Story ストーリー

国産ビール開発にかけた情熱 ~ 青山キャンパス秘史

明治8年、黒田は東京官園の中にビール醸造所を建設するように、村橋に命じました。黒田の狙いは官園を話題化することです。北海道開拓には膨大な支出を伴いますが、その成果は東京では見えません。そこで黒田は官園を東京でのショールームとし、外国の珍しい野菜や最新の農業機械を披露しては、政府高官たちに開拓の意義をアピールしてきました。ですからビール醸造所も、まず東京官園で披露して、話題化してから北海道に移築すればよい、と黒田は考えたのです。

しかし、村橋と中川は大問題に気づきます。東京は気温が高すぎて、中川がドイツで学んだ醸造法に必要な低温が保てないのです。当時はまだ製氷機など無く、天然氷は高価過ぎて使えません。つまり東京でのビール造りはほとんど不可能なのです。

そこで村橋は、醸造所建設地を札幌に変更する、という大胆な手を考えました。札幌なら気温も低く、氷室も造れますから氷も自給可能です。しかし、上下関係が厳しい時代ですから、長官の命令は絶対です。課長ですらない村橋には、批判するだけでも左遷。変更を企てるなど懲戒免職ものでした。それでも村橋は自らの首を賭けて稟議書を提出したのです。
「北海道は材木も安く豊富だし、低温で氷もある。東京で建築しても、後日北海道への移築費用が必要になる。だから最初から札幌に醸造所を建てれば大きな節約になる。至急にご指令をお願いしたい」。

逆らった上に急かすなんて大した度胸ですが、経費節約という新しいメリットを評価した黒田から見事に承認を取り付けました。もし、ここで村橋が保身に走って、東京での醸造所建設に従っていたら、どうなっていたでしょうか。ビール造りは失敗し、サッポロビールが現代に存在することは無かったでしょう。村橋の知恵と勇気が成功を呼び寄せたのです。

明治9年6月、村橋らは札幌で醸造所建設に着手しました。本場でビール修業した中川でも工場建設は初めてです。試行錯誤を積み重ねて4ヶ月、やっと9月に開拓使麦酒醸造所が開業しました。

醸造所開業式 1876年9月
醸造所開業式 1876年9月

中川は早速ビール醸造に取り掛かりますが、暖冬で氷の入手が大幅に遅れます。酵母が発酵せずに慌てたこともありました。その他にも様々な困難が立ちふさがり、ビールの完成は予定から半年も遅れ、翌年6月にずれこみました。完成したビールを内務卿大久保利通に送ったところ、酵母が瓶内で再発酵してコルク栓を弾き飛ばし、中のビールが全て流れ出してしまうという大失敗もありました。しかし中川は落胆することなく、瓶詰めや輸送方法の改良へとつなげました。

翌7月に函館で試験販売し、外国船の船員たちから「もっと売って欲しい」と絶賛されます。そこで9月に東京でビールを一般販売することになりました。それが星のマークの札幌麦酒です。今日のサッポロビールに繋がる140余年の歴史が始まりました。

その後、全国各地に国産ビールの醸造所が誕生し、外国産ビールの輸入量は激減していきました。ビールは文明国日本を主張できる国産の酒となったのです。

今や日常生活にすっかり溶け込んだビールですが、それを日本に根付かせたのは、開拓使に集った若者たちの夢と挑戦でした。そして、それを支えたのが、後に青山キャンパスとなったこの地です。

今日も、ここで若者たちは夢を追っています。その姿は140余年前の村橋や中川に、きっと似ていることでしょう。いつまでも青山が、若者の夢と挑戦を支える場所でありますように。

「青山学報」262号(2017年12月発行)より転載