渡哲也さんのご逝去を悼んで
2020/09/30
渡哲也さんが2020年8月10日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。
渡さんは青山学院大学経済学部に入学され、空手道部に所属。その後、スカウトされて日活に入り、俳優としての道を歩まれました。
これまで渡さんは、青山学院の校友として、青山学院の創立記念行事などにご出演くださったほか、目に見えない部分も含め、数々のご厚意を青山学院にお寄せくださいました。青山学院の記録の中から、渡さんと青山学院のかかわりについて、故人を偲び、感謝の気持ちを込めまして、ご紹介させていただきます。
また、大学時代に空手部で同期だった田中孝一さん(ダイセーホールディングス株式会社代表取締役会長)から追悼文をお寄せいただきました。ここにご紹介いたします。
最後に、青山学院理事長 堀田宣彌からの、お別れの言葉を掲載いたします。
「青山が創る文化の集い」は、1994年10月29日に渋谷公会堂で開催された、青山学院の創立120周年を記念して行われた行事です。市川團十郎さんをはじめとした梨園関係者の皆様による「勧進帳」、文化人の皆様による座談会「21世紀の文化」、音楽界・演劇界などの皆様による「音楽と語りのガラ」が開催されました。
その発起人のお一人として渡さんが名を連ね、「音楽と語りの部」にご登壇され、学生時代の思い出や、創立120周年のお祝いの言葉を頂戴いたしました。
2004年11月6日、青山学院の創立130周年を記念して行われたパネルディスカッションに、パネリストのお一人としてご出演くださいました。テーマは「学院からあたえられたもの」。学生時代の思い出や、当時のご活躍やご苦労話、中越地震(2004年10月23日発生)に関連してこれまでの震災救援活動についてなど、ほかのパネリストの方々とともに語っていただきました。
渡さんのお人柄が表れているその時のご発言をご紹介したいと思います。
阪神淡路大震災の時に、私どもは会社をあげて現地に行き、そこで寝起きをして、1週間炊き出しをやらせていただきました。
そこで感じたことは、ボランティアは、誠心誠意その気持ちを持っていないと、特に芸能人の場合は、売名行為のために来たのかと受け取られがちなのですね。私たちは被災者の方たちに、何をしてほしいのかということを伺い、温かいものがほしいということで、いろいろメニューを考えました。我々は男ばかりで人数も足りなかったのですが、地元のボランティアの方も協力してくださいました。
「本当にありがとうございました」と、被災者の方々の拍手を受けて帰ってきたのですが、帰ってきたときに自分のことが非常に嫌になったんですね。それは1週間ぶりに風呂に入ったとき、被災された人たちは風呂も無いということ。戻ってくれば自分の家庭で食べたいものが食べられる。人間というのは、所詮人ごとでしか考えられないのかなと。そうして被災者のことを忘れつつある自分が非常に恥ずかしく思えたのです。これは、阪神淡路大震災でのボランティアを通して自分にあたえられた教訓だったと思っております。
私は石原裕次郎が亡くなったとき、石原プロというのは、石原裕次郎が今までにないような、自分独自の映画を創るために作った独立プロなのだから、時期を見て解散すべきだと思っていました。石原プロを継続するかどうか幹部社員と議論しましたが、その時、裕次郎の足跡を守ってゆくことが、自分が石原裕次郎から受けた有形無形の恩義に応えられる唯一の道かと思われ、社長の任務を引き受けた経緯があります。
私がなぜ石原裕次郎にこれだけの想いを馳せるかといいますと、たまたま日活にスカウトされて俳優になったわけですけれども、石原さんは慶応大でバスケットの選手、私は空手をやっていまして、同じ体育会ということで何かにつけて目をかけていただきました。撮影に入りますと、「今日はうちに寄って飯を食っていけ」ということで、今まで食べたことがないようなお肉や、飲んだことのないようなワインを飲ませていただきました。帰りは、石原さんが着ていたスーツやコートやセーター、下着以外のものはほとんどいただいた。
石原さんと共演して五本目くらいだったでしょうか。ある時、石原さんが「哲、おまえ、今いくら給料もらってるんだ」「3万円もらってます」「3万円じゃ、おまえ、家賃を払ったら何もできないじゃないか。よし、おれが社長に言ってやる」。何と、あっという間に30万円に上がったんですね。物心両面にわたってお世話になりました。何か人間的な、惹きつけられる、傍らにいて非常に心地良い、この人のためなら何でもしてやろう、何でもできる、という雰囲気を持った方なんです。
以前、東大病院に入院中に、たびたびドクターが、小児がんで入院しているかわいい少年少女を連れてきて、写真を撮ってやってください、と。しかしその少年少女たちが1週間もしたらいなくなっていた、という事実を目の当たりにしてきました。
そういったことから約20年後、仕事の上で毎日新聞とのお付き合いが始まったのです。そんな折、小児がん撲滅キャンペーンのイベントに参加してくれませんかというお誘いを受けました。小児がんの少年少女たちの死を目の当たりにしたこともありましたし、この歳になってきますと、できることなら何か社会にお返ししたい、社会に貢献したい、そのような思いもございまして、参加させていただくようになりました。
小児がんというのは非常に偏見と誤解がございまして、小児がんは治らない、人にうつる、病気の子どもたちが学校に行っても、一般の子どもたちと遊べない、非常に差別を受けている。また、今の医療保険制度では、小児科というのは非採算部門でどんどん縮小されているわけですね。我々はそういうことを訴えているのですが、コンサートを開いてお客さんに集まっていただいて、専門的なお話は小児がんの専門の先生方や、専門的に取材をしている記者の方にお話ししていただく、そのような活動をしております。
続けていくことが大事なことだと思います。
私どもは事故を起こした当事者ですから、謝罪をあらわすのは放映の中止しかないと思っておりました。しかしテレビ朝日さんは、中止となればそこに大きな穴があくわけです。その私どもの無理な要望を聞き入れていただき、謝罪会見の席で西部警察の制作の中止、放映の中止を直ちに発表することができました。
まじめな学生生活を送らなかった私ですから、こんなことを申し上げる資格は無いのですが、学生の皆さんに、世の中で必要とされる人間になっていただきたい。自由には責任を、権利には義務を、このことをよく理解していただければ、世の中に必要とされる人間になることができると思います。
また、情報化、国際化が非常なスピードで進んでおります。政治、経済はもちろんですが、これも競争です。そのような国際感覚を養っていくということも必要だと思います。海外の文化を知ることも大事ですが、それに並行して日本の文化というものを学んでいかないと、海外の人たちとそういう会話もできなくなってしまう。情報化と国際化に通用する、必要とされる人間になっていただきたいということを申し上げたいと思います。
130周年のパネルディスカッションの開催記事を「青山学報」211号(2005年3月発行)に掲載する際に、渡さんのご紹介として、当時NHKの大河ドラマ「義経」(2005年)に平清盛役で出演されていた渡さんのお写真をお借りしたいと申し出たところ、マネージャーさんではなくわざわざご本人がおいで下さり、ホテルオークラで待ち合わせをして、お写真をお借りすることとなりました。
当時の広報室の伊藤祐子室長と私で出向き、ご指定のレストランに入ると、太陽の光を背に浴びた眩い渡さんがそこにいらっしゃいました(隣にはアントニオ猪木さんが座っていました!)。異世界に来たような空間の中、短い時間でしたが、軽食をいただきながらお話を伺い、お写真を手ずからいただきました。
帰る段になり、渡さんのお手元に会計伝票があったので、“お支払いさせてはまずい”と思い、伊藤室長とお話しされている隙に、伝票に向かってそっと右手を伸ばしたところ、渡さんが気付かれ、握手を求められたのだと思われ、私の手を握ってくださった、という忘れもしないエピソードがあります。結局お支払いいただいてしまい、申し訳なく思った一方で、とても感激したという思い出です。その晩、田舎の親に電話で自慢話をしてしまいました。
渡哲也と私は体育会空手道部の同期で、1966年「全日本大学空手道選手権大会」で全国優勝に輝いた。大スターになった彼がある日「田中、石原プロは全国区だ。ダイセーも全国区になったら奉仕活動をしろ。俺はほとんどが亡くなってしまう小児癌の子供達に勇気を与えようと、日本全国の病院に行って頑張れと抱きしめている。」と。60年の友が私の胸に深く刻んでいった一生忘れない言葉だった。彼はいかなる立場に登っても、常に己を下座に置いた偉大な人間だった。
渡哲也さんは、本学経済学部出身、そして奥様、お子様共に本学卒業生であり、まさしく青山ファミリーです。その渡さんのご逝去はあまりにも早く痛惜の念に堪えません。しかし、渡さんの偉容は我々の心の中に残り、偉業は後々まで語り継がれるものと確信します。
渡さんの青山学院への熱い支援に対し、あらためまして厚くお礼申し上げます。
そして、渡さんが愛された奥様とご家族に主からの励ましと平安、祝福がありますことをお祈りいたします。