旅先で出会う青山学院 7【尾道】
2025/06/12
尾道に行くのであればJR福山駅で在来線に乗り換えた方が良いだろう。東尾道駅を過ぎて3分程度経ち尾道大橋をくぐると、一瞬だが景色が開ける。尾道水道が一望できる瞬間だ。このとき尾道の人は「やっと尾道に帰って来た」と実感するそうだ。
林芙美子の『放浪記』に「海が見えた。海が見える。5年振りに見る尾道の海はなつかしい」という有名な一節がある。尾道出身の誰もが共感する描写だ。しばらくすると尾道駅に到着する。駅を降りると、すぐ目の前には瀬戸内海がひろがっている。ただ初めての人は違和感を覚えるに違いない。遠くに水平線が見えるような海ではないからだ。正面に島があり造船所がある。だけど潮の香りがするし、さざ波もある。林芙美子のいう「尾道の海」とはこれである。
現在は尾道と向島は架橋され、容易に車で往復できるはずだが、今でも3か所で渡船が往復し、人と車(自転車やバイクも)を運んでいる。朝夕は、通勤・通学の人達で大賑わいである。時刻表は無い。自転車やら車やら人を乗せたらすぐ出発する。慌ただしい。わずか4~5分程度で対岸の向島に到着する。その間に、乗船している人達から料金を徴収する。片道60円で、自転車を載せると10円が加算される。とても安い。かつては1円で乗船できたので「1円ぽっぽ」と呼ばれていた。
尾道は尾道港とともに成長した。瀬戸内海は一見穏やかそうだが、内海は潮の干満差が大きく、潮流が速い。この点、尾道は向島が風を遮り天然の良港である。多くの北前船が寄港し、米や塩や肥料をはじめ多くの物資を運んだ。肥料倉庫は所狭しと並び、肥料売買の中継地として繁栄した。
尾道の町は山の背にはりつくように家が連なっている。対岸の向島から見る尾道の夜景は美しい。千光寺山はロープウェイもあるが、歩いても30分程度である。登山道はたくさんあり、迷いやすい道のようだが、上を目指して歩いていけば、なんとなく山頂に到着する。千光寺山の山頂からは、尾道の港と尾道水道が一望できる。対岸に島々が連なり、大河のようにも思えてしまう。
現在はサイクリングの起点としても知られる。尾道を起点とし、今治(愛媛県)に至るまで、六つの島々を橋で結んでいる〝しまなみ海道〟と呼ばれる70㎞の道である。瀬戸内海は多島海とも言われる。大小さまざまな島々が色々な姿を見せてくれる。その美しい姿は古くから知られ、瀬戸内海国立公園は、昭和9(1934)年、日本で初めて指定された国立公園の三つのうちの一つである(他は雲仙国立公園と霧島屋久国立公園〈いずれも旧名称〉)。サイクリングで橋を渡るとき、眼下の瀬戸内の海と島々を眺めると圧巻だ。島の人達は本州のことを〝本土〟という。病気になっても海が荒れると出港できず、助かる命が助からなかったこともしばしばあった。橋の架橋は島の人達にとって悲願であった。
尾道には定番の土産物がある。蒲鉾である。尾道の蒲鉾は古くからの名品で、明治時代に開催された水産博覧会で表彰を受けている。新鮮な海産物を利用した尾道の蒲鉾は、当時から県下随一との評判が高かった。
地元の人が自慢げに「尾道の第一のお土産といえば桂馬の蒲鉾」と紹介してくれた。「桂馬」とは桂馬蒲鉾商店のことで、大正2(1913)年創業の老舗である。初代店主は将棋が好きで、個性的な動きをする桂馬と自分の名前(桂造)を重ねて屋号にしたという。
尾道商店街を少し歩くと「桂馬」という看板が見えてくる。平日の午後にもかかわらず、店外にまで客があふれていた。旅行客だけではない。地元の人達にソウルフードとして愛されている。かつては店頭の石畳に天ぷら鍋を置き、そこで揚げたての天ぷら蒲鉾を新聞紙で包んだ。アツアツの蒲鉾を買って食べるのが楽しみだったという。
昭和3(1928)年ごろに現在の場所に移転した。もう100年近くになる。当時は魚市場の隣で、新鮮な魚介類をすぐに運びこむことができたという。現在でも朝4時から作業が始まる。早朝、市場から運ばれた「白グチ」「ハモ」「エソ」などの瀬戸内の魚をさばき、すり身を仕立てる。手間暇を惜しまず無添加で生魚を利用して一つ一つを丁寧に手作業で作るのが桂馬の伝統であり誇りである。毎朝続く大変な仕事だが、人々が食卓で笑顔になる姿を思い浮かべると楽しくなるそうだ。
最近は合理化こそが正解という風潮がある。人件費を削り効率化を目指すのが経営者の才覚だ、と。添加物を入れた方が長期間保存でき、多くの人に喜ばれるという理屈もある。別に法律に定められている範囲内であれば悪くはないのだろう。しかしそれは桂馬の経営理念の真逆である。
実は、この桂馬蒲鉾商店の三代目女将は村上芳子さんという方で、青山学院の校友だ。昭和51(1976)年に入学した。大学時代は、色々な美術館や文学館に通うのが好きだったそうだ。文学が好きなのには訳がある。志賀直哉の名著『暗夜行路』を読むと、主人公の謙作が旅に出て尾道で生活するという一節がある。自暴自棄になり放蕩生活をしていた謙作は尾道の地で心の落ち着きを取り戻し、小説執筆に専念する。実は志賀自身も尾道に二度ほど滞在し、千光寺のそばの三軒長屋に居宅を構え、執筆活動をしていた時期があった。このとき、志賀を世話したのが小林太兵衛・マツの老夫婦で、村上さんの高祖父母(祖父=初代店主の祖父母)だそうである。
村上さんは大学を卒業するとすぐに尾道に戻った。東京での大学生活は楽しかったが、尾道の町が好きなのだと話をしてくれた。確かにそうなのだろう。海もあり、山もあり、人情がある。多くの映画や文学の作品の美しいシーンを追体験でき、想像を掻き立てる町である。尾道は多くの旅行客に寄り添う町である。
瀬戸内の思いと伝統が凝縮された桂馬の蒲鉾も、尾道の風土があるからこそ作り続けられているのだと実感した。