Story ストーリー

筒美京平さんのご逝去を悼んで

【写真(上):「青学チャイムズ」VOL.9】

 

筒美京平さんが2020年10月7日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。

筒美さんは、1940年生まれ。青山学院の初等部に入学され、中等部、高等部、そして大学経済学部を卒業後、1963年に日本グラモフォン・レコード(後のポリドール、現ユニバーサルミュージック)に入社されました。作曲家としてデビューされてから、数々のヒット曲を生み出し、歴代1位のシングル曲総売上枚数を誇っていらっしゃいます。

筒美さんには、青山学院の全卒業生(校友)の方々に郵送でお届けしている「あなたと青山学院」の前身にあたる「青学チャイムズ」VOL.9(2009年2月発行)にご登場いただいています。
故人を偲び、哀悼の気持ちを込めまして、当時めったにメディアに登場されなかった筒美さんに特別にインタビューさせていただいた記事をご紹介いたします。

最後に、青山学院理事長 堀田宣彌からの、お別れの言葉を掲載いたします。

 

「青学チャイムズ」VOL.9(2009年2月)インタビュー

──ピアノで作曲されるそうですが、いつからピアノを習い始めたのですか?
霊南坂幼稚園に通っていた4歳から。僕の原点ですね。途中、少しブランクもありますが、それ以外はずっとピアノを弾き続けています。

──青山学院での思い出は?
初等部は2階建ての木造の建物でした。「桜」と「梅」の2クラスしかなかったので(現在4クラス)、とても印象に残っています。アットホームな雰囲気が良かったですね。都電で通っていました。“都電組”は7~8人いて、みんな仲良しでした。ジャガイモ畑でジャガイモ掘りをしたり、宣教師の家に遊びに行ったり……。楽しい思い出がいっぱいあります。大学の礼拝堂を使ったお祈りの時間もありました。

中等部時代には、週1回の礼拝のときに、讃美歌の伴奏をしていました。

高等部の文化祭では『慕情』『愛情物語』などといった映画音楽やクラシックの名曲をメドレーで弾いていましたね。先輩に渋谷のジャズ喫茶に連れて行ってもらい、ジャズも好きになりました。高等部には軽音楽部が無かったため、園芸部に所属し、中庭の花を植えていました。

ジャズを本格的に始めたのは、大学時代。できたばかりの軽音楽部に入ってから。ピアノ、ギター、ベース、ドラムスの4人組のジャズバンドを結成しました。当時としてはかなりモダンでしたね。長期休みには、スキー場のロッジなどで、バイトで演奏しました。楽しかったですね。

──青学のいいところは?
自由でのびのびとした雰囲気がいいですね。
個性を認め、それぞれのいいところを伸ばしてくれたように思います。

芸大のピアノ科に入り、クラシックのピアニストとして生きたいと思ったこともありました。しかし、母が亡くなったこともあり、青山学院大学の経済学部に進学しました。青山学院は、奨学金を出してくださったので、本当に感謝しています。

──大学卒業後は?
日本グラモフォン・レコードに勤めていた先輩に、「洋楽のディレクターを募集している」と聞いて応募し、1963年に入社しました。

──作曲やアレンジを始めたのはいつからですか?
その会社で洋楽のディレクターの仕事をしているときです。青山学院の1年先輩の橋本淳さんに、「作曲をやってみないか?」と誘われたのがきっかけです。当時の橋本さんは、作曲家でプロデューサーのすぎやまこういち先生のマネージャー兼作詞家でした。

仕事が終わってから小平市にあるすぎやま先生の家に行き、朝の3~4時ぐらいまで作曲の勉強をしたり、アレンジを手伝ったり……。その後、井の頭公園に近い橋本さんの家で仮眠してから出社していました。今思えば、本当にタフで、頑張っていました。

──作曲家としてのデビューはいつですか?
1966年に、『筒美京平』という名前で作曲家デビューしました。翌年、ヴィレッジ・シンガーズの『バラ色の雲』がヒット。会社を退社し、専業の作曲家になりました。

──作曲のときに心がけていらっしゃることは?
曲と詞のどちらが先かというと、だいたい半々なのです。曲が先のときには歌手のイメージや音域などを考え、「こんな曲にしてほしい」という依頼に沿うように作ります。詞が先のときには、詞の世界をどう音楽で表現するか考えて作ります。橋本淳さんとのコンビで作った『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、当時としては、とても新しいメロディーだったと思います。

デビューして最初の10年間は、アレンジも自分でやっていましたが、79年に発表し、レコード大賞を受賞した『魅せられて』から、他人にアレンジを頼むようになりました。

──好きな作品と、その作品は曲と詞のどちらが先でしたか?
レコード大賞を受賞した『また逢う日まで』と、『さらば恋人』。この2曲は曲が先。『木綿のハンカチーフ』は詞が先です。

──年間何曲くらい作られましたか?
70年代から80年代にかけては忙しかったですね。特に70年代は、作詞家、作曲家、アレンジャー、営業が一体となって、チームワークで仕事をしていました。3か月ごとに新曲が出ていて、レコーディングのときにも立ち会っていたから、とても忙しかった。多い年には、年間200曲ぐらい作っていました。

──90年代に入ってからは?
小沢健二君や、ピチカート・ファイヴの小西康陽君ら若いアーティストとも仕事をしましたが、彼らのコード進行には、自分では使わないようなものもあり、新しい発見があって楽しいですね。97年には、作曲家活動30周年を記念して、163曲を厳選したコンピレーション・アルバム『HISTORY』をリリースしました。

2000年代に入ってからは、僕の作る曲のファンだったという中川翔子さんや、TOKIOからの依頼があって、曲を作ったりしていますが、若い人の感覚とずれないように気をつけています。

──40周年の2007年には、筒美さんの楽曲を尊敬するアーティストが参加した『筒美京平トリビュートthe popular music』が出ましたね。
今から30~40年前に作った曲を、徳永英明さん、秋川雅史さん、柴咲コウさん、草野マサムネさんら12組の、20~30代のアーティストが歌ってくれました。オリジナルとはまた違った仕上がりで、非常に個性的かつ魅力的な作品となりました。作曲家として、こんなに幸せなことはありませんね。

現在68歳ですが、70歳になったら作曲をやめて、のんびりと過ごしたいですね。

「青学チャイムズ」VOL.9(2009年2月発行)より抜粋

 

筒美京平さんへの思い  -青山学院理事長 堀田宣彌-

筒美京平さんは、青山学院初等部から大学まで16年間、学院で学ばれました。
大学経済学部在学中はジャズを愛し、卒業後はレコード会社に勤務された後、作曲家として偉業を達成されました。ご逝去は余りにも早く、痛恨の念に堪えません。
筒美さんの「歌」は、日本人の心に残り、後々まで語り継がれるものと確信します。

青山学院として、これまで頂きました数々のご厚情に対し、あらためまして厚くお礼申し上げます。そして、筒美さんが愛されたご遺族に主からの励ましと平安、祝福がありますことをお祈りいたします。

 

筒美京平さん
思い出がつまった高等部PS講堂(2012年解体)の舞台を背景に
【写真:「青学チャイムズ」VOL.9】