Interview インタビュー あおやま すぴりっと

「やさしくある」こと、 そして愛されるブランドを進化させる〈卒業生・藤﨑忍さん〉

ユニークなバーガーを世に送り出すたびに話題となるドムドムハンバーガー。熱烈なファンが多いことでも知られているこのブランドを、危機的状況から黒字に転換させた立役者が藤﨑忍さんです。
39歳で初めて就職して以来、どんな職場や立場にあっても、笑顔を絶やさず、他者を思いやり、優しく語りかける姿勢は一貫しています。
初等部から女子短期大学まで青山学院で過ごした思い出から、ドムドムハンバーガーの新たな商品開発やスタッフの人生に寄り添った経営などを語っていただきました。

(2022年4月7日インタビュー)

 

体を動かすことが大好き 初等部で料理の楽しさを知る

──藤﨑さんは二人のお兄さんと同じ、本学初等部に入学されました。
5歳上と3歳上の兄たちにくっついて走り回る、活発で積極的な子どもでした。そのため、兄たち同様、一貫教育で伸び伸びと学校生活を送れる青山学院がいいのではという両親の意向で私も初等部に入学しました。入学試験のとき、兄の担任の先生をお見かけしたので「兄がお世話になっています」と私が声をかけたそうで、母がとても恥ずかしがったというエピソードがあります(笑)。通学には、電車で1時間ほどかかり、父が浅草駅まで毎朝車で送ってくれました。


初等部入学前の藤﨑さん

 

──クラブや行事などの思い出がありましたらお聞かせください。
体を動かすことが好きなので女子スポーツクラブ、通称〝女子スポ〟に入ってバレーボールやダンスに夢中でしたね。また、初等部は宿泊行事がたくさんあったので、楽しい思い出には事欠きません。生まれて初めて行ったキャンプ、平戸の遠泳、洋上小学校や雪の学校など、体験しながら学べる素晴らしい機会を何度も得ました。

初等部のときに加藤伸子先生が食堂でアップルパイを作られたことがありました。そのアップルパイがおいしくて、強烈に印象に残りました。あまりにおいしかったので自宅でも作ってみたほどです。ここで「料理って楽しいな」と思ったのが、後に食と関わることになる人生のスタートだったのかもしれません。その後、高等部でも調理の授業で田中登喜先生から習ったドライカレーがとてもおいしくて、今でも作ります。

──中等部ではラグビー部のマネージャーをされたそうですね。
2番目の兄が中等部でラグビー部に入っていた影響もありました。自分もスポーツをしたいという思いがありながらマネージャーをしていたので、楽しいながらも複雑な時期でしたね。また、初等部の頃から感じていた「向島で生まれ育った自分と山の手のお嬢さんたち」という同級生とのギャップも、なかなか埋められないものでした。孤独だったわけではないのですが、心の奥底ではどこか距離を感じていたように思います。それが打破されたのは、3年生のときに梅田美津代さんという親友ができてからです。初等部では女子スポのキャプテン、中等部ではバスケ部のキャプテンと、とても華のある人で、高等部に進んでからは誇張ではなく365日いつも一緒にいたと思います。彼女は世田谷に住んでいましたが、生まれ育った環境の違いに対する距離感などは、彼女と親しくなってからはすべて消し飛んでしまいました。

それに、今振り返ると下町と山の手という二つの環境を小さい頃から知ることができたのは、多様性が重んじられる今の時代を自然に受け入れられる素地ともなったので、とてもよかったと思っています。

──高等部ではハンドボール部のキャプテンとしても活躍されました。


高等部ハンドボール部時代(後列右端が藤﨑さん)

 

「自分も存分にスポーツをしたい」という気持ちを抱えた状態で高等部に進学したので、いちばん一生懸命活動していそうなハンドボール部に梅田さんと一緒に入部し、ハンドボール一色の3年間を過ごしました。

最後のインターハイ予選では、強豪相手についプレーに熱が入りすぎてしまい、退場となってしまいました。コートの外から泣きながら見たのが最後の試合でした(笑)。そんな濃い時間をすべて共有していた梅田さんが大学1年次に不慮の事故で亡くなったときは、人生観が変わるほど大きな喪失感におそわれました。親友でもあり憧れの存在でもあった彼女と過ごした日々は今でもかけがえのない宝物です。

 

女子短期大学へ進学 念願の「お嫁さん」に

──大学ではなく、女子短期大学に進学されたのはなぜでしょう。
大学の厚木キャンパスは自宅から遠く、当時、短大は就職率もよく、私の将来の夢は「お嫁さん」でしたから、児童教育学科に進んで子どものことを学べばいいと思い短大に進学しました。美術の授業での掛井五郎先生の情熱ぶりが印象深く残っています。2年次に受講生が私一人だった高橋好子先生の音楽の授業では先生とマンツーマンという、貴重な経験もさせていただきました。学業以外では、高等部のハンドボール部のコーチを引き受けたり、父が地方政治家でしたのでその関係で政治家の事務所でアルバイトなどをしていました。政治家を目指していた主人と交際を始めたのもその頃です。

──卒業後は何をされたのですか。
卒業後は就職せず、同級生が大学4年のとき、21歳で結婚しました。夢を叶えたわけです(笑)。そして24歳で息子を出産し、区議となった主人を支えながら子育てにまい進する日々でした。

 

専業主婦から39歳で就職

──順風満帆に見える日常は、ご主人が倒れたことで一変しました。
夫が心筋梗塞で倒れ、私が働かなければ家計が成り立たない事態になりました。そのときに声をかけてくれたのが初等部時代の友人で、お母様が運営しているSHIBUYA109のブティックの店長として働けることになりました。初等部で学んでいた頃からキリスト教は日常で、「隣人を愛しましょう」という教えも自然と身についていました。ですので初等部の友人たちはみんな心根が親切で本当にやさしいのです。

39歳にして初の就職、それはものすごく楽しいものでした。努力した結果が売り上げという形になって見えることがうれしく、お客様とのコミュニケーションも楽しく、若いスタッフたちと一緒に頑張れることにやりがいを感じました。これまでに接してきた人たちとは違う、価値観も異なる子たちなのですが(笑)、渋谷のカルチャーもトレンドもいちばんよく知っているので、仕事をするうえでは私にとってリスペクトできる存在でした。相手をリスペクトするということは、自分の考え方や価値観を押し付けないということでもあります。自分らしさはとても大切で尊重されるべきものだと思います。ちなみに彼女たちとは今でも会って、食事やおしゃべりを楽しむ仲です。


109時代のプリクラ

 

──家事との両立も大変だったのでは。
忙しくなると、家事をする時間のやりくりに苦労することもありました。息子は初等部から青山学院でお世話になり、中等部まではラグビー部と野球のクラブチームの二足のわらじでした。高等部では野球に打ち込んでいました。ユニフォームの洗濯は息子の担当。たまたま私が息子にユニフォームの洗濯を頼まれたことがありました。ところが洗濯中に眠ってしまい、朝になっても洗濯物は脱水された状態のまま。そこで私は息子に「教室に干しておけば部活の時間までに乾くわよ」とハンガーを渡しました。息子のお嫁さんは初等部からの同級生なので、このハンガーエピソードを知っています(笑)。


ご子息の剛暉さんと

 

──店の売り上げを5年間で倍にされた後、再びご主人が病に倒れてしまわれたと伺いました。
ブティックを退職することになったタイミングで夫が脳梗塞で要介護となった時期は、人生でいちばんきつかったですね。生活のために新橋の居酒屋でアルバイトを始めました。日中は夫の介護、夜はアルバイトで寝る間もないほど忙しい毎日でしたが、109時代と同様、仕事があったことで安らげるというか、息抜きにもなっていました。外に働きに出る時間があることで「やさしくあろう」という気持ちを持ち続けることができました。これも青山学院で培ったキリスト教の教えのおかげかもしれません。

 

居酒屋バイトからオーナーに


居酒屋でのバイト時代

 

──居酒屋でアルバイトしたのは4~5か月、その後起業してご自身の居酒屋をオープンされますが、このスピード感に驚きます。
金銭的に苦労しているけど、何の資格も持っていない主婦が家計をやりくりするには、起業以外の道がなかったというのが本音です。もともと料理も接客も好きでしたから。そのうち、お客さんから「自分の店をもったら」と言われるようになり、斜め向かいの店が空いたこともあって、居酒屋を営むことになりました。生まれて初めて事業計画書などの資料を作成し、借り入れも無事できました。このときも青学の仲間がものすごく応援してくれました。早々に結婚したので、親しいお付き合いが続いているのはごく限られた人だけだったのに、先輩や後輩がSNSで宣伝してくれたり、店にも足しげく通ってくれたりと、本当にありがたかったです。そんなバックアップもあり、またスマホオーダーシステムを取り入れて会計時間の短縮を図る工夫をし、1年後には2軒目もオープンすることができました。


2店舗目の居酒屋「Soraki-t」開業時

 

店は順調でしたが、夫は2016年に亡くなりました。喪失感は言葉では言い表せません。でも、元気な頃はエネルギッシュで社交的な人でしたから、大変だった闘病生活を「よく頑張ったね」という思いもありました。

 

ドムドムハンバーガーに

──新橋で二つの居酒屋を営む経営者が、ドムドムハンバーガーとどのようなご縁でつながったのでしょう。
ドムドムハンバーガーのグループ会社の専務が店によく来てくださっていて、ある日「ドムドムの再生をするので商品開発を手伝ってほしい」と声をかけられたのです。まずは顧問契約で商品開発に関わるようになりました。そのときに提案してヒットし、現在も定番メニューとなっているのが「手作り厚焼きたまごバーガー」です。すると「入社して本腰を入れて商品開発とスタッフ教育を担当してほしい」と言われました。企業が「居酒屋のおばさん」を誘うというのは勇気がいることだと思いましたし、それだけ再生にかける情熱が大きいのだなと感銘を受けたので、居酒屋の経営は仲間に譲って新しい道へ進むことにしました。51歳でした。

──入社後の業務は順調でしたか。
正社員になってすぐ厚木店の店長、翌年にはエリアマネージャーになったのですが、企業の中で働くということが未経験だったため「稟議書」という言葉さえ知らず知識不足でしたし、私の中ではいろいろプランがあっても意見を言える立場にありませんでした。役員会議で物事が決まり、それが定例会議に下りてきて担当役員から伝えられる。社員もスタッフもただ承るだけという流れが不満でしたし、それでドムドムハンバーガーが本当に再生できるのかと思っていました。そこで「意見を言える立場にしてください」とお願いしました。すると1か月後に「代表取締役になってほしい」と言われ、思いがけず驚きました。


ドムドム統括エリアマネージャー時代(後列中央)

 

──社長として心がけたのはどんなことでしょうか。
最初はスタッフの皆さんとの信頼関係の構築を目指し、スタッフの声を聞く、本社からの声はやさしく丁寧に伝えるという2点を心がけました。スーパーバイザー(SV)も兼ねていたので週4日は現場にいて、ほとんど本社にはいませんでしたね。新しいことにもどんどんチャレンジしました。今やドムドムハンバーガーの人気シリーズとなっている「丸ごとシリーズ」の、「丸ごと!!カニバーガー」はその最たるものです。でも当初は、提案したことはことごとく反対されました。アパレル企業とのコラボやイベントへの出展は、どうしてもと説得しました。結果として、イベント出展では2日間で2000個売り上げることができ、アパレル商品もヒットしました。数値目標も2018年後半から2019年前半でクリアできたので、それ以降は反対の声もなくなり、伸び伸びやらせてもらっています。


ドムドムハンバーガーの新業態店舗「TREE & TREE’S (ツリツリ)」新橋店
※2022年7月に東京都中央区銀座へ移転予定


丸ごと!! カニバーガー

 

リーダーとして大切にしていることは「和をもって事を運ぶこと」と「調和」です。対話を介して相互理解をしたうえで事を運び、調和すること。そして他者を尊重し、思いやりをもって接することです。


「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2022」授賞式
「思いやり経営賞」を受賞(2021年11月27日)

 

お客様、スタッフと共に 50年先も愛されるブランドに

──多くの飲食店がコロナ禍で打撃を受けるなか、2021年3月期には黒字を達成しました。
実はドムドムハンバーガーって日本でいちばん古いバーガーチェーンなのです。業績が悪化して全国に400あった店を27にまで激減させてもまだ存続しているということは、このブランドがとても愛されているということです。お客様に愛していただいているブランドを50年先につなげなければいけない、そう思いました。そのためには消費者と働くスタッフの人生に寄り添って共感・共存することでブランドを構築していくこと、そして美味しいのは当たり前、それはお客様との最低限のお約束だと思っていますので、そのひとつ上をいくような商品開発、この2点を柱に掲げたのが2020年2月でした。結果的に、この理念がコロナ禍でも黒字化できた要因になったと考えています。

当時のメディアで話題になった布製マスクは、もともとスタッフのために作ったものでした。スタッフが少しでも元気になってくれたらという思いで作ったロゴ入りのマスクを送り、余った分を「お客様にもお分けしよう」とレジの横に置いたのです。宣伝無しにもかかわらず売れに売れ、当時全体の売上の10%を占めました。SNSの力を感じましたね。うちのTwitterのフォロワーは3万8000人ほどですが、エンゲージメント率は同業他社の数十倍あります。フォロワーが少なくても愛されていると感じられ、ありがたいことです。


ニコドムコラボイベントにて(2022年3月4日)
niko and …とのコラボイベント「ニコドム」にて(2022年3月4日)

 

──今後取り組んでみたいことなどがあれば教えてください。
よく「女性として不利益を感じますか」と聞かれますが、そのように感じたことはありません。しかし、女性の活躍が難しいことも多いようです。全ての女性を応援したいと考えておりますが、自身の経験から働くお母さんたちの応援に興味があります。それも循環型のスタイル=一つの応援が次の応援を導くような、それぞれの年齢や環境を活かし、共助することが、社会を明るくすると思います。

──最後に在校生へのメッセージを。
2年間在籍した短大が閉学したのは残念ですが、初等部から過ごした青山学院そのものが私にとっては母校という意識ですので、青山学院があるかぎり、母校は健在です。

在校生の皆さんは、勉強でもスポーツでも、なにかしら夢中になれるものがあるならそれに一生懸命取り組んでください。夢中なものや目標は、途中で変わっても一向にかまいません。私だって学生時代の夢は「お嫁さん」だったので恋愛に夢中でした。今は自分でも想像もしていなかった方向に進んでいます。また、夢や目標は変わらなくても、自分を取り巻く環境が変わることもあります。わが家も夫が倒れて経済的に苦しくなり、息子は万代奨学金を受けての高校生活となりました。一時的に苦労することはあったとしても、どうか諦めないでください。それから、「特に夢中になれるものがない」という人もいるでしょう。そういう人は、今の自分自身が置かれている環境で十分に生きればいいのです。自分の可能性は無限です。自ら型にはめることなく、こだわらない心で進んでいってください。

藤﨑 忍さん FUJISAKI Shinobu
1966年、東京都生まれ。青山学院初等部、中等部、高等部を経て、青山学院女子短期大学卒業。39歳まで専業主婦として過ごす。夫の病を機にSHIBUYA109 のアパレルショップ店長などを経て2011 年に居酒屋を開業。2017年11月、51歳の時に株式会社ドムドムフードサービスに入社。2018年8月、同社代表取締役社長に就任。「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2022」受賞。

 

 

[インタビューPhoto:] 加藤 麻希 https://www.katomaki.com/

 

「青山学報」280号(2022年6月発行)より転載
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