旅先で出会う青山学院 2【 弘前(後編)】
2024/12/23
「一身独立して国独立す」福澤諭吉は、自立した日本を確立するために、一人一人の自立を説いた。そして、各人が自立するためには、学問の必要性を説いている。
明治5(1872)年、稽古館の廃校の決定を受け、立ち上がったのが本多庸一(明治元〈1868〉年、庸一に改名)の親友である菊池九郎である。菊池は学校再建の計画を企画し、有志からの寄付を募り東奥義塾を新設する。東奥義塾は、寛政8(1796)年に稽古館が設立した地に校舎が建設された。この地には今も旧東奥義塾外人教師館が残されており、その名残をとどめている。このとき(明治11〈1878〉年)本多が初代塾長に就任する(明治16〈1883〉年まで)。
米国メソジスト教会は東奥義塾を支援し、米人宣教師を英語教師として派遣した。東奥義塾は、この優れたカリキュラムを背景に多くの人材を輩出する。たとえば外交官。日露講和条約の交渉を陰で支えた珍田捨巳(外務次官・侍従長)や佐藤愛麿(外交官・宮中顧問官)などはよく知られたところである。ジャーナリストとして知られる陸羯南、中国に渡り孫文の活動を支援し続けた山田良政・純三郎兄弟など、在野の活動家を多く育成したことが特徴だ。山田寅之助(神学部)など、青山学院で教鞭をとる人々も居た。
東奥義塾の教育活動はうまくいっていたが再び資金不足に直面する。弘前市や青森県からの補助金だけでは継続が困難となったのである。結局、明治34(1901)年に弘前市へ移管される。その後、県の意向もあり工業学校の設立が進められた。
こうした状況の中、東奥義塾出身者などから再興の機運が高まることになる。この動きに青山学院院長石坂正信や阿部義宗も賛同し協力する。そして、米国に居た笹森順造に対し帰国を要請し、塾長に迎えている(笹森は18年間塾長を務めた後、青山学院院長を4年間務めた)。かくして、大正11(1922)年4月7日、弘前市公会堂仮校舎で開校式が催された。
青森中央学院大学の北原かな子教授の案内で共同研究の仲間とともに東奥義塾高等学校を訪問した。弘前駅からタクシーで30分ほど。リンゴ畑を車窓に見ていると、あっという間に着いてしまう。図書館には、稽古館時代から今日に至るまで貴重な資料が残されている。青山学院初代院長のロバート・S・マックレーの次男アーサー・C・マックレー(東奥義塾の英語教師)が書いた『日本からの書簡集』には、函館から青森港に上陸したときの様子が書かれている(明治7年ごろ)。「すべてが沈黙と闇に包まれている。街灯さえ、どこにもない。ここはまさに、本当の日本なのだ」。横浜や東京のような賑わいのある街よりも、青森の方が日本の本質を示していると説いている。確かに。それは今も昔も変わらないかもしれない。
参考文献:北原かな子『洋学受容と地方の近代』(岩田書院、2002年)
資料提供:東奥義塾