Column コラム

私の足のともしび 【第4回「国連への転勤」】

青山学院大学地球社会共生学部教授

村上 広史

 

青天の霹靂

「国連職員になってみないか?」1999年の秋ごろに職場の上司から突然呼び出されて、真顔でそう言われた。当時、私は国土地理院の企画部で政府内のデジタル地図活用の促進に関する仕事をしていた。前回のコラムで紹介した地球地図整備構想は、取組が始まってから7年が経過していた。そして、複数の担当職員が海外から提供されたデータの検証や国際会議開催の準備を行うという組織的なプロジェクトになっていた。そのため、私が直接プロジェクトに関与する機会は少なくなっていた。

 

一方、上司の企画部長は、国土地理院全体の大番頭的存在で予算や人事を実質的に取り仕切る存在である。その上司が直接「なってみないか?」と言うのであるから、事前に組織内での必要な検討は終了しているはずで、その意味するところは「なってくれ!」という半ば命令なのだ。とは言え、国内への異動ならまだしも、海外転勤の話を突然上司から聞かされるのは、まさに青天の霹靂であった。

 

国連と言っても様々な専門機関があるので、どんな組織の話か詳しく聞いてみると、ニューヨーク本部に地図課という組織があって、その課長に応募せよとのことだった。当時現職だった課長が近く定年退職する予定で、日本人の国連職員を増やしたい外務省が後任になれそうな職員の有無を国土地理院に打診してきていたのだ。当時、日本の国連分担金額は世界2位だったが、その額に比して邦人職員数が極端に少なく、望ましいとされる職員数の半分以下であった。しかも、そのころ国連人事局長が自ら来日して日本人の候補者を面接するという話が進んでいたらしく、政府としても十分な数の候補者を確保しておきたかったのであろう。私は前回のコラムで紹介した地球地図整備構想に関わって以来、国連をはじめとした国際会議に参加することが多くなっていた。それで上司は私を国連職員の候補に推薦しようと考えたようである。

 

実は、国連地図課の存在を知ったのは、その時が初めてではなかった。地球地図整備構想を国連アメリカ地域地図会議で発表するために1993年に初めてニューヨークの国連本部に出張した際のことだった。国連の地図課長も参加していて私の発表後にわざわざ声をかけてくれたのである。地図課の重要な仕事の一つとして、国連の報告書に掲載される世界各地の地図を作成していたため、地球地図整備という構想に興味を持ったらしい。そして、私を昼食に誘ってくれた後で地図課のオフィスに案内し、仕事の内容を紹介してくれていたのであった。当時は、まさか自分がそのポストに応募することになるとは思っていなかったので、初めて足を踏み入れた国連事務局の職場を良い土産話ができたという気持ちで見学していた。

 

家族の反応

ということで上司からの「命令」により国連職員に応募することになった。しかし、職員の採用は公募が基本であるので、世界中の応募者の中から選考を経て採否が決まることになる。実際、地図課の職員に後日聞いた話によると、公募された地図課長のポストには当時400以上の応募があったらしい。そのような不確定要素が大きな異動話ではあったが、実際に海外に転勤するということになれば、単身赴任か家族帯同かに拘らず、家族の理解が重要になる。

 

そこで、企画部長から話があったその日のうちに家内に相談してみた。すると、以前にジョージア州に滞在していた際の良い思い出をたくさん持っていた家内は極めて前向きだった。もちろん、長男が既に中学2年生になっていたので、教育上の懸念はあった。しかし、せっかく海外での生活や教育を経験できる機会を持てるのだから良いだろうということで、採用されたら家族で一緒に行くことでも家内と意見が一致した。一方、国連職員としての採否が不明な状態だったので、3人の息子たちには異動が正式に決定するまでは話さないでおくことにした。

 

国連人事局長面接と選考過程

当時の新聞記事によると、国連人事局長が採用面接のために来日するのは初めてとのことであった。どんな面接になるのかと少し身構えて、2000年1月に会場となった外務省に行ったところ、内容は筆記試験と国連人事局長との面接の2つであった。筆記試験は、提示された3つの課題から1つを選択し、用意されたパソコンを使って自分の考えを30分以内に英語で作成するというものであった。私は、提示された課題のうち「世界平和に対する日本の貢献」を選択し、地球地図整備に関する自らの経験に基づき、人類共通の知識として地球地図などの整備・共有が役立つことをまとめた。

 

筆記試験終了の10分後には、国連人事局長の面接が行われた。局長ともう一人の書記役の方の2人との面接であった。これまでの国際経験や管理職としての経験、特にどのように部下に仕事をさせ、それをどう評価するか、思い通りにいかない部下にどう対処するか、管理者としての長所短所、失敗の経験やその対処などについての質問があり、全体で30分ほどの面接であった。また、専門分野に関する技術的な質問については、1,2カ月後に別の職員よりビデオ会議やニューヨークでの面接で実施される可能性があること、そして、採否の結論が出るまでには6カ月程度かかることを面接の最後に教えていただいた。

 

4月になって地図課長ポストへの応募書類を国連に提出したが、その後しばらく連絡はなかった。もちろん、選考に6カ月かかると言われていたので時間がかかることは覚悟していた。しかし、中学3年になっていた長男は高校受験を控えていたので、もし採用されるのであれば早く彼に今後の進路の話をしてやりたいという気持ちが次第に大きくなっていた。一方、1、2カ月後と言われていた専門分野に関する面接の知らせがないので、選考されなかったのだろうと落胆と安堵とが入り混じるような気分にもなっていた。

 

ところが、9月になって、当時地図課が所属していた国連広報局の部長秘書から突然メールが届いた。部長との電話面接を行うので翌日か翌々日のニューヨーク時間の昼前後か夕方で都合の良い時間帯を連絡して欲しいとのことであった。急な話で少々驚いたが、日本時間の早朝(ニューヨークの夕方)の時間帯を伝え、地図課長の上司にあたる部長との電話面接となった。質問は、過去の経歴、管理職や予算要求の経験、地図課長としてやりたいことなどであった。想定よりかなり短い12分ほどで終了し、少々拍子抜けした。結果は2カ月ほどで決定するとのことであった。しかし、これまでの経緯を考えれば、2カ月よりは時間がかかるのだろうから、結果の通知は長男が高校受験を終えたころだろうかなどと考えていた。

 

採用決定から着任まで

ところが、電話面接からちょうど2カ月ほど経過した11月の初めに、国連地図課長への採用が決定したとの連絡が外務省経由で届いた。しかも、できるだけ早く、遅くとも翌2001年1月15日には着任してほしいとのことであった。その時はなぜ着任を急がされているのか分からなかった。しかし、現地で着任の挨拶をした日の夕方に、地図課が所属する広報局の局長をされていた日本人の方の送別会が開かれて、ご本人に挨拶した際に合点がいった。局長の後任が日本人でなくなった場合、別の人が採用される可能性もあるため、何としても自分が局長でいる間に着任してもらおうとお考えになっていたようである。国連は政治的な思惑が入り乱れる所とは聞いていたが、着任早々その一端を垣間見た思いがした。

国連地図課長の執務室(後ろ姿は事務職員)

 

また、着任してもう一つ気づいたことは、国連の中間管理職のポストに外部の人間が採用されるケースは多くないということである。実際、普通の職場でも課長が退職すれば課内の他の職員が昇任するのが業務の継続性や課員のモチベーションなどの観点からは望ましい姿であろう。しかし、当時の国連地図課の場合は特殊事情を抱えていた。国連の専門職職員は、P1からP5までランク分けがなされていて、課長はP5である。そして、P5の課長ポストに応募できるのは、人事規定上直近ランクのP4以上であった。ところが、当時の地図課にはP4の職員が存在せず、P5の課長の下にはP3の職員しかいなかったのである。当時は、課長を含めた課員の数が7名という小さな所帯の課だったのでやむを得ないことではあった。しかし、5名いたP3の職員のうち3人は私より年配であったため、課長に昇任する期待を裏切られた職員たちの落胆は大きかったようである。年功序列に慣れていた私にとっても、着任後はいかにして彼らのモチベーションを高めるかなど、管理者としてチャレンジしなければならない大きな仕事となった。

 

それにしても、想定していたこととはいえ、突然2カ月での海外赴任という話に驚かされると同時に、2つの問題に直面することになった。

 

子どもたちへの説明と自宅の処分

問題の1つは、子どもたちへの説明である。それまで何も聞かされていない長男は、中学3年生で塾通いをしながら高校受験の準備をしていた。その受験生に対して、11月になって受験勉強をやめて米国に一緒に行くことになった、と告げるのは親としても勇気が必要であった。幸い、告げられた本人が「マジで?」と驚きつつも冷静に受け止めてくれたのは感謝なことであった。

 

それでも、それまでの勉強にけじめをつける意味もあって、渡米直前の1月に私立高校の受験を済ませてから渡米することにした。また、渡米後に入学する学校も懸念材料だったが、幸いニューヨーク近郊に日本の私立大学が運営する高校があることが分かり、日本の高校1年に相当する10年生からの入学を目指すことになった。一方、3人の息子たちのうち下の2人はまだ小学生だったので、英語や異文化にもすぐに慣れてインパクトは小さいだろうと安易に考えていた。しかし、実際に現地での生活を始めた時には、この想定が非常に甘かったことを痛感することになった。その詳細は次回のコラムに譲ることにする。

 

もう1つ頭の痛い問題が、自宅の処分であった。実は、国連行きの話を上司から聞く3年ほど前に自宅を購入したばかりであった。昔から職場では「家を買うと直後に転勤命令が下る」という全国組織にありがちでまことしやかな言い伝えがあったが、まさにその通りになった。しかし、転勤まで2カ月で自宅を処分するのは現実的ではない。自分だけ先に現地に行って住宅などの準備を整え、その間に家内が自宅の処分を進めるという選択肢もあったのだろう。しかし、いつまで国連で働くかも不透明であったので、留守のままにして渡米することにした。

 

転勤への確信

国連からの採用通知により、国連職員として働き始めることが決まった。しかし、自分の中で転勤に対する確信が持てていたわけではなかった。その確信を求めて聖書を読み、祈っていたのだが、御言葉が示されることもなく、時間だけが過ぎていく中で、仕事の整理や引っ越しの手続きなどに追われる毎日が続いた。

 

一方、ニューヨーク州に家族で引っ越すので、現地での教会についてもインターネットで調べていた。ジョージア州の小さな大学町に留学していた際には、日本人のための教会が近所に無く、子どもも小さかったため、現地の人たちが集う南部バプテストの教会に通っていた。しかし、今回は子どもたちも大きくなっていたので、日本語の礼拝に参加できるほうが良いと考え、住みたいと考えていたニューヨーク市の北隣の地域に教会を探すことにした。

 

幸い、ニューヨーク州の東隣に位置するコネチカット州のグリニッジ(Greenwich)に日本人教会があることが分かった。グリニッジにはマンハッタンに電車で通勤する駐在員の家族を中心に多くの日本人が住んでいた。そのような駐在員とその家族への宣教のために、日本人の牧師一家が派遣されていたのである。そこで、引越の懸案事項の一つであった自宅のグランドピアノを現地に持ち込むことの是非を相談するために、転勤の挨拶も兼ねて家内からその牧師にメールを送ってもらった。返信には、ピアノを持ち込むのは問題ないこととともに、教会の交わりに加わることを歓迎することが書かれていた。実は、その教会で奏楽などの奉仕をされて中核的な存在だった駐在員の3家族が、3月末で同時に本帰国することが決まったばかりで、新たな家族が日本から派遣されるのを祈っておられたとのことのであった。そこに、奏楽ができる家内から転勤を知らせるメールが届いたので、神に感謝しておられたらしい。その話を聞いた私も、「呼ばれている」という想いが与えられ、転勤を確信したのである。渡米する1カ月ほど前のクリスマス直後のことであった。

 

住宅探し

年が改まり、家族より1週間先に渡米した私は、着任の手続きを済ませた後、家族と合流してから1週間程度で貸家を探して落ち着くことを想定していた。ジョージア州に留学した際には家探しで苦労しなかった成功体験が背景にあった。家探しの対象地域は、日本人が多くて治安も良く、教育にも熱心で下の2人の息子たちが現地校に通えそうなウェストチェスター郡と決めていた。ニューヨーク市の北隣で、職場となるマンハッタンの国連事務局へも通勤圏内の地域であった。

 

しかし、その思惑は渡米後間もなく打ち砕かれた。何しろ赴任したのは以前留学した家賃が安いジョージア州とは全く別世界のニューヨーク州で、しかも時は1月である。真冬に家探しをする人は少なく、良い物件も市場に出回っていなかった。前述の牧師夫妻が土地勘のない私たち家族の家探しを手伝ってくださったが、そもそも物件が少ないので、週末中心の家探しは難航した。結局3週間ぐらい家族でホテル滞在をしながら探し回って、やっとのことでグリニッジに近いライ(Rye)という町の家に落ち着く事ができた。ただし、アメリカでは珍しくスクールバスがない町で、電車の駅からも遠かったため、子どもたちを学校に送りながら、家内に毎朝駅まで車で送ってもらう必要がある家だった。それでも、日本では住めないような広いリビングや裏庭のある家を借りられたため、アメリカらしい生活を始められることになった。

3週間の家探しで見つけることができた賃貸物件

 

そして、子供たちの学校生活もはじまり、やっと落ち着いた生活ができるようになって夏が終わり、秋が近づいたころのことである。まさか、というような世界を震撼させた大事件を身近に体験することになったのである。