イギリス流ベル・リンギングの魅力【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第32回】
2025/06/10
時計台の鐘が打ち鳴らす旋律のことを、英語ではチャイムといいます。あるいは15分ごとに時を知らせるという意味でクォーターとも呼ばれます。美しい音色を奏でる鐘の中で、日本人が最もイメージしやすいのは、ウェストミンスターの鐘として親しまれている、例のメロディではないでしょうか?
これはロンドンのテムズ川沿いにあるウェストミンスター・パレスの時計台が時を告げる時鐘のメロディです。
高さ96mにおよぶ荘厳なゴシック様式の時計台は、世界遺産にも認定されています。時鐘の動力源は3つの錘(おもり)で、週に3回手動で巻き上げられます。従来は単に「クロック・タワー」と呼ばれていたこの時計台、2012年のエリザベス二世在位60周年を記念して「エリザベス・タワー」と正式な名称が付けられました。
この時計台はむしろビッグ・ベンというニックネームで有名です。その由来は、1859年に時計台が建てられた際に工事の責任者を務めた国会議員ベンジャミン・ホールの愛称から来ているとか……。ただしこのいわれをめぐっては実のところ諸説あって、今となっては霧の中です。厳密にいえばビッグ・ベンとは、時計台の中に6つある鐘のうち、高さ約230cm、口径約280cm、重さにいたっては約1300kgという、一番大きな鐘のことを指すのですが、もはやこの時計台の代名詞として世界中で通用しています。
20世紀のイギリス音楽を牽引した作曲家レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは生涯に9曲の交響曲を残しました。その交響曲第2番には『ロンドン』と標題が付いていますが、曲の始めと終わりで、ウェストミンスターの鐘の音がオーケストラで奏でられます。初めてこの曲を耳にする人は、なじみのある時計のチャイムがいきなり聞こえてくるので、ちょっと驚かれることでしょう。
日本で鐘というと、寺院の境内に一つつり下げてある大きな梵鐘を思い浮かべますね。イギリスの教会の場合は、建物の一角にそびえる鐘塔に大小さまざまの鐘組みを設置する様式で発達しました。鐘の数はほぼ4個から12個まで多種多様です。
鐘枠に付いた滑車を階下からロープで引っぱり、鐘をほぼ360度揺り動かして鳴らす仕掛けになっています。1個の鐘につき、1人が担当します。こうした鐘の鳴らし方をベル・リンギング(鳴鐘法)といい、鳴らす人のことをベル・リンガー(鳴鐘者)と称します。
そもそも西洋の鐘は西暦400年頃の発祥とされ、750年頃にはイギリスでも国中に広まっていたようです。鐘の響きには超自然の力が備わっており、天災や疫病から人を守る力があると、中世の人々は信じていました。侵攻してきた外敵が鐘の音に恐れをなして逃げ出したほどでした。鐘がひとりでに鳴り出すことがあるという迷信も民衆の間にはびこっていました。12世紀のカンタベリー大司教トマス・ベケットが国王ヘンリー二世の手の者に暗殺された際も、言い伝えによればカンタベリー大聖堂の鐘は自然に鳴りはじめたそうです。
鐘は時を知らせる役割の他に、人々の誕生や結婚や死といった大切な情報を共同体で共有するための有用な道具でした。結婚式を終えて新郎新婦が教会から出てくる時に、婚礼の鐘が町中に鳴りわたる様を想像してみてください。二人の門出を華やかに祝う音の響宴です。葬儀の折に弔鐘を鳴らす風習は、鐘の響きが死者の魂から悪鬼を追い払うと信じられていたからです。
ベル・リンギングには負の一面もありました。酔っ払いがめちゃくちゃに鐘をついて騒音をまきちらしたり、鐘塔でご乱行におよぶ不届き者が現れたり、風紀を乱した時期もありました。そんな苦難を克服して、鐘を鳴らすメカニズムは改良を重ね、演奏法も進化をとげて、今日のベル・リンギングの技法が確立されてきたのです。
イギリス独特のベル・リンギングは、専門用語でチェンジ・リンギング(転座鳴鐘法)と呼ばれ、1万通りものパターンで何時間も続けて鳴らすことが可能なくらい、鳴らし方は多様性に富んでいます。イギリスの教会の鐘は世界最大の楽器であるといっても、さほど間違いではないと思われます。
チェンジ・リンギングの基本は、音程の異なる複数の鐘をベル・リンガーが一定の法則に従って鳴らす仕組みです。複雑きわまりないその組み合わせはまさに数学的な順列に基づくもので、その精妙さは今日でも数学者やコンピュータ学者を魅了してやみません。
ところで、先述のウェストミンスターの鐘として定着しているメロディ。実はケンブリッジ大学の公式教会であるグレート・セント・メアリーズ教会の鐘のために1793年に作曲されたメロディがオリジナルなのです。当教会の公式サイトには、「わが教会のチャイムはウェストミンスター・パレスはじめ世界中で模倣されています」と、ちょっとばかり恨めしそうな記述が見られます。
私どもが家族ぐるみでおつきあいをしているケンブリッジ大学のフランク・キング博士は、コンピュータ・サイエンスの研究者ですが、〈ユニバーシティ・ベル・リンガー〉という名誉ある役職を兼務してきた方です。そのフランクもやはり例のメロディについては「ウェストミンスター・チャイムズではなくて、ケンブリッジ・チャイムズと呼んでほしいね」と常々こぼしています(笑)。
日本各地の名刹(めいさつ)の梵鐘の音響を収録したCDがかつてSONYから発売され、オーディオ・マニアをうならせたことがあります。その優秀録音のCDを、私はフランクにプレゼントしました。すっかり日本の鐘の響きに魅せられた彼は、職場でもよくCDを流していると連絡をくれました。ユニバーシティ・ベル・リンガーの部屋から、日本の梵鐘が大音量で聞こえてきたら、周りの人たちはさぞかし目を丸くしたことでしょうね。
ちなみにベル・リンギングを練習するために、イギリスで考案されたのがハンドベルという楽器です。鐘楼は盛大な音が外に漏れるうえ、冬場は寒いので、小型の鐘を手に持って、屋内で練習ができるようにと開発されたわけです。青山学院大学にもハンドベル・クワイアが存在します。実際にハンドベルの演奏に接してもらえると、魂が清らかに澄んでいくような天上の響きに身をひたすことができますよ。
[Photo:佐久間 康夫、佐久間秀彰]
青山学院のキャンパスではさまざまな種類の鐘に出会うことができます。
2025年3月に完成した、青山学院中等部73・74・75期卒業生の卒業記念品「飛翔の鐘」もその一つです。校内エントランス付近に設置されています。
2025年5月に開館した青山学院ミュージアムにはフィランダー・スミス・ビブリカル・インスティテュートの時計台の鐘を見ることができます。