Column コラム

旅先で出会う青山学院 10【美唄】

写真(上):美唄市炭鉱メモリアル森林公園(筆者撮影)

 

青山学院大学経済学部経済学科教授

落合 功

 

北海道はとても広く美しい。羽田空港から飛行機で90分。新千歳空港に到着しただけでも開放感がある。「北海道は乳製品が美味しい」と友人に言ったら、「北海道は何でも美味しい」と返ってきた。同感である。ラーメン、魚介類、肉、ビール、スープカレーなどなど、北海道にいると食が進む。食料自給率(カロリーベース)が200%以上だと、こうも違うものかと思ってしまう。

自分の研究テーマである塩と砂糖を例にすると、北海道では塩作りはほとんど行われていなかった。松前や函館などの道南地方は北前船により塩が運ばれてきたが、原住民であるアイヌ人は狩猟した動物の脂肪分などで塩分を摂取したそうだ。砂糖はテンサイ(砂糖大根)が栽培されている。明治時代、北海道開拓の一環としてテンサイの育成と製糖工場の設立がなされるものの、採算が合わず一時期廃業する。ただ、終戦直後、奄美諸島や沖縄がアメリカの施政権下に入ると、サトウキビ産地が失われ、甘味資源は北海道のテンサイに頼らざるを得なかった。

「北海道開拓」という言葉を使ったが、開拓というのは、あくまでも日本人移民の発想である。もともとアイヌ人がいたことを忘れてはならない。『ゴールデンカムイ』というアニメが話題である。時代考証は滅茶苦茶だが、アイヌ民族の特性を垣間見ることができる。アイヌ語ではアイヌは人間で、カムイは神であるが、水やヒグマなど人間の力の及ばない自然一般を指すそうだ。アイヌ人は、北海道だけでなく、樺太や千島列島に住んでいた民族で狩猟を生業とした国を持たない民族だ。18世紀後半にロシアのラクスマンが根室に来航すると、日本(江戸幕府)は、北海道(蝦夷)が日本の領土であることを示す必要があった。その方策の一つは探検である。近藤重蔵は択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て、間宮林蔵は樺太を探検し、間宮海峡を発見した。もう一つは、地名の和名化である。アイヌ語は記憶を重視し文字が無かったため、幕府の役人が各地を回り、アイヌ人から地名を聞き出し、漢字(和名)に置き換えた。いろいろ説はあるが、札幌はアイヌ語で「乾いた広いところ」であり、美唄は元のアイヌ語は「ピパオイ」で「カラス貝のたくさんいるところ」という意味である。北海道の現在を理解する上で、原住民であるアイヌ人の存在と、開拓者の活動のいずれも理解することが大切である。国を持たない姿、記憶の方法(文字を持たない)、カムイの考え方などを理解すると、常識と思っているものは必ずしも常識でないことを痛感する。


アイヌ民族の長老、イランカプテ(こんにちわ)像がお出迎え(札幌駅改札前)

 

JR札幌駅から特急に乗ると30分ぐらいでJR美唄駅に到着する。かつての美唄は炭鉱で賑わっていた。三井・三菱をはじめとした採掘場が多くあり、道内でも有数の石炭生産地であった。終戦直後、石炭は黒いダイヤと言われ重宝されていた。炭鉱は町を形成した。炭鉱夫が住む炭鉱住宅が建てられ、病院、食堂、理髪店をはじめ多くの店が軒を連ねた。


三菱美唄竪坑出入坑風景(昭和30年代)
写真:美唄市郷土史料館蔵

 

炭鉱が閉じた現在はその面影をわずかにとどめているにすぎない。美唄駅から自転車で40分近く行ったところに炭鉱メモリアル森林公園がある。三菱美唄炭鉱跡地で、真っ赤な巨大な竪
たてこうまきあげやぐら坑巻揚櫓が残されている。ただ、自分が行った時は、草が生い茂り、公園というには少し残念な印象が残った。


美唄市炭鉱メモリアル森林公園、竪坑巻揚櫓

 

飯澤忠・弘子夫妻が美唄教会に着任したのは1959年2月のことである。飯澤弘子さんは青山学院の校友である。1948年に中等部に入学し、1954年に大学文学部英米文学科に入学した。中等部の時に入信し、高等部では宗教部に属していた。大学時代は学部の勉強以外にキリスト教についても熱心に学び、三つのアド・グル(先生を交えた自主的サークル)に参加していた。なかでも気賀重躬先生のアド・グルでは、永福町にある先生の自宅に集まり、聖書の勉強をしたという。いつも15名ほどが参加し、聖書の解釈をめぐって議論した。気賀先生は静かに耳を傾けられ、時に議論に参加した。そんな雰囲気がとても楽しかったそうだ。

弘子さんは美唄教会着任の前年に大学を卒業し、結婚したばかりであった。美唄に着くと、すぐ弘子さんは英語教室を開校した。当時は全国的に「英語の青学」として知られていた。飯澤夫妻が美唄教会に来ることを聞き、英語を教えて欲しいと子どもたちが集まって来た。美唄教会にいた6年間、毎年100名以上の小中学生たちを教えたという。


1960年ごろの美唄教会 〈写真提供:飯澤弘子様〉

 


現在の美唄教会

 

美唄は炭鉱の町である。各地から炭鉱夫が集まっていた。炭鉱は戦争からの引揚者、シベリア抑留からの帰還者、戦争で心身ともに疲れ果てた人、帰るべき場所を失った人、辛いことを背負った人々が生きるよりどころを求めて集まる場所でもあった。美唄教会は地元の人々だけでなく炭鉱夫をも支えた。彼らは信仰に熱心で大雪で交通が途絶したときには徒歩で礼拝に来たという。弘子さんは礼拝でオルガンを奏で、牧師である忠さんを支えた。当時、労働争議が活発化した時期でもあった。そして、エネルギー革命で石炭から石油に転換すると、多くの炭鉱が廃鉱する。三井に限って閉山はあり得ないなどと言われていたが、三井美唄炭鉱は、北海道の中でも早い時期(1963年)に閉山となっている。美唄を安住の地と思っていた多くの炭鉱夫は、新たな地を求めて再び旅立った。飯澤夫妻は、美唄駅のホームで、彼らを送りながら何度も「神ともにいまして」を涙ながらに歌ったという。

本稿作成に際し、弘子さんに連絡を取ったところ、「大学でお会いしましょう」と返事をいただいた。ガウチャー記念礼拝堂で行われる大学礼拝に弘子さんをお誘いしたところ、喜んで参加していただけた。場所は変われど、弘子さんにとって、学生時代に毎日通った場所である。大学礼拝は「若い時の魂がキリスト教の真髄に触れる機会」であったという。礼拝は青山学院にとって創設から現在まで絶えることなく続く特別な空間であり時間である。東京で生まれ、多感な時期を青山学院で過ごし、その後、美唄、札幌、東京で多くの苦楽を経験した。70年の歳月を経て大学礼拝に戻ってきたことを、弘子さんは静かに喜んでいた。


飯澤弘子さん(本部棟前で)

 

「青山学報」286号(2023年12月発行)より転載
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