【37の名言】③ジュリアス・ソーパー〈コリドールギャラリー〉
2026/03/13
2025年5月に新たな装いで開館した「青山学院ミュージアム」には、〈コリドールギャラリー〉と名付けられた空間があります。
ここには、光のメッセージとして、先人たちが残した37の言葉が紹介されています。
それらの言葉は青山学院にとっての箴言であり、至言です。そして青山学院の未来への夢を込めた想いです。
シリーズ3回目は、ジュリアス・ソーパーが残した名言をご紹介いたします。
The work of the Christian missionary in Japan is more difficult than at first we supposed, and far more difficult than dreamed of by the Church at home.
ジュリアス・ソーパー (1845-1937)
耕教学舎創設者
Fifty-Eighth Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church for the Year 1876. New York: Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1877, p135.
「日本におけるキリスト教宣教師の働きは、当初私たちが想像していたよりも困難であり、本国の教会が夢にも思わなかったほどはるかに難しいものです。」

メソジスト監督教会年次報告書(1876年)の中の、日本でのミッションについて宣教師たちが書いた報告書に記されたジュリアス・ソーパーの言葉です。
この言葉の後には、外国人に開放されているのは日本のごく一部に過ぎず、政府のキリスト教に対する態度は不透明であり、外国の指示や支配を匂わせるものには嫌悪感を抱いており、宣教師の前に立ちはだかる壁は山のように高い、と日本での初期の宣教活動の大変さを報告しています。
ドルー神学校を卒業後、1873年8月に来日した。来日後は東京を拠点に、津田仙夫妻をはじめ多くの日本人に洗礼を授け、築地教会や銀座教会を創立するなど宣教事業に活躍した。耕教学舎の実質的な設立者でもあり、後身の東京英和学校・青山学院の教員として教育事業にも積極的に携わった。1901年から1908年まで青山学院神学部長を務めた。
かつてソーパーの教えを受けた卒業生はソーパーの人柄を振り返り、「天真爛漫、唐竹を割ったように率直」(原文ママ)、「いつもニコニコ」、「人をみると遥か遠くから勢いよく大声で挨拶」し、なんとも言えない温かい思いを接する人々に与えた、という。
1845年2月、メリーランド州に生まれ、ジョージタウン大学とドルー神学校で学んだ後、メソジスト監督教会の日本宣教師として1873年8月8日横浜に上陸。ロバート・S・マクレイ、メリマン・C・ハリス、ジョン・C・デヴィソンらと伝道を開始。最初に訪ねたのが、津田仙だった。それは、津田梅子がアメリカ留学中、ソーパーの友人であるチャールズ・ランマン家に寄宿しており、梅子の紹介状をもっていたからであった。そのソーパーの影響で、津田夫妻は1875年1月3日に洗礼を受ける。
築地美以教会(のち銀座教会)、三田教会などの教会を設立したほか、1878年4月に築地1丁目に「耕教学舎」を開設。これは、青山学院の三つの源流の一つの学校に数えられている学校である。
実際の開校日は5月1日だと思われるが、翌日、朝野新聞に耕教学舎の広告が出された。
・男女有志の諸君の入学あらんことを請う
・正則教師 ジュリュウス・ソーペル
・同女教師 フランク・ソーペル
・学課 英学正則、同変則、数学、漢学
・月謝金 正則30銭
※一部抜粋
ソーパー夫妻と日本人が教師となり、15名ほどの生徒で耕教学舎の学びがスタートした。
最初の教室は「間口10間(約18m)に奥行き3間(約5.4m)ばかりの総2階建2軒をぶっ通したもの」であったという。
校名の「耕教学舎」は、津田仙が命名したという。
当時、外国人は居留地以外で学校を設立できなかったため、書類上の設立名義人は西山礼輔(のち菊池卓平)となっているが、実態としてはソーパーが設立した、と津田仙が青山学院創立25周年記念式の講演で語っている。
※「美以(みい)」とは、英語のME、すなわちMethodist Episcopal Church(メソジスト監督教会)を表している。


ソーパーは津田仙とともに、スクーンメーカーの女子小学校の設立に関わった一方、ロバート・S・マクレイが設立した、青山学院の源流のもう一つの学校「美會神学校」と合併して青山の地に東京英和学校を開校し、1894年に青山学院となる際にも深く関わっている。今の青山キャンパスの校地獲得にあたっては、不断の努力がなされた。
1896年から1907年まで青山学院神学部教授・部長として勤めた。
大学部の設置構想にも関わった。
名言に記された当初の困難を乗り越え、青山学院の草創期を支え続け、日本の地に確かな足跡を残したジュリアス・ソーパー。
日本での宣教は高く評価され、The Japan Christian Year Book, 1937 には「彼の能力・活動力と献身的努力とは、彼をして日本にメソジスト関係諸機関の基礎をおくことに、最大限の貢献をなさしめた」と記されている。
“his part in the development of the Aoyama Gakuin, his part in the establishment of the Japan Methodist Church, were the contribution of a consecrated life of unusual ability, gladly laid upon the alter of service for his Master. ” The Japan Christian Year Book, 1937.
1911年に夫人の病気のため帰米、1937年に召天。
※青山学院創立150周年を記念して由来の地を訪ねた探訪記です
〈参考文献〉
・氣賀健生『青山学院の歴史を支えた人々』(学校法人青山学院 2014年)
・『青山学院一五〇年史』通史編Ⅰ(学校法人青山学院 2023年)
・Fifty-Eighth Annual Report of the Missionary Society of the Methodist Episcopal Church for the Year 1876. New York: Missionary Society of the Methodist Episcopal Church, 1877
・The Japan Christian Year Book, 1937. The Federation of Christian Missions in Japan Christian Literature Society of Japan, 1937
〈協力〉
・青山学院大学青山学院史研究所
・青山学院ミュージアム