Story ストーリー

【37の名言】①ドーラ・E・スクーンメーカー〈コリドールギャラリー〉

2025年5月に新たな装いで開館した「青山学院ミュージアム」には、〈コリドールギャラリー〉と名付けられた空間があります。
「コリドール corridor」とは不動産用語で「建物内のそれぞれの場所を繋ぐ廊下や通路、あるいは通り道」を指します。「コリドー」とも呼ばれるそうです。
まさに青山学院の長きにわたる歴史を紹介する各コーナーを繋ぐ通路の両壁には、道しるべのように、青山学院の先人たちが残した幾多の言葉が光のメッセージとして綴られています。
それらの言葉は青山学院にとっての箴言であり、至言です。そして青山学院の未来への夢を込めた先人たちの想いです。青山学院史研究所と青山学院ミュージアムの皆さんで選りすぐった言葉です。
「なんだか素敵だな」という感覚だけで通りすぎるにはもったいない空間であり、ここに記された先人たちが残した37の名言とその人物を、シリーズ化して紹介してまいります。

シリーズ1回目は、ドーラ・E・スクーンメーカーの名言を紹介します。

 

名言 1

私共には女子三名男子二名と附添の婦人二名とで日本の男女のためメソヂスト監督教会の最初の学校を始めました。其は極く暗き場所に於ける誠に小さな光でありました。

 

名言を発した人物

ドーラ・E・スクーンメーカー(1851-1934)
「女子小学校」創設者

 

出典

ドーラ・スクーンメーカー・ソーパー「ウマンス・ミシヨナリー・フレンド誌宛往時を偲びての音信」
『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』(青山学院女子部校友会、1954年)41頁

※アメリカに帰国後、1880年、Henry Martin Soperと結婚し改姓
 (ジュリアス・ソーパーとは別人)

 

原文

with three girls and two boys as pupils, and a couple of women as on-lookers, we opened the first Methodist Episcopal School for Japanese men and women. A very small light, in a very dark place!
Woman’s Missionary Friend, vol. 67


『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』


Woman’s Missionary Friend, vol. 67

 

背景

スクーンメーカーが亡くなる1か月前に、メソジスト監督教会の機関紙Woman’s Missionary Friend, vol. 67に投稿した記事 ”A Message Out of the Past to the Woman’s Missionary Friend(往時を振り返って『婦人の宣教師の友』へ贈るメッセージ)”が翻訳され、『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』に所収された文章に掲載された言葉です。

 

人物紹介

ドーラ・E・スクーンメーカー Dora E. Schoonmaker

イリノイ州の高等学校を卒業後、公立学校の教師を務めるなかで子どもの頃からの夢であった宣教師を志した。メソジスト監督教会婦人外国伝道会社から派遣され、1874年10月に来日した。来日後わずか約3週間で女子小学校を開校し、その後、救世学校、海岸女学校の校長を務めながら、寄宿舎の舎監として生活を共にし、生徒たちにキリスト教の感化を与えた。1879年の帰国後、海岸女学校が焼失した際には、アメリカで校舎再建費用の募集に尽力した。

(『写真に見る青山学院150年』より)

 

解説

スクーンメーカーは、1874年10月28日に横浜港に降り立ち、それから1か月も経たない11月16日、女子小学校を開校した。23歳だった。
この女子小学校開校において、津田仙とジュリアス・ソーパーの助力が大きかった。
津田は自らの屋敷を教室として提供した。津田の妻・初、長女・琴子、息子・元親と次郎(次女の梅子はアメリカに留学中)が生徒となり、金沢禄、新井常、岩村千代を合わせた7名が最初の生徒だった。

その後、場所や校名の変遷を経て、築地外国人居留地に初めて校舎を建設。名前も海岸女学校と改めた。

スクーンメーカーは予定の5年の任期を終えて、1879年11月1日、横浜からサンフランシスコに向けて帰国の途に就いた。
その直後の12月26日、日本橋方面で火災が発生。瞬く間に築地居留地にも火の手がおよび、海岸女学校の校舎は全焼した。この報をアメリカで聞いたスクーンメーカーは、海岸女学校を支援するキャンペーンの旗頭となり、彼女の雄弁なスピーチによって、早期に多額の寄付金を集めることができ、無事校舎を再建することができた。

その後、宣教師としての使命を忠実に守り通したスクーンメーカーは、1934年12月5日、83歳と11か月の人生を終えた。

日本では、スクーンメーカーが召天する直前の1934年11月16日、青山学院女子部(青山女学院)創立60周年記念式が行われた。青山女学院は、アメリカに住むスクーンメーカーに祝辞を依頼していたが、音沙汰がなかった。それは、彼女の体が日に日に弱っていたからだった。そんな中、最後の気力を振り絞ってWoman’s Missionary Friend, vol. 67に寄稿した。その中の一節にあったのが、このスクーンメーカーのこの言葉である。

20年後、その全英文が日本語に訳され『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』に掲載された。

青山女学院創立60周年式典では、女学院60年の歴史を生徒たちが劇で演じ、スクーンメーカーの最初の5年も再現されたという。


青山女学院創立60周年式典で演じられたページェントのエピローグ
『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』

 

小さな灯をともし、今や大きな光となり、未来に向かってさらに大きく光り輝いていくであろう青山学院の礎を築いたスクーンメーカーの功績や人となりは、この言葉とともに、とこしえに語り継がれていく。

 

関連リンク

 ※青山学院創立150周年を記念して由来の地を訪ねた探訪記です

 

〈参考文献〉
・『しなやかに夢を生きる』(棚村恵子 2004年)
・『青山女学院校友会会報』38号(青山女学院校友会 1934年)
・『青山学院女子部校友会八十周年記念会報』(青山学院女子部校友会 1954年)
Woman’s Missionary Friend, vol. 67, no. 10 (November 1934): pp. 365-6. Woman’s Foreign Missionary Society, Methodist Episcopal Church.

〈協力〉
・青山学院大学青山学院史研究所
・青山学院ミュージアム
・大学図書館