Column コラム

旅先で出会う青山学院 9【福井】

写真(上):福井駅前、恐竜のお出迎え(筆者撮影)

 

青山学院大学経済学部経済学科教授

落合 功

 

福井の町

北陸地方の12月は気まぐれだ。「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉がある。その日の天気も、曇り時々晴れ、時々雨、ときおり強風、雷だった。一日のうちに目まぐるしく変わる。すぐに晴れると思って傘をささないと、雨が激しくなりビショビショになる。ならばと傘をさすと、晴れ間が見えてくる。

由利公正をテーマにした講演の機会に恵まれ福井にきた。2024年に北陸新幹線が金沢から敦賀まで延伸されることで、福井駅前は建設ラッシュである。駅舎や駅前も整備されつつある。どのように変貌するか楽しみだ。

福井駅では、恐竜の出迎えがある。ベンチにも恐竜が腰かけており、至る所に恐竜キャラがいる。福井は恐竜王国だ。詳しいことは割愛するが、勝山市で多くの恐竜化石が発見されている。恐竜のシンポジウムをやれば市民が集まり、子どもから大人まで熱心に恐竜の話に耳を傾けている。それぞれの県で特徴的なテーマを持つのは良いことだ。

駅から10分程度歩くと福井城がある。福井城のお濠を渡ると、そこには天守閣ではなく県庁舎がそびえている。文化財保護の観点からは気になるが、県民はあまり気にしてないようだ。中心は今も昔も変わらないということである。


城内にある県庁舎

 

県庁に隣接した福井市役所には福井県出身の吉田正尚選手を応援する横断幕が掲げられていた。本学出身で、オリックスを日本一に、そして3月のWBCでも日本を世界一に導く活躍をし、現在は大リーガーとして活躍している。変化球や緩急のある投球にもフルスイングする。三振が少ないのが魅力の好選手である。


福井市役所前横断幕

 

一乗谷

福井駅からバスで30分程度で一乗谷朝倉氏遺跡に到着する。今春、学生たちと訪問した。現在、国の特別史跡に指定され、一乗谷の町並みの一部は戦国時代の復原町並みとなっている。展示模型などで町並みを復原することは良く知るところだが、実際の現場に原寸大で復原した姿は壮観だ。一乗谷の入口・出口を示す上城戸から下城戸までの1.8㎞を散策できる。道を挟んで家臣の館や町家が並んでいたことがよくわかる。現在、復原された町並みは一部だが、それでも発掘された場所には解説が付されており、思いを馳せることは可能である。朝倉館や重臣の館は小高い丘にあったことが判明する。


諏訪館跡付近から復原町並みを望む

 

一乗谷は三方を山に囲まれた天然の要害だった。戦国大名として朝倉氏が越前国の覇権を握ると、一乗谷には多くの家臣だけでなく、職人や商人も集住し賑わいをみせた。京都からも多くの文化人が訪問した。足利義秋(義昭)も明智光秀と共に身を寄せた。しかし、義昭からの再三の上洛要請にも、当主朝倉義景が首を縦に振ることは無かった。

豊かな文化・物資に恵まれ、領国経営は順調で安定していた。雪国であることから、遠征は躊躇するのだろう。結局、上洛への好機はあっても生かすことができず織田信長に滅ぼされてしまう。栄華を極めた一乗谷の町並みも灰かいじん燼に帰すことになる。

一乗谷では恐ろしい地獄絵図が展開されたに違いない。当時の戦争では乱取りが認められていた。乱取りとは、乱暴狼藉のこと。弱い者は乱暴され、馬や家財道具、豊かな田畑の収穫は奪い取られたに違いない。それらは雑兵たちの褒美である。悲しいことだが、それが戦争だ。

織田信長の死後、織田家第一の家臣であった柴田勝家が北の庄城を築城、根城にした。羽柴秀吉の電撃的な畿内攻略に対応できず、雪解けを待って出陣したものの賤ケ岳の戦いで一敗地にまみれてしまう。信長の妹お市の方と自害したと言われる北の庄城の跡地には現在、柴田神社が建立されている。福井駅から5分の場所にある。


「500年前の一乗谷の皆さん」と

 

 

多くの賢人を輩出

江戸時代、福井藩は歴史上著名な人物を輩出した。幕末の福井藩主だった松平春嶽もその一人である。春嶽は政治総裁職として参勤交代の緩和を実行するなど幕政に辣腕をふるった。しかし、当時、将軍後見職だった徳川慶喜が幕府権力を強化する動きをみせたことに反対し、越前国に帰国する。

春嶽は多くの忠臣に支えられていた。中でも由利公正は福井藩の財政改革を担うだけでなく、明治初期の金欠状態の維新政府の財政を担った人物として知られる。太政官札(金札)発行を積極的に行う殖産興業政策は、現在でも興産紙幣として評価される。戊辰戦争が続く中での政策であり、大成功とは言えないものの、質素倹約を基調とした経済政策から民富・富国を目指した経済政策へと大きく舵を切り、今でも「由利財政」として語り継がれている。福井藩でも経済政策を推進し成功に導いた。坂本龍馬にも頼りにされ、「当時の天下の人物」の一人として、西郷吉之助(西郷隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)などと共に、三岡八郎(由利公正)が取り上げられている。大政奉還が決まると、龍馬が福井に出向し由利と意見交換したことは良く知られるところである。龍馬が暗殺される半月前のことだったため、龍馬は由利に遺言を託したと言われる所以である。

他にも将軍継嗣問題で奔走し、安政の大獄で斬首された橋本左内。政治総裁職の春嶽を支えた中根雪江。善政を行い世直し明神に祀られた鈴木主税。今も語り継がれる多士済々の家臣がいた。幕末期に突如として多くの賢人が登場したわけではないだろう。福井藩では常に文武に励み、努力を怠らなかったということである。

日頃から努力する精神は、今も脈々と引き継がれている。その一人、吉田正尚選手は、小学生のときに「努力をすればきっと実る」という内容の作文を書いているが、練習こそ大成の基礎になったのだろう。ここ一番で活躍する勝負強さは、才能と多分な努力の結果に違いない。大学硬式野球部の部長を務める同僚の先生に話を聞いてみた。大学時代の吉田選手は、練習熱心で、納得いくまで練習をやめなかったという。福井の人々が吉田選手を応援するのは、そうした努力を身近に感じているからに違いない。ホームランを1本打つごとに発展途上国の子どもたちに10万円を寄付している。本学で得た経験は勉強と野球だけではないようだ。


由利公正像

 

 

「青山学報」285号(2023年10月発行)より転載
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