Column コラム

旅先で出会う青山学院 8【白河】

写真(上):白河関跡(筆者撮影)

 

青山学院大学経済学部経済学科教授

落合 功

 

境界の町と関根要八

白河というと、白河関がよく知られる。令和四年の夏の高校野球では東北地方で初めて仙台育英高校が優勝した。このとき「白河関を越えた」と言われて話題になった。境界の性格は、境目であり融合である。その性格は様々な白河の歴史を作り出してきた。

古代国家は蝦夷からの侵略を防ぐために関所を設置した。白河関は菊多関(勿来関、福島県いわき市)、念珠関(鼠ケ関、山形県鶴岡市)と共に奥州三関の一つとして数えられる。

平安時代の歌人たちは白河を和歌の歌枕(名所)とし、みちのく(陸奥)の入口の白河に憧れた。能因法師は「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(春霞がたつころに都を出立したが、白河関に着いたときには秋風が吹いていた)」と詠んでいる。しかし、このとき能因法師は白河に行っていない。能因法師は旅に出たという噂を流し、家に隠れて日焼けをした。陸奥国に修行に出かけた際に詠んだのだと、この句を披露したという。都から遠いことを表現したのだろう。

松尾芭蕉は、曾良と共に奥州を旅したとき、「白河の関にかかりて旅心定りぬ」と、白河関にさしかかって、旅をするのだと決心したという。白河は遠い憧憬の場であり、新たな始まりの場所でもあった。


白河関跡(福島県白河市、筆者)

 

白河関はどこに
中央でも著名な白河関だが、どこに所在したかは定かでない。古代に設営された白河関は、中世のときには廃止された。以来、場所がわからなくなってしまった。現在の場所を白河関だと定めたのは、寛政12(1800)年、当時白河藩主だった松平定信である。幕府老中として寛政改革を推進した松平定信が、老中退任後、白河に戻り、空堀や土塁が残る同地を白河関だと決め「古関蹟」の碑を建立した。

この地が定説だが、他にも候補地がある。国道294号を進むと、ちょうど県境を挟んで、白河市(奥州)側に玉津島明神(女神)、那須町側(下野国)には住吉明神(男神)が祀られている。現在、この二つの神社をあわせて境の明神とよぶが別の名を二所の関とよぶ。二所ノ関とよばれる相撲の年寄名跡の由来はここである。白河関は複数の場所に設置されていたとの説もある。

 


境の明神(玉津島明神、下野側には住吉明神がある)

 

関根要八とソーパー牧師
関根要八(1873─1956)は、青山学院の理事・評議員を長く務め、戦前の混乱の時代、1937年4月から39年3月までの2年間、理事長を務めている。白河町に近い西白河郡(矢吹町)で生まれた。

 


関根要八

 

歴史上の人物は、その人物を発見し、掘り起こす人が居なければ埋もれたままである。要八は、地元の歴史研究家である庄司一幸先生の丁寧な史料の掘り起こしによって明らかにされてきた。庄司先生がいなければ、要八は歴史の中に埋もれていただろう。内容を紹介しておこう(庄司一幸『日本基督教団矢吹教会の創立者 元青山学院理事長・元東洋汽船株式会社専務取締役・元帝国ホテル常任監査役・元日本鋳造株式会社代表取締役社長 関根要八』2016年)。

若いとき、要八は白河町内の本屋で働いていたという。このときジュリアス・ソーパー牧師から洗礼を受けた。ソーパー牧師は要八に対し、「英語を勉強したいか」と尋ねたところ、要八は即座に「勉強したい」と答えたという。ソーパー牧師は名刺に言葉を書き添え、東京英和学校(青山学院の前身の一つ。東京英和学校のさらに前身の一つにソーパー牧師が築地に設立した耕教学舎がある)を紹介した。こうして、要八は14歳の時に東京英和学校に入学したのである。ソーパー牧師は入学を支援しただけでなく、その後も毎月仕送りを続けた。ソーパー牧師は、後に青山学院神学部の部長を務め、本学の本部棟前に記念碑も残されている。

1894年7月は東京英和学校から青山学院に改称された年である。この年の6月、要八は卒業した。東京英和学校最後の卒業生ということになる。翌年浅野回漕部に勤め、一年で東洋汽船に転職する。東洋汽船で事務長を務めていたとき、アメリカ航路の汽船に野口英世がしばしば乗っていた。英世は酒飲みで、要八が用立てたこともあったそうである。1920年には専務取締役に就任する。1923年には帝国ホテルの常任監査役、1925年には教文館理事に就任する。そして、1932年には日本鋳造会社の常務取締役に就任した。

このとき、日本で初めて発売された電気自動車で通勤していたという。

母校の青山学院においても1918年7月に評議員になり翌年から理事に就任している。1937年4月から1939年3月まで理事長を務めた。1927年には間島記念図書館建設のための実行委員長に着任する。若いときに本屋で仕事をし、教文館の理事になったように本への思いを大事にする人である。適材適所というべきか。

要八は1944年2月、生まれ故郷である矢吹町に疎開する。このとき全ての役職を退いたというが、青山学院の理事だけは続けている。太平洋戦争の敗戦直後の1945年12月に矢吹教会の創設に協力した。

 

主君不在の戦場
明治維新は無血革命などと評する人もいるが大きな間違いである。戊辰戦争は東北・北陸地方の各地に多くの傷跡を残した。白河もその一つである。白河は東北への入口であり要害であった。ところが、戊辰戦争時には領主が不在だった。ちょうど、老中だった阿部正外が棚倉藩に転封したばかりで後任が定まらなかったのである。このため白河は、奥羽越列藩同盟軍と新政府軍の草刈り場になった。東北の入口をめぐる白河城や白河口での攻防は数度にわたって行われ、激烈を極めた。1868年閏4月20日から始まった攻防戦は7月28日まで3か月続いた。白河を突破されると東北各地の戦いの収束は早かった。仙台城は9月15日に、会津若松城は同月22日に落城する。盛岡藩が降伏するのも同月25日のことである。


白河小峰城(福島県白河市)。戊辰戦争でほとんどの建物が焼失した。
1991年に本丸御三階櫓が木造により復元された

 

主君不在のため、地元の人々は、いわれるがままに協力を強いられた。自身の意志で協力したわけではないにもかかわらず、のちに「どちらの味方をした」と言われることがあったという。地元の人たちは敵も味方も分け隔てなく、負傷者に対し手当した。多くの不運を乗り越えつつも、利益に関係なく分け隔てない救いの気持ちを持ち続ける白河の人々の姿は、戦争を嫌い、慈愛の気持ちを忘れない要八の思想の一部に刻み込まれたに違いない。


戊辰戦争仙台藩士戦没者碑(福島県白河市)。
他藩の戦没者の碑も残されている

 

「青山学報」284号(2023年6月発行)より転載
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