Story ストーリー

気象学の先駆者・田村哲と、生江孝之理事長 -100年前のアメリカでの出会い-

昨年11月、ロサンゼルス在住の及部泉也様より、100年ほど前の本学の卒業生で、気象学の先駆者である田村哲についてご投稿いただきました。
「明治時代の気象学の先駆者、田村哲」2021.11.8

このたび、その田村哲のエピソードをご投稿いただきました。またその時に関わっていた、後に青山学院の理事長を務めた生江孝之のこともご紹介いただきました。ありがとうございます。ここに、ご紹介いたします。

 

田村哲博士の「三日坊主」と生江孝之理事長の「貧民街」

及部 泉也

 

田村哲
田村哲

 

田村哲は『青山学報』や『アオガクプラス』で紹介した青山学院高等科(旧制)出身の明治期の気象学者ですが、亡くなる1年前31歳のときに自伝を書きました。1908年に目黒書店から発行された『外遊九年』という本です。

現在ではなかなか手に入らず青山学院大学図書館にさえありませんが、幸いなことに著作権の切れた書籍を国立国会図書館が次々にデータベース化したので、この本もネットで自由に読むことができるようになりました。「三日坊主」はその本からのお話です。

私は田村哲を紹介した際に田村の同郷つまり山形県米沢出身で青山学院のほぼ同期でもある労働運動家河上清と米国で出会ったことは書きましたが、この自伝によると他にも青山学院の関係者と米国で会っています。生江孝之もその一人です。

生江孝之は「日本社会事業の父」と言われている人で、若い卒業生はご存知ないかもしれませんが、青山学院神学部を出て、1943年から1945年の間、青山学院理事長でもありました。これから紹介する田村・生江両者のエピソードは、いかにも青山人らしいユーモアにあふれ、1900年頃の米国の様子もうかがわれます。「貧民街」はそういう米国事情のお話です。

 

生江孝之
生江孝之

 

田村哲の三日坊主(ニューヨークからボストンへ)

田村は困窮没落士族の出で青山学院では学内で働きながら学費を免除されていたのに、米国では官費ではなく自費留学ながらも、数学の能力が特別高いため初めから一般の労働者の賃金よりもずっと高額な奨学金をアメリカの大学から支給されていました。ところが、一時期さまざまな不幸が重なり経済的にも困窮したことがありました。渡米後5年目の頃です。

そこで田村は、自分が在学していたコロンビア大学のあるニューヨークに比較的近いマサチューセッツ州ボストンに、ボストン大学で社会福祉を学んでいる生江先輩がいると聞いて出かけます。時は1903年6月。冬は極めて寒い米国ニューイングランド地方ですが、6月となるとかなり暑くなっていて、もう初夏です。

青山学院神学部を出た牧師でもある生江は後輩田村の困窮に耳を傾けて、おおよそ下記のような進言をして、事は進みました。

    「田村君、君は米国では労働というものをしてこなかったようだが、ここで働いてみてはどうか?」
    「先輩、確かに私は渡米してこのかた奨学金に恵まれて一度も働いたことがありません」
    「よし、僕はボストン大学での学業を終えたので、これから英国を回って帰国するから、君に僕のポジションを譲ろう」

田村の自伝から正確に引用すると生江の言葉は「自分の位置を君に譲ろう」ですが、このあまり馴染のない日本語表現から想像できるのは、英語のI’ll give you my positionです。田村は米沢出身、生江はお隣の仙台出身ですからお互いに方言でも理解し合えますが、生江の口からとっさに出たのは英語のような気がしますし、あるいは田村が自伝を執筆する際に浮かんだのは英語のフレーズだったのではないでしょうか。それゆえ日本語としては馴染のない「自分の位置を君に譲ろう」だったのでしょう。

田村は大喜びしました。I’ll give you my positionですからね。ところが、ポジションなるものは普通それなりの地位(位置)に聞こえますが、実は飲食店のアルバイトでした。北米で一般にバスボーイ(busboy)と呼ばれる職種で、レストランでテーブルを片づけたり、セットしたり、食器を洗ったり、水差しや紙ナプキンを用意したりするのが仕事です。面と向かって接客して会話し、メニューの説明や注文を取る仕事はウェイターやウェイトレスの仕事で、彼ら接客係の下で働くのがバスボーイです。重労働のわりに接客係より給料はよくありません。

生江先輩から受け取った純白の上着を着て初めて仕事場に立ったら、およそ15人の若くて美しいウェイトレスの中に男は自分を含めてたった2人。彼女らがまぶしくて、きまりが悪くて、顔から火が出そうだったと田村は回想しています。

それに、それまでは潤沢な奨学金で不自由なく客としてレストランで飲食を満喫していたのに、今度は客を迎える側で、それもウェイトレスの下働きです。しかも15人もいるウェイトレス全員に「テツ、テツ!」と呼ばれるたびに命じられた仕事をしなければなりません。氷のなくなったカウンターに氷を、パンのないところにパンを、「忙しくて目を回す暇もない」と書いています。

ただ、嬉しかったのは彼女らの誰も東洋からの若い田村を見下す者はなく、仕事も親切に教えてくれたことです。しかし、どうにも暑い初夏のこと、汗は流れるように全身に。1日働くとぐったりし、ついに3日目に、明日はニューヨークに帰らなければならないので、もう仕事には来られないと嘘をついて辞めました。なお、自伝には、去るときに「I miss youなどと言ってくれた給仕女もおった」と自慢げな記述もあります。

以上が田村哲の「三日坊主」の顛末です。田村は数年後に日本に帰国し東京高等師範学校(現、筑波大学)教授として気象学や海洋学の研究をしていましたが、1909年32歳の若さで東京の夏の暑さの中、腸チフスで亡くなりました。

 

貧民街の生江孝之(ボストンからニューヨークへ)

「貧民街」は、ニューヨーク・マンハッタンにあった生江の現地調査地でした。生江の当時の写真をご紹介しましょう。このような若い時の写真は、1938年に発行された『生江孝之君古希記念』という本に何枚かあります。この本は青山学院大学図書館や資料センターで閲覧できます。写真は貧民街調査の際のものですが、今度は田村の場合とは逆で、大学のあるボストンからニューヨークに出かけています。

その中の1枚でモノクロ(白黒写真)は靴磨き少年(shoeshine boy)との写真です。

靴磨き少年と生江孝之
靴磨き少年と生江孝之

 

田村に仕事を紹介した1903年より前の1900年の写真で、説明には「紐育細民地區附近廣場」つまりニューヨーク貧民街付近の広場ということですが、詳しい撮影ポイントを探した結果、背景の特徴ある建物(Columbus Park Pavilion)から公園の北の端とわかりました。このパヴィリオン(涼亭)は歴史的建造物として現在も同公園内にあります。カラー写真は現在の様子ですが建物は120年前と変わっていません。

現在の公園の様子
現在の公園の様子

 

マンハッタンのコロンバス公園は、1900年当時はマルベリーベンド公園(Mulberry Bend Park)といってイタリア人移民の多い地区でした。現在はチャイナタウンに隣接しているので中国系アメリカ人が多くなっています。19世紀後半には治安の非常に悪い地区でしたが、生江が訪問した頃にはもう安全な公園になっていました。

生江は一見横柄に靴を磨かせているように見えますが、そんなはずはありません。写真は貧民街での社会事業の視察のために訪れたときのもので、少年たちと仲良く一緒に写った、いかにも温顔の写真もあります。それゆえ、靴磨きの少年には、まさにボストンで田村に仕事を上げたように、自分の靴を差し出して「仕事」を上げていたに違いありません。

生江孝之は、青山学院理事長を退いた後も戦後は養老院等の設立などに奔走し、1957年89歳で亡くなりました(なお、上述の河上清は、米国に留まり英語で執筆し続け、日本には帰らず1949年首都ワシントンにて76歳で亡くなりました)。