Interview インタビュー あおやま すぴりっと

青学は前向きな気持ちをくれる場所〈校友・木佐彩子さん〉

流暢な英語とあふれる笑顔、そして飾らない人柄が多くの人を魅了する木佐彩子さん。アメリカで過ごした子ども時代、本学在籍中の青春時代、そしてフジテレビアナウンサーを経てフリーアナウンサーである現在と、どの場所でも輝きを放ってきました。
創立150周年記念式典祝賀会の司会をはじめ、本学の催しにも協力を惜しまない、その奉仕の精神の根底にあるのは母校愛でした。
高等部と大学の7年間を過ごした本学への思い、アナウンサーという職業、そして在校生へ伝えたいことまで、幅広くお話をうかがいました。

(2025年1月20日インタビュー)

 

 

アメリカで学んだ多様性 個性を大事にする精神

──幼少期はどんなお子さんだったのでしょう。
お転婆娘でした(笑)。4歳離れた兄にくっついてよく外で遊んでいました。

──小学2年生から7年間、アメリカにお住まいでした。英語で苦労されたのではないでしょうか。
父がロサンゼルスに赴任することになり、家族全員で行くことになりました。ロスで地元の公立学校に通い始めましたが、「言葉が通じない学校で、もしも自分に何かあったらどうすればいいんだろう」と不安でした。一つ下の学年に日系2世の子がいることを知り、「片言の日本語ならなんとかわかってくれるだろう」と思い、トイレに行くときなどにその子の教室をのぞいて「よし、今日もいる」と確認するなど、彼女が私の心のお守り的存在でした。

その後、月・火は普通に学校に行けるけれど、水曜日の午後になるとお腹が痛くなって早退する。そして木・金はまたなんとか通うというパターンが半年ほど続きました。悲壮感漂う毎日を過ごしていたわけではないのに、体の方が正直だったのかもしれませんね。それからお父さんが牧師をしていたクラスメイトが、休み時間になるとボール遊びに誘ってくれて、彼女を通じてほかの子たちとも遊ぶようになりました。言われた英語の意味がわからなくても、一緒に遊んでいると「あなたの番よ、って意味かな」と感覚で理解し、同じ言葉を真似て使ってみるといった具合に、少しずつ英語も上達していきました。言葉に不自由がなくなるまでの約1年は〝サバイバル〟という言葉がぴったりだったと感じます。

 


小学6年生の頃(ロサンゼルスにて)

 

──ほかにカルチャーショックだったことはありますか。
アルファベットもわからない状態でいきなり始まった学校生活は、驚きの連続でした。例えばクラスメイトのアルメニア人は、今でこそアルメニアは独立国家ですが当時はソ連に属していたので、「私たちには国がない」と子どもながらに言っていました。クラスメイトの肌の色も宗教もさまざまで、教室という小さな世界にも多様性があることを肌で感じました。こうした実体験が、今の私の考え方の素地になっています。青学が掲げている、あらゆることの多様性を認め、一人ひとりの個性を大事にするという「Be the Difference」の精神は、まさにこの時期に培われました。

──アメリカの生活はご自身に合っていましたか。
英語にも現地での生活にも慣れてからは、もう毎日が楽しくてしょうがなかったですね。ガールスカウト活動やベビーシッターのアルバイトをするなど、アメリカ生活を謳歌していました。

日本に帰ることになったときはこのままずっとアメリカにいたくて、どうすれば残れるのか必死で画策しました。翌年の中3にあたる年は、ダンスパーティなど楽しい催しが目白押しだったのに、その学年を前に帰国するなんて考えられませんでした。しかも兄は受験の関係でもう1年ホームステイして残れることになり、「お兄ちゃんは残るのに私は帰るなんて不公平!」と、あの手この手で親を説得しましたが、残ることは許してもらえませんでした。親としては「この子はこれ以上アメリカにいたら日本人に戻れなくなる」という危機感があったのだと思います(笑)。

──憧れのアナウンサーに出会ったと伺っています。
夕方のニュース番組に出演していたアジア系のニュースキャスター、コニー・チャンさんに惹かれました。自分がアジア人だということを毎日認識する環境だったこともあり、画面の向こうの同じアジア人の彼女がとても輝いて見えたんです。堂々と活躍する彼女の姿に、アナウンサーという職業を初めて意識しました。

 

友人に恵まれた青学時代

──帰国後、逆のカルチャーショックはありましたか。
アメリカでの生活に慣れていたので、最初につらかったのは塾に行かされたことです。当時は携帯電話もありませんでしたから、アメリカの親友に「朝から学校に行って、家に帰ったらおにぎりを食べてすぐまた別の学校に行くなんて信じられない! Help me!」と、手紙で不満をぶつけていました。ただ、ここで勉強したおかげで高等部に入学できましたし、こういう時期も必要だったのかなと今では思いますが、アメリカでの生活とのギャップがしんどい時期でした。

──高等部では楽しく過ごされたのでしょうか。
青学は自由なイメージがありましたし、大学に国際政治経済学部があることからもグローバルだと感じていました。自宅からのアクセスが良かったこともあり高等部に進学し、楽しい高校生活を送りました。青山学院中等部からきた子が、一切壁を築くことなく仲良くしてくれたのもうれしかったですね。あの大らかさはまさに青学マインドだと思います。部活ではバトントワリング部をチアリーディング部に変えさせてもらうなど、学校は生徒の気持ちや意見を尊重してくれました。チアリーディング部の「タイタンズ」という名称は、アメリカ時代の中学にあったチアの名前から名付けました。

 


高等部チアリーダーの仲間と(前列左から3番目)

 

──ほかに思い出に残ることはありますか。
礼拝の時間も忘れられません。多感な時期にオルガンの音色にどれほど整えてもらったことか。あの礼拝はアロマオイルのような効果があって、嫌な気持ちを洗い流してくれたり、背中を押してくれたり、よし頑張ろうと思えるようにしてくれたりと、いつも助けられた忘れられない時間です。

──大学では文学部英米文学科に進まれました。
高等部同様、友人に恵まれました。試験前やレポート締め切りの時は友人が何人もうちに泊まりにきて一緒に勉強しました。翌朝には母がお小言を言いつつ、山のようにおにぎりを作ってくれて、みんなで食べて一緒に厚木キャンパスに通学するんです。男女かかわらず仲が良くて。今もみんなに会うと、タイムマシンに乗ったようにあの時のことがよみがえります。一生の仲間たちです。

──印象に残っている授業はありますか。
坂口周作先生のゼミが楽しくて。実用的な英語を、生きた言葉で授業してくださる方でした。また、歴史ある英米文学を学ぶだけでなく、時事英語や新しいことを教えていただく授業もありました。

青学での7年間には楽しい思い出がたくさん詰まっています。実は就職してからしばらくは、アナウンサーとしてつらい日が続きました。生放送で失敗したり、とっさの切り返しができなかったり。落ち込んだときは仕事の隙間時間に青山キャンパスに来て、銀杏並木のベンチに座って心を鎮めていました。すると次第に「今の私は確かに上手じゃないかもしれないけれど、私なりに頑張っていこう」と、ポジティブな気持ちに切り替えることができました。私にとって青学は、卒業しても足を運び、前向きな気持ちになるきっかけをくれる場所でした。

 


大学時代の一コマ

 

アナウンサーの役割は「エアコンのような存在」

──卒業後の進路はどう検討されたのでしょう。
中学2年生で日本に帰国するとき、アメリカの親友から「かわいそう」と、まるで後進国に帰るかのようなリアクションをされて驚きました。みんなソニーもトヨタもパナソニックも、アメリカの企業だと信じ切っていたんです。思わず友人に日本製品のプレゼンをしました。そういう誤解や偏見がなくなるような、日本とアメリカの懸け橋になるような仕事ができればという思いから、アメリカ大使館で働くことにも興味があったのですが、私の年にはあいにくオフィシャルな採用がありませんでした。そんなときに思い出したのがコニー・チャンさんの輝く姿です。「私も輝きたい」と思った先に「アナウンサー」という職業があった、という感じです。

──アナウンサーという仕事の役割は何でしょう。
生放送の仕事が多いこともあり、常に緊張の連続でした。生放送は収録番組より出演者の熱量がすごいですし、リアクションも予想できないので、常に自分の果たすべき役割を考えながら臨んでいました。私はその役割を「エアコンのような存在」と言っているのですが、アナウンサーは出演者が心地良くいられるように空気を循環させる存在だと思っています。内輪受けで盛り上がりそうな流れになったら、視聴者を置いてきぼりにしないよう話の軌道修正をしてクールダウンしてもらったり、ちょっと重たい空気になったときには少し盛り上げるようにしたり。これは「地の塩」の教えにもつながることかもしれませんね。

──難しさ、やりがいについて教えてください。
インタビューの仕事は今でも難しいと感じます。限られた時間でいかに相手とつながれるか、そして相手に「この人は本当に自分に興味を持ってくれているんだな」と感じてもらえるか。プロ野球の取材で当時ヤクルトスワローズの監督だった野村克也氏に話を聞いたときなどは、思いもよらない答えが返ってきたりして。うまく切り返す力も大事だと思います。インタビューはテクニックではないと思っています。相手に興味を持っていること、だから話を聞かせてほしいという思いが伝わるようなインタビューを心がけています。その結果「なんか今日はいろいろしゃべっちゃったな」と言われたときはすごくうれしいし、達成感があります。

──局アナとフリーでの違いはありますか。
怒ったりアドバイスをしてくれる人がいなくなりました。そういう先輩たちをありがたく思ってきたので寂しくはあります。今は一人で頑張り、律していかなくてはなりません。

 


フジテレビ・アナウンサー時代の一コマ

 

──心身の健康管理はどのようにされていますか。
「しっかり切り替える」、これが心身の健康を維持するために最も心がけていることです。ネガティブな気持ちを引きずってしまうと次の番組に影響しますので、否が応でも切り替えなければ生きていけない環境にありました。それにオンの時間を精一杯頑張ってこそ、オフの時間の大切さや尊さ、楽しさがあると思うと、おのずとオンも頑張れます。

とはいえオフも特別なことをしているわけではありません。その日の好みのアロマオイルを入れたお風呂に入るだけでも特別感があって、十分幸せを感じられます。さっぱりしたらすっぴんのまま気の置けない友人と店で合流し、生ビールと焼き鳥をつつく(笑)。19時過ぎには解散して帰宅するなんて、最高のオフタイムです。日常の暮らしの中に喜びや幸せを感じます。

そして今の時期は朝の時間がリフレッシュタイムになっています。まだ家族が寝ている早朝にパジャマのままベランダに出て、冷たい空気を吸って朝日を浴び、室内に戻って暖かさにほんわかして、犬にご飯をあげて新聞を読んで朝食を食べて。2時間ほどの朝のひとり時間がとても気持ちの良いひとときです。そしてよく寝てよく笑い、しっかり食べる。シンプルだけどこれが最大の健康法ですね。

 

 

リスペクト&アクセプト 学生時代には多くの経験を

──青学での学びが活かされたことはありますか。
まず、青学で良かったなと思うのは、素晴らしい仲間に恵まれたことです。キリスト教の教えが根底にあるせいでしょうか、みんな「自分が自分が」と我先に行くこともなく、当たり前のように助け合い、仲間うちでランキングを付けることもない。誰かの成功をひがまず、心から喜ぶ。高等部の頃から癒されていた礼拝の時間、それに宗教の先生の穏やかな声のトーンには、人を優しくしてくれる要素がある気がします。日本に戻るときはあれほど「アメリカに残りたい」と嫌がったのに、青学で過ごした7年間はその気持ちを吹き飛ばすほど、人生でかけがえのない時間になりました。私の座右の銘は「リスペクト&アクセプト」で、相手を尊敬するだけでなく受け入れる気持ちがあれば世界平和にもつながると思っています。この思いはアメリカで幼少時から多様性に触れたこと、そして青学で「地の塩、世の光」の教えを受けたことが大きく影響しています。

──これまで様々な形で青山学院にご協力いただいております。ありがとうございます。
さまざまな青学のイベントに司会などで参加させていただきましたが、根底には母校愛があります。ただその気持ちは在学中から今と同じ熱量だったわけではありません。むしろ卒業してから育まれていったものです。母校愛とはそういうものではないかと思います。

 


青山学院創立150周年記念祝賀会(2024.11.16)では
司会を務めていただいた

 

──ご子息も本学出身とお聞きしました。親子2代で青学。しかもご子息は高等部で野球部に所属されていたそうですね。
現在の大学硬式野球部の安藤寧則監督が高等部の監督だった頃、短い期間でしたがお世話になりました。毎朝2リットルのお弁当を作っていました。息子がドロドロになって帰ってくるのがとにかくうれしかったですね。たくましく成長してほしいと願っていました。時代的に難しいのかもしれませんが、熱血先生もいてほしいなと思っています。

──今後の抱負を教えてください。
息子も20歳を過ぎて自分自身に使える時間が増えたので、今は「動く」ときだと思っています。そこで、これまでの人生でお世話になった人にお礼を言うための「サンクスツアー」を企画してつい先日第1弾を実施しました。今後、息子のベビーシッターをしてくれた人に会うためにまたニューヨークに行きたいですし、アメリカの小学校で仲良くしてくれた友人のところにも行きたいので、この先もサンクスツアーは継続したいと思っています。また、仕事面では海外で働くことに挑戦してみたいとも思っています。現地で初心に返ってフレッシュな気持ちで頑張ってみるのもいいなと。

──青学の未来へ向けて、そして在校生へのメッセージをお願いします。
青学には建学時から継承されているものがベースにありながら、時代に即した新たなものを受け入れる校風が昔からありました。この柔軟な姿勢は、正解を一つに絞れない今の時代で最強だと思います。ぜひこのまま伝統と革新、柔と剛を併せ持ったまま進んでいただきたいです。

在校生のみなさんには、自分を好きになってほしい、自分のことを好きな自分でいてほしい。そのためにもぜひ、在学中にたくさんの経験をしてください。夫が「悩んでもしょうがないことに悩まない」とよく言うのですが、まさにその通りだと思います。失敗してもいいから血となり肉となるような経験を重ねれば、社会に出てから生き抜く力となってくれるはずです。今はたくさんの情報があふれていますがひとつの情報だけで判断せず、実際に経験することが大事です。時には勇気がいることにもチャレンジして、たとえうまくいかなかったとしても、それも経験値になります。落ち込むことがあったら銀杏並木でチャージして、「また明日」と切り替えましょう。青学生には笑顔が似合います!

──本日はお忙しい中、ありがとうございました。

 


木佐彩子さん

 

1971年生まれ、東京都出身。アメリカ・LAにて小学生・中学生時代(小学2年~中学2年まで)を過ごす。青山学院高等部、大学文学部英米文学科卒業。
1994年フジテレビに入社。「プロ野球ニュース」「FNNスーパーニュース」「めざましテレビ」等多数の番組を担当。
2000年に結婚。翌年出産を機に退社。2006 年フリーアナウンサーとして復帰、現在に至る。

 

木佐彩子さん関連サイト

 

「青山学報」291号(2025年3月発行)より転載
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