Interview インタビュー

美しき陰翳(いんえい)第4回 天賦の異文化コミュニケーター森山栄之助・前編

今から200年ほど前の日本──。
江戸も末期に差し掛かり、不穏な事件が次々と起こり始めていた。
開国を迫る諸外国と江戸幕府の間で、オランダ通詞たち(オランダ語の通訳者)はどう動いていたのか。

歴史の胎動期にあっても、自らの足跡や想いを遺すことなく、ひっそりと消えていった“オランダ通詞たち”。
彼等の美しくも密やかな足跡を探るべく大学文学部英米文学科教授田中深雪先生にお話を伺った。

──幕末の日本にも志筑忠雄(江戸中期の天才・志筑忠雄前編後編)と同じくらいの傑物がいたのですか?

そうですね。
幕末には様々な方が活躍をしましたが、オランダ通詞界では、まず森山栄之助(多吉郎)(もりやま えいのすけ:1820-1871)の名前を挙げないわけにはいきません。

──今から200年前……日本で“感冒”が大流行した年の生まれですね。もうそれだけでシンパシーを感じますが、しかも森山栄之助は52歳で亡くなっている。死亡年齢は確かに志筑(※46歳没)に近い。森山栄之助とはどんな人物だったのですか?

森山栄之助は長崎で生まれました。彼の父・源左衛門もオランダ通詞で後に大通詞まで上り詰めた人物です。
江戸時代も終わりに近づいた頃、栄之助も父と同じ道を歩み始め、オランダ通詞としての仕事に従事するようになります。

森山栄之助
森山栄之助(写真左)
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

──深雪先生、もはやお決まりの質問となりましたが、森山はどのように外国語を学んだのでしょうか。わたしでも真似できる勉強法ですか?

森山は通詞の家の子として、若い頃からオランダ語をしっかりと学んでいます。
この頃になると、長崎の出島に滞在していたオランダの商館長ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff 1777-1835)や優れた通詞たちの力で、ようやく蘭日辞書『ドゥーフハルマ』が完成し、通詞たちの語学力も格段に向上していました。その中でも、森山はオランダ語を流暢に、しかも正確に操ることができるほどの語学力を持っていました。

ハルマ辞書
ドゥーフハルマ
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

──とはいえ深雪先生、語学力のすごさとしては志筑忠雄の破壊力というかインパクトに比べるとなんだか物足りなさを感じます。天才慣れしてきたせいでしょうか。

森山が他の通詞たちと異なるのは、オランダ語だけにとどまらず、英語も習得したことです。現代でも外国語を一つ習得するだけでもとても難しいのに、さらにもう一つ習得するとは、その向上心には驚いてしまいます。

──森山はトリリンガルだったんですね! しかしなぜ英語を? なんなら中国語の方が学びやすかったのではないのでしょうか? “鎖国時代の日本の貿易相手国はオランダと中国だけ”って学校で習いましたし。

森山が英語を学ぼうと思ったのには理由があります。当時、日本の近海にはイギリスやアメリカ、ロシア、フランスなどの船が次々と姿を現し、武力を盾に威圧的な行動を取るようになっていました。幕府に対して、通商や開国を迫るなど露骨に圧力をかける国もありました。17世紀から数百年も続けてきた、いわゆる鎖国政策が脅かされるようなことが頻発するようになったのです。
森山はそのような情勢の中、もはやオランダ語だけでは業務を遂行することができない日が来ると感じたのでしょう。英語を学び始めます。

黒船
黒船

 

──先見の明がありますね。しかし鎖国時代に英語をどうやって勉強したのでしょうか。

オランダ人のなかには多少英語がわかる人がいて、初めはその人から英語を習っていたようです。とはいえ、当時の日本では英語を学びたくても、教える人もまともなテキストも圧倒的に不足していました。森山も入手できた数少ない書物を通して細々と学ぶことしかできませんでした。そのような状況下、ある「アメリカ人」が捕らえられ長崎に連行されてきました。

──あるアメリカ人? 鎖国時代の日本にアメリカ人? 一体何者なのですか?

捕鯨船から小船を使って日本に密入国したラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald 1824-1894)という男性です。彼の名前は英語の教科書に取り上げられたこともあるので、ご存知の方も多いのではないかと思います。当時、日本では海を渡って日本に入国を試みた者は捕らえられ、あるいは殺されてしまう危険性さえありました。マクドナルドもそのことを知っていたのですが、それでも彼は数年かけて日本への入国のチャンスをうかがっていました。

──なぜマクドナルドは自分の生命を賭してまで日本に来たかったのでしょうか?

マクドナルドは白人の父親とネイティブ・アメリカンの母親の間に生まれています。肌の色、容貌の違いから偏見などにさらされたこともあったのでしょう。子供の頃、自分たちのルーツは日本人だと教えられたことから、日本に対するあこがれを抱くようになったそうです。
やがて鎖国によって謎の多い国とされていた遠方の日本に冒険したいと考えるようになります。危険が伴うため、夢想するだけで実行に移す人は少なかったと思うのですが、恐らくは冒険心が強い人だったのでしょうね。マクドナルドはあたかも漂流民であるかのように装って北海道の離島に漂着します。

漂着

 

──マクドナルド日本上陸成功ですね! でも北海道のマクドナルドと長崎で通詞をしている森山。現代ならいざしらず、なかなかの距離がありますが、どう結び付いていくのでしょうか?

何とか日本に漂着できたマクドナルドでしたが、捕らえられ、役人たちの取り調べの末、最終的に長崎に送られることが決まります。
長崎まで護送されてきた際、長崎の海上(船の上)で英語の通訳を行ったのが森山でした。マクドナルドは森山の英語について「非常に流暢で、文法にかなってさえいた。発音の仕方は独特だったが、日本語とは異質な文字と綴りの組み合わせを、おどろくほど見事に駆使していた」と述べています。恐らく森山はオランダ語なまりの発音で英語を話していたのだと思います。そもそも英語は独学で、生の英語を聞く機会も皆無に等しかったわけですから、無理もないことだと思います。

──ほぼ独学の森山が初めて英語のネイティブ・スピーカーと出会う。森山にとっては正に好機到来。濡れ手で粟というか、鴨が葱を背負って来たようなもの。きっとお友達になって、直接英語を習いたいと思ったことでしょうね。

鴨葱
ビバ! かもネギ的展開

 

マクドナルドは長崎に着くと、狭い座敷牢に監禁されることになります。立場の違う2人でしたが、信頼関係は築けたのではと思います。
森山たちオランダ通詞にとってはネイティブ・スピーカーから直接英語を学ぶチャンスだったことに変わりはなかったようです。マクドナルドが収容された座敷牢は狭く、格子で仕切られていましたが、そこになんと14名もの通詞たちが英語を教わりにやってきたといいます。
マクドナルドは長崎で勾留されていた数か月の間、日本初の英語のネイティブ・スピーカーの教師として、格子を隔てながら通詞たちの指導にあたりました。
英語の発音の仕方、イントネーション、語句の意味、それに構文などを教えていく中で、マクドナルドは、通詞たちについて「大変のみ込みが早く、感受性が鋭敏であり、彼らに教えるのは楽しみだった]
と述べています。通詞たちの中でも森山は特に有能で、文法などの面でもかなり上達することができたようです。マクドナルドは森山のことを「日本で会った人のなかで群を抜いて知能の高い人」と評しています。

──ここまでは英語を学びたい森山にとっては願ってもない展開ですが、日本を夢見て来日したマクドナルドにとっては、この流れはどうだったのでしょうか。牢屋の中にあっても、教えるのが楽しみというのが救いではありますが。

マクドナルドの方も日本語を習得して、やがては日本語と英語で通訳ができるようになりたいとの思いがありました。実はそれが来日した目的の一つでした。そのため、日本に上陸するとすぐに、熱心に言葉を習得しようと努めていたようです。彼が作成した日本語の語彙集が遺されていますが、日本語を聞き取った音通りに書きあらわし、英語でその意味を書いています。語彙集のなかには当時の長崎で使われていたと思われる方言も多く含まれており、日本語を習得しようと一所懸命になっていた様子をうかがうことができます。

──その後、マクドナルドは日本で通訳になったのですか。

いいえ、やがてマクドナルドは日本を出国させられ、生涯、日本に戻ってくる機会はありませんでした。しかしマクドナルドの影響は大きく、森山とマクドナルドとの出会いにより、その後の森山の人生は大きく変化していくことになります。
次回は、オランダ通詞としての枠組みを超えて、幕臣として活躍するようになる森山の活躍をご紹介したいと思います。

(次回・最終回「第5回 天賦の異文化コミュニケーター森山栄之助・後編」に続く)

日の出
to thine own self be true.

自分自身に忠実であれ。『ハムレット』より

 

≪参考文献≫
江越弘人『幕末の外交官 森山栄之助』(弦書房)2008年
ウイリアム・ルイス、村上直次郎編 富田虎男訳訂『マクドナルド「日本回想記」─インディアンの見た幕末の日本』(刀水書房)2012年