容も英語中心から国語中心に変更したり、神学部が閉鎖されるなど、国の圧力により、青山学院の伝統が壊され、存続も危ぶまれる時代でした。

アメリカのメソジスト教会からの帰還命令により「八幡丸」で帰国するエドウィン・T・アイグルハート先生(中央)の見送りに集まった教職員と学生たち(1941年)

 

國澤は、南満州鉄道の総裁を務めるなど陸軍にも押さえが効き、そして美會神学校の第1回生として青山学院の教育と伝統を身にまとった人物であり、神が示される導きに従った意志の強さを備えた、青山学院の危機を救いえた人物だったのです。
こうして、陸軍による廃校の意図は潰え、存続の危機は去りました。

院長事務取扱としてわずか3カ月。次の院長が決まるまでの中継ぎとしての重責を果たし、第8代院長、小野徳三郎にあとを託します。

しかし、またしても青山学院に存続の危機が訪れます。
次回、『戦争の頃、青山学院の存続を守った二人の院長 2.小野徳三郎』にてご紹介いたします。

南満州鉄道総裁時の國澤新兵衛(1918年)

 

 

〈参考文献〉
・氣賀健生著『青山学院の歴史を支えた人々』
・川俣茂著「今、改めて國澤新兵衛 ~一教会史の側面から~」『青山学院資料センターだより』16号
・「青山学院120年」学校法人青山学院

〈注記〉
・國澤新兵衛の生年について
 氣賀先生の著書には1863年と記されていましたが、他の複数の資料を調べたところ、1864年が正しいものと判断いたしました。