神様が導いてくださった医師への道〈卒業生・白杉 由香理さん〉
2019/09/19
全国に約1,200名しかいない抗がん剤治療の専門医の一人である白杉さん。
国民病ともいえるがんに対する抗がん剤治療や、血液疾患の患者さんの治療に取り組むかたわら、東海大学で講義や共同研究を行い、後進を育成するなど、多忙な日々を送っています。
短期大学を卒業後、本学の大学に編入学された白杉さんは、卒業後に一度は企業に就職したものの、医師を目指して一念発起。今度は医学部への編入学を実現させます。その見事なまでの行動力を支える根幹にあるものは、「神様に導かれている」という信仰心でした。
今回は本学での思い出やキリスト教との関わり、そして医師としての姿勢までお話をうかがいました。
──白杉さんは本学の大学に2年次に編入学されました。どのような経緯だったのでしょうか。
中学、高校はミッション系の女子校で学びましたが、大学は青山学院大学に行きたいと思っていました。明るく伸びやかで自由で、その中にキリスト教という芯が一本通っている青学のスクールカラーが大好きでした。ところが試験当日にインフルエンザにかかって試験を受けることができず、唯一受験できた別の短大に進学しました。
私はのんびりした性格で、よく言えば許容性があり、悪く言えばいい加減なので(笑)、青学に編入学するという方法もあるなと考えたのです。幸いなことに、短大卒業後に念願叶って青学の文学部教育学科の2年次に編入学できました。
青学での毎日はもう本当に楽しかったですね。中学・高校・短大と8年間女子校で過ごしてきたので、初めての共学は〝自由に息が吸える〟という感覚がありました。
また、青学は規模が大きいので学生は放っておかれる感じなのかなと勝手に思っていたのですが、実際は学生に対する気遣いがとても細やかで驚きました。アドバイザー・グループ制度はその最たるものだと思います。学内で受ける健康診断でも、上半身の服を脱いでの心電図の検査で女性にはケープが用意されているなど、小さな配慮が行き届いていることにもキリスト教の精神を感じましたね。
──学生生活で思い出深かったことは何でしょうか。
まずはグリーンハーモニー合唱団、通称GHでの活動ですね。中学・高校は合唱が盛んな学校だったのでその影響で合唱が好きになり、短大も讃美歌を重視していたので、合唱はいつも身近な存在でした。GHではメサイアを全曲歌うなど、音楽的にも楽しく充実していました。
「みんなで力を合わせて一つのことをやり遂げる」という経験もできましたし、大きなホールで歌うという夢も叶いました。母は「あなたを青学に編入学させたのか、GHに編入学させたのかよくわからない」とよく言っていましたね(笑)。合唱は今でも続けていて、良い息抜きになっています。
学業面では、選択した心理学専修コースでのエンカウンター実習で大きな学びがありました。エンカウンターとは「対面する」「出会う」という意味で、2泊3日の合宿で行ったのですが、自分のどこまでが表面でどこからが内側なのかを知らないとカウンセラーにはなれないということで、先生と同級生に自分をさらけ出さなくてはいけない。
これが苦しくて、少しでも自分を偽ろうものなら「それは繕っているでしょう」と突っ込まれます。それまでのほほんと生きてきた私が、初めて素の自分と向き合った機会でもありました。まさに新しい自分と出会った、忘れられない体験です。
同級生の多くは、臨床心理士の資格を取得してカウンセラーになるために大学院に進学しましたが、私は編入学したことですでに1年遅れていたので、これ以上親に迷惑をかけるのは悪いという思いもあって就職することにしました。
それからもう一つ。短大時代にキリスト教概論の授業を受け持たれたのが、偶然なのですが、その後青山学院の院長になられた深町正信先生でした。その授業がとても面白く印象的だったので、青学に編入後もときどき礼拝に参加していました。
青山学院全体を包んでいるのがキリスト教に基づく愛だと思っていますので、その中で守られ育まれながら、心地よい学生時代を過ごさせていただいたと今でも感謝しています。
──就職活動はいかがでしたか。
企業の求める人材と自分との落差に落ち込んだりもしましたが、振り返れば就職活動は自分を客観的に見る良い経験だったと思います。
就職部には本当に助けていただいて、毎日のように通いましたね。内定が決まった後、就職部から「就職報告会で就職活動の経験談を話して欲しい」という依頼があり、礼拝堂でお話しさせていただきました。その時に知り合った友人たちとは今でも年賀状のやりとりをしています。
就職先は、青学で学んだ心理学を生かしたいということと、ものを創り出す会社に興味があり、メーカーで人事や人材教育などに携わりたいと思っていました。
そうして日本ビクター株式会社に就職したのですが、そこから音楽などを扱うビクターエンタテインメントに出向となり、社長秘書をすることに。当初希望していた仕事とはかなり違っていましたが、働くこと自体は楽しかったですね。サザンオールスターズの桑田さんにご長男が生まれた時は、お祝いを持って社長とご自宅にうかがったこともありました。
──5年間勤めてから医学部を受験されましたが、どのような心境の変化があったのでしょう。
芸能人が行き交う華やかな世界でしたが、心身を病んで休職や退職をする方がいました。そういう方を何とか救うことができないだろうかという思いはずっと抱いていました。
カウンセラーをしている青学時代の友人にそれを話したら、「カウンセラーは診断も薬の処方もできないから限界がある」と言われました。「となると医者? 今から、この年で? また理系科目を勉強して医学部受験して?」と、口にするほど非現実的な内容で、友人との会話も世間話をしているような感じでした。
実は小さい頃から医師として働く伯父の姿を見て「人を助ける仕事はいいな」と感じていたのです。人の心と体にも興味があり、大学受験の際も医学部へ進む道も考えましたが、人が好きで、教えることも好きだったので教員にも魅力を感じていました。
また、高校までは文系科目が得意だったので、「文系に行くべき」という固定観念もありました。だから編入先も文学部教育学科だったのです。けれどもきっと、心のどこかで医者という職業への憧れは続いていたのでしょうね。
そんな時、偶然に新聞で目にしたのが、東海大学医学部の学士編入学生募集の広告でした。しかも文系でも受験できると書いてあるのです。そんなうまい話があるのか……? と思いつつもすぐに願書を取り寄せました。そして表紙を開いた瞬間、そこに書かれていた次の言葉が飛び込んできたのです。
“Heaven has invited me to this work.”(天がこの仕事に導きたもうた)と。
その言葉を目にして、涙が止まりませんでした。短大から青学に編入し、社会に出て5年も経つのに、また医学部に編入学して今度は医者を目指すなど突拍子もないことだけれど、神様はその道に導いてくださっているのかもしれないと感じました。しかも英語と小論文と面接で受験できることがわかり、これなら大丈夫かもしれないと。
そうして無事合格し、会社を退職して東海大学医学部の2年生に編入学しました。
──思い切った決断ですが、お話を伺っているとその選択が必然であったようにも感じます。医大生としての5年間はいかがでしたか。
勉強と実習に追われる日々でした。医師国家試験に合格するという目標に向かって、学生と家族、先生が一丸となっている感じでしたね。
5年生の時は交換留学制度で7カ月間、ロンドンで学ぶ機会を得ました。機器や検査は日本の方が進んでいる部分もありましたが、聴診器を当てて反射を診たり患者さんの目を見て話を丁寧に聞いたりと、身体所見を丁寧に取ることが非常に重要視されている点は勉強になりました。
日本だとすぐに「検査しましょう」となってしまいがちですから。ホスピスもイギリス発祥ですし、ボランティアの方も活躍していて、支える文化が成熟していると感じました。
かつてナチスの強制収容所にいた方が外来にいらしたことがありました。囚人ナンバーのタトゥーを目にして、いたたまれない気持ちになり、診察が終わってから「ごめんなさい、日本もあなたたちを傷つけてしまった」と言ったら「もうとっくに戦争は終わった。あなたたちのことを敵だなんて思ってないよ」と……。忘れられない出来事です。
──医大生時代に洗礼を受けられたと伺っていますが、英国留学と何か関わりがあったのでしょうか。
幼少時から青山学院大学まで、人生の要所要所でキリスト教に触れながら育ってきました。イエス様の存在も信じていましたし、支えていただいていると感じながらも、実際にクリスチャンになることにはどこかためらいがありました。
しかしイギリスというキリスト教国にまとまった期間滞在することが許されて、いよいよ自分とキリスト教の関わりについて向き合う時が来たことを確信しました。そこでロンドンの日本人教会に通い、帰国後も教会に通い続けました。そして大学6年次のクリスマスに洗礼を授けていただきました。
──現在は東海大学病院に勤務されていますが、どのような仕事をされているのかお聞かせください。
私は血液腫瘍内科の専門医として、白血病などいわゆる「血液のがん」である血液腫瘍性疾患と、血友病などに代表される血液難病の診療を行っています。医学部に編入学した当時は専門は精神科がいいかなと思っていたのですが、学ぶうちに心だけでなく体にも興味が湧いてきて、体全体を見る内科が楽しそうだと。
その中でも血液腫瘍内科を選んだのは、メスを使わずに人を治療できる領域の一つが、抗がん剤を扱う血液腫瘍内科だったからです。
後期研修医1年目の年、20歳くらいの男の子が無菌室で白血病の治療中に、無菌室中が血だらけになってしまうほど大出血してしまった時のことです。彼はパニックに陥り、私が「大丈夫だから」と声をかけると、すがるように「先生、僕死んじゃうの?」と……。「大丈夫、死なないから」と返しながら、私は「この子たちを助けなくちゃいけないんだ」と強く思いました。
血液の病気の患者さんは若い方も多く、しかも突然発病するのです。これは本人にとってもご家族にとってもとてもつらいことです。血液腫瘍内科で、そういう方をはじめとする、がんで苦しむ方の役に立ちたいと考えました。
現在は血液腫瘍内科の外来を担当しているほか、患者さんが日帰りで抗がん剤投与を受ける外来化学療法室のセンター長を務めています。医学部、看護学部などでの講義や共同研究も行っていますし、臨床試験の結果をまとめて学会で発表することもあります。それから大学入試にも関わっていますね。「うちの研修医になりませんか」と全国行脚もしますよ。
──生と死の狭間にある患者さんと接するという厳しい世界の中で、うれしい瞬間はありますか。
やはり患者さんが元気になってくれることです。抗がん剤や骨髄移植はつらい治療ですが、それを乗り越え病気を克服した患者さんが、何年も経ってからお子さんを抱いて顔を見せに来てくれた時は胸が熱くなりました。2人目の子どもは無理だと言われていた女性が「授かりました。先生のおかげです」と連絡をくれたこともあります。医者冥利に尽きますね。
『命を救ってもらった』と言っていただくこともあるのですが、実際に現場にいると、正直、私たち医療者の力だけでは限界があるのです。チーム医療でそれぞれの技術や能力を駆使しながら、その方が持っている生命力を最大限に生かすお手伝いをしている、といった感覚の方が近いかもしれません。
──人の命に関わる現場に立つ医師として、宗教との関係性についてどのように感じていらっしゃいますか。
私たちの命は神様から与えられているものだということと、人間としての生が終わってもその次があるということです。この考えを持てることが、医者として幸せに感じます。
これまで私の医者としての人生の中には、この思いがないと燃え尽きてしまっていたかもしれない場面もありました。ですからこの考え方に救われている部分がありますし、これが自分のベースであり、青山学院にもつながっている部分です。
科学を突き詰めるとどうしても説明のできない部分が出てきます。すべてを言葉で説明しようとするのが無理な場合、宗教というのは一つの答えなのではないかと思います。
──これからの抱負をお聞かせください。
医師として、その方にとって何が一番幸せなのかを考えながら治療することを心がけています。そのためには、患者さんご本人やご家族と相談しながらどのような方針で治療していくのかを決めることが大切です。
また、大学病院の責務の一つは人を育てることであり、臨床研修医の教育やマネジメントも担当しているので、若い人をどう育てていくのか、そして医学部生や看護学生たちに何を伝えていくかは常に考えています。
がんは今や日本人の2人に1人がかかる国民病と言われています。そこで今後は子どもたちへの教育、啓蒙活動にも関われればと思っています。たとえば検診の重要性や、症状が出たときにどう対処していくか、また身近な人ががんになった場合に何をしてあげられるか、といったことを教える機会を与えていただければうれしいですね。
──最後に、在校生へのメッセージをお願いします。
青山学院のスクール・モットーは「地の塩、世の光」です。私は青山学院大学を卒業後、企業に就職してから医者になったという変わり種です。
ただ、今ではこれが神様から与えていただいた道なのではないかと思っています。皆さんにも神様から特別な使命が与えられています。今はそれに対して「本当にその道に進んでいいのか」「自分に合っているのか」「そんな能力を持っているだろうか」などと悩むこともあると思います。
けれども信じた道が、きっと神様が示してくださった道です。皆さんには神様から素晴らしい能力が与えられていて、無限の可能性があります。どうか自信を持ってその道を進んでください。心から応援しています。
東京都出身。1985年青山学院大学文学部教育学科心理学専修コース卒業。日本ビクター株式会社に勤務後、東海大学医学部2年に編入学、95年卒業。医学博士。専門は血液腫瘍内科学。
現在は東海大学医学部付属病院(伊勢原市)血液腫瘍内科准教授。外来化学療法室長、臨床研修部次長も兼務。日本内科学会専門医・指導医、日本血液学会専門医・指導医、日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医・指導医。