Column コラム

旅先で出会う青山学院 6【赤穂】

写真(上):浅野家菩提寺の花岳寺(筆者撮影)

 

青山学院大学経済学部経済学科教授

落合 功

 

赤穂は赤穂浪士(忠臣蔵)の舞台として知られている。12月14日は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日として、赤穂では義士祭で賑わう。

自分のことで恐縮だが、私は赤穂とは縁がある。それは塩を研究テーマの一つにしているからだ。赤穂は江戸時代から著名な塩産地として知られている。今年(2022年)の2月に赤穂市文化会館で講演会を行った。コロナ禍での開催で、限られた人数の参加だったが、定員はあっという間に埋まったとのことである。「『日本第一』の塩を産したまち 播州赤穂」ということで2019年に日本遺産にも認定されている。塩への関心も非常に高い。

 


赤穂市立海洋科学館・塩の国にある「流下式塩田」

 

赤穂の塩は坂越(さこし)の港から江戸・大坂へと運ばれた。北前船を利用して北国地方(北陸、東北地方)へも運ばれている。江戸時代、塩のことを「塩」と呼ばず、産地名で呼んでいた。だから赤穂塩のことを「あこう」とか「あこ」と言う。他の産物はそういう例はほとんどなく、塩の特徴と言えるだろう。多くの人々は「忠臣蔵」の拡がりと共に赤穂の地を塩づくりの名所として思いをはせたに違いない。現在でも塩味饅頭など塩を絡めた菓子が多くある。

 


坂越の街並み(赤穂の塩はここから送られた)

 

江戸時代の初頭から塩づくりは盛んだったが、本格的に塩づくりが始まったのは浅野長直が笠間藩から赤穂藩へ転封してからのことである。浅野長直が赤穂藩に入封した直後、荒井村(高砂市)や的形村(姫路市)の塩民を移住させ先進的な製塩法を導入する。この時、活躍したのが大野九郎兵衛である。大野九郎兵衛といえば、赤穂藩改易の際、藩札整理や分配金をめぐり大石内蔵助らと対立し、最後は出奔したことで不忠臣と言われている。しかし、代々浅野家の財政を支えている。石高というのは領内の米の生産高から算出したものであり、赤穂藩は5万石程度の小藩である。しかし、塩での利益は相当あり、豊かな藩だったと考えられる。赤穂藩改易の事件さえなければ、大野九郎兵衛は小藩の財政を扱う人物として、大石よりも明晰な人物だったと言えるかもしれない。人物評価はスポットの当て方で全く変わってしまうものだ。

 


赤穂城址

 

『大忠臣蔵』という古いビデオを観ていたら、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が幕府高家(高家とは儀式や典礼などを指導する役職のこと)吉良上野介義央に意地悪された理由は塩づくりの秘法を教えなかったからだということである。吉良上野介の領地である愛知県西尾市付近も饗庭塩(あいばじお)の産地だが、秘法を伝えたか否かは定かでない。もっとも瀬戸内地方と三河湾では立地条件も大きく異なり、同じ製塩法を採用できたかは微妙である。

『大忠臣蔵』では、本学経済学部出身の渡哲也が堀部安兵衛(中山安兵衛)を演じていた。このドラマは大石内蔵助を始めとしてキーパーソンは多いが、若い渡哲也が扮する堀部安兵衛もまた、江戸詰めの中心人物として、清水一学(吉良側の家来)との友情や討ち入りでの対決など重要な役回りを演じている。そもそも堀部安兵衛は高田馬場の決闘が有名で、忠臣蔵を長編で扱うとき、このシーンから始まることが多い。

元禄14(1701)年3月14日、浅野内匠頭は吉良上野介を江戸城松の廊下で切りつけた。浅野は、公儀(幕府)から即日切腹を命じられ、御家断絶の処罰となる。浅野の刃傷の第一便は赤穂城へ早駕籠で4日半で伝えられた。現在であれば東京から播州赤穂まで4時間半だが、当時の対応としては最速だった。大石内蔵助を始めとした赤穂藩の旧臣たちは、この刃傷事件に対し、主君だけが処罰されたことに異議を唱え、翌年12月14日、江戸の吉良邸に討ち入り、吉良を殺害する。かくして、大石内蔵助以下旧臣の行動を忠義の武士であると賞賛し、忠臣蔵として長く語り継がれることになる。

 


高取峠(浅野内匠頭の刃傷の情報は、早駕籠によって伝えられたが、
人足が交代し休むことなく、江戸から赤穂まで4日半といわれた)

 


息継ぎ井戸(浅野内匠頭が江戸城で刃傷におよんだことを早駕籠で伝えたとき、
赤穂城手前のこの井戸で一息ついたといわれる)

 

『仮名手本忠臣蔵』は寛延元(1748)年に初演がなされて以来、人形浄瑠璃、歌舞伎などの人気の演目としてしばしば取り上げられた(赤穂事件を取り上げた最初の歌舞伎は宝永5〈1708〉年の「福引閏正月」と言われる)。

この事件自体は、公儀の処罰に対する批判になる。しかも、武家社会の事件を歌舞伎の演目として上演することは禁じられたため、登場人物の名前を脚色した。『仮名手本忠臣蔵』の著者である並木千柳は人々にとって史実を連想させる名前が良いと考えた。並木は赤穂の名産品である「塩」にかけ、浅野内匠頭を「塩冶判官(しおやはんがん)」と名付けている。吉良上野介のことは高家肝煎ということで高師直と名付けた。大石内蔵助はというと大星由良助である。これは『仮名手本忠臣蔵』の冒頭に「平和の時には忠義や武勇は見えないが、それは昼に見えずに、夜になればたくさん現れる星のようである」と記されている。大星ということは、天空にひときわ輝く星ということなのだろう。

「忠臣蔵」は、事実に基づくフィクションだが、日本人好みの勧善懲悪の物語として現在に至るまで人気を博している。醜悪な権力の壁に自身の身を賭してまで立ち向かい、主君の仇を討ち取る姿に、義士たちの純粋な忠義の精神を感じ取り、民は叶わぬ自分を投影するのだろう。

「忠臣蔵」は趣向を変えつつも何度もテレビ番組や映画で取り上げられている。このため、赤穂の町は観光客で賑わう。外国人観光客が多いのも特徴だ。播州赤穂駅から南に直進すると赤穂城が見えてくる。その周辺には城代家老であった大石内蔵助の旧宅長屋門、赤穂藩浅野家の菩提寺であり義士の墓がある花岳寺、義士の銅像が立ち並ぶ大石神社など、「忠臣蔵」に関係する名所が所狭しと点在している。何と言っても、今から320年前に、大石内蔵助たちが、同じところを歩いていたかと思うと興奮する。

 


花岳寺

 

たとえフィクションであるにせよ、「忠臣蔵」は300年以上も練り込まれた人物物語である。本当か否かは別として、忠臣蔵に登場する一人ひとりの個性は、私たちの心にしっかりとイメージされ刻み込まれている。

自分に対し正直に生きることへの難しさを痛感する現在、自らの信念を貫き通した人々に思いをはせる時、「生きるとは何か」「自分とは何か」という、人としての本質を素直に問い掛けるところである。

 

「青山学報」282号(2022年12月発行)より転載
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