Story ストーリー

日本最古の小学校ラグビーチーム 青山学院初等部「コアラーズ」

今年、2019年9月20日から日本で開催される「ラグビーワールドカップ2019」。日本の活躍が期待されます。

イギリス発祥のラグビーが日本に初めて紹介されたのは、1899(明治32)年。慶應義塾の大学部の英文学教員エドワード・B・クラークが、慶應の塾生に指導したのが始まりです。「日本ラグビー蹴球発祥記念碑」が慶應義塾の日吉・下田グラウンドのラグビー場に建てられていて、同大学の「慶應義塾體育會蹴球部」は、日本初のラグビーチームとして歴史に名を刻み、数々の戦績を残しています。

キックオフ 小学生ラグビーの幕明け

小学校のラグビーチームはどうなのか? 青山学院初等部ラグビー部「コアラーズ」が“日本最古”との噂は聞いていました。本当にそうなのか?
客観的な資料は無いのだろうかと、古い新聞記事を探してみると、讀賣新聞に次の記事を見つけました。

青山学院初等部「ラグビー部」
「昭和二十八年夏、クラブ結成のときには小学生のラグビーは全国でただ一つという珍しさが評判になった」(1955年11月1日朝刊)

この記事が正しいとしたら、“日本最古”で間違いなさそうです。
様々な現存の資料から、コアラーズの歴史を振り返ってみました。

 

青山学院初等部ラグビー部「コアラーズ」の誕生

コアラーズ 第1期生たち
コアラーズ 第1期生たち

青山学院初等部ラグビー部が誕生したのは、1953(昭和28)年9月18日。体育科の平澤弥一郎教諭が顧問となり、青山学院大学ラグビー部の松元秀明監督らが有志のスタッフとなり指導にあたった(顧問の平澤教諭が半年後の回想録で「9月19日」としているが、児童文集には「9月18日」と記した児童が2名いて、9月18日かと推測される。また、正式には4月1日のようだが、実際に部の活動が始まったのは9月18日と思われる)。
児童36名で始まった(これもいろいろな数字が残されている)。
初代主将となったのが、6年生の中野根二郎さん。朝日新聞に勤めていた中野さんの父・中野五郎さんが、チームネーム「コアラーズ」の名付け親になった。部歌も作られ、作詞が中野五郎さん、作曲は、「青い山脈」「東京ブギウギ」などを作曲し、国民栄誉賞も受賞されている作曲家の服部良一さん。

 

“紳士であれ” 掲げられた3つの目標

ラグビー部の目標として、以下の3点が掲げられた。
 ・正常な心身の発達
 ・長上に対する礼義
 ・団結精神の徹底的養成
チームワーク、協調性を重視し、さらには、学業成績が落ちるとメンバーから外すなど、学業もおろそかにしないことを求めた。そして、紳士の国イギリスのスポーツであるから紳士でなければならないとし、平澤教諭は、初等部の各クラスに「ラグビー部員は威張っていないか?」「クラスメイトに親切か?」というアンケートまで行い、練習面以外でのラグビー部の素地も固めていった。

 

“ちびっこラガー”のデビューと国際交流

創部2か月後の1953年の11月には、初の試合を行った。日本大学と中央大学の試合の前座となる、コアラーズメンバーのみによる紅白試合だった。
1955(昭和30)年には、第10回国民体育大会(国体)に招待され、紅白に分かれて模範試合を披露している。
1956(昭和31)年には、オーストラリアのチームを、翌1957(昭和32)年には、ニュージーランドの「オールブラックス」を初等部に招いて指導を受けるなど、国際的な交流も始めた。この1950年代は、大学対抗戦や国際試合の前座として、コアラーズのみが何回か出場しており、ほかの小学校チームの出場は無かった様子もうかがえる。
“ちびっこラガー”としてたびたびテレビ出演や雑誌の取材依頼にも応じていることから、“時の人”的な扱いを世間から受けていた様子もうかがえる。

オールブラックスチームから「ウォークライ」を紹介される
オールブラックスチームから「ウォークライ」を紹介される

 

対戦相手がいない!

「青山学報」46号(1962年12月20日発行)には、次の一文が記載されている。
「現在我々が一番悩んでいることは、初等部がラグビー部を持つただ一つの小学校で、相手となるべき学校が他にないことである。」

初の対外試合は、1961(昭和36)年、栃木の作新学院小学部との対戦。作新学院に遠征し、試合に臨んだ(1962年という記事もある)。
当時、日本のラグビー史上で初めての小学生ラグビー対抗試合、と言われた。

その後、1964(昭和39)年から成蹊小学校と、1975(昭和50年)から慶應義塾幼稚舎と交歓試合を開始し、現在に至る交流が続けられている。
1973(昭和49)年には、秋田県の金足西少年ラグビースクールと親善試合を行い、児童は、金足チームの児童の家庭に分宿。こちらも定期的に交流が続けられている。

ラグビー部の顧問を務めた金塚繁教諭は「青山学報」117号(1984年3月発行)で次のように語っている。
「約10年、対戦相手がなく、秩父宮ラグビー場で行った紅白試合や招待試合は、現在全国に200を超える少年ラグビースクールが育った礎として高く評価されており、初等部の播いた種が数多くの立派なラガーを産んでいることを思うと喜びに堪えません。」

 

“楽苦美”与えてくれる誇りと自信

同じく顧問を務めた田中耕司教諭は、
「スポーツを通して多くの人々と交わり、様々なことを教わり、そして豊かな経験をさせていくことが、指導する者の勤めでありましょう。幼い子どもたちを、決してスポーツ馬鹿にしてはならないと思います。初等部ラグビー部では、ラグビーを「楽苦美」と書きかえています。楽は、ラグビーを楽しむこと。苦は、鍛錬することで、厳しく苦しい。美とは、美しい友情や気持ちや精神を育てること。これが我々の信条とするところです。」と、「青山学報」68号(1973年12月10日発行)で語っている。

コアラーズ50周年記念誌に、初代主将の中野根二郎さんは、次のように寄せている。
「良き師、良き友を得ることができ、更に心身を鍛えて五十年余の人生に誇りと自信を与えてくれたのが、初等部の『コアラーズ』であったと言える。(中略)それにしても昭和から平成の激動の四十年間の長い間このラグビー部をよくぞ守り育ててこられたものだ。この間の金塚先生はじめ多くの関係者の皆様のご苦労に心からお礼と感謝を申し上げたい。」

 

ノーサイド 受け継がれる“コアラーズ楽苦美”


中野さんをはじめ、コアラーズ出身者の中には、慶應義塾普通部に進学し、ラグビーを続けられた方もいらっしゃいます(慶應に進学した中学1年次、ラグビー部が休部だったことが、当時のコアラーズの部誌に卒業生からの寄せ書きとして書かれています)。

コアラーズは毎年夏に、ラグビー合宿のメッカ、長野県菅平高原で、8泊9日の合宿を行っています。これも1957(昭和32)年から始まった行事で、合宿場所を変えながら60年以上の伝統があります。児童も指導者も苦労しつつも、ラグビーを楽しみ、そして美しい友情を育んでいます。

田中耕司教諭の尽力で始まった成蹊小学校との交流試合は「田中杯」と呼ばれています。
田中教諭は、在職中の1981年6月に急逝されました。

慶應義塾幼稚舎との交流試合は、「鍬守・島根 MEMORIAL CUP」と命名されています。
体育指導を通し、慶應幼稚舎の鍬守篤麿教諭と、青山学院初等部の島根照夫教諭との深い信頼関係により、交流することになりました。

秋田金足西少年ラグビースクールとの交流も46年の歴史を刻んでいます。

この素晴らしき交流が、今後も末永く続くことを願っています。

青山学院初等部コアラーズの“楽苦美”精神は、これからの時代も受け継がれていくことでしょう。

-One for all, All for one-

 

 

参考文献:『コアラーズ四十年の歩み』、『青山学院初等部ラグビー部50周年記念誌』、
「青山学報」、「讀賣新聞(1955年11月1日朝刊)」、「朝日新聞(1953年12月24日朝刊)」、
慶應義塾ウェブサイト[慶應義塾豆百科]