Variety いろいろ

ラクロスが繋ぐ未来  “Lacrosse Makes Friends”【第4回 <対談企画> 慶應×青学 ラクロス部 誕生秘話】

今回は、日本のラクロスの黎明期に普及させようと尽力した佐々木裕介氏(1988年日本学生ラクロス連盟委員長、日本ラクロス協会理事長)と名越美恵氏(青山学院大学女子ラクロス部初代主将、日本ラクロス学生連盟初代大会委員長)のお二方に、ラクロス部創設当時のお話を伺った。

 

 

日本ラクロス協会理事長 佐々木裕介氏
青山学院大学女子ラクロス部初代主将 名越美恵氏
インタビューより
(2025/8/30実施)
慶應×青学 ラクロス部
誕生秘話

 

ラクロス部創部のきっかけ

────お二人は、大学でラクロスと出合う前はそれぞれ何かスポーツをされていたのですか
佐々木さん:中高一貫男子校時代はサッカー部に所属していました。膝の半月板を怪我してしまったことで、高校3年生の時は思うようにプレーができず、大学体育会サッカー部への入部は諦めなければなりませんでした。かといって女性のたくさんいる華やかな「テニサー(テニスサークルのこと)」にも入れず、そんな矢先にラクロスに出合いました。父親が脱サラ企業経営者だったので、漠然と人と違うことをしたいという思いがありました。
名越さん:高校時代までは、ソフトボールや水泳をやっていました。大学に入ってから「青学といえばテニスサークルかな……」と、友達との流れでなんとなく入部したのですが、華やかなテニスサークルに馴染めなくて……。佐々木さんと同じように、ラクロスに出合うまでは、自分の居場所、やりたいことを毎日探し続けているような感じでした。
────最初に、それぞれの大学でラクロス部がどのように創部にいたったのかを教えてください
佐々木さん:慶應高校3年生の卒業直前に、中学サッカー部時代からの友人が、『Men’s Club』(1984年2月号)の雑誌に特集されていたラクロスの記事を見つけたんです。「何だか面白いスポーツがあるじゃない!」と。慶應義塾大学(以下、慶應)に入学した4月に、彼に誘われて、ラクロス部の創部メンバーに加わりました。こうして、1986年4月、慶應に日本で最初のラクロス部が誕生しました。
創部したものの、その頃は、日本でラクロスを知っている人は全くいなかったので、ここから、ラクロスの情報を皆で集め始めました。ラクロスはカナダの国技だということをその雑誌から知って、初期創部メンバーの起こした最初のアクションは、カナダ大使館に「ラクロスを日本でやりたいんですが、どうしたらいいですか」という問い合わせをしたことでした。すると「日本でラクロスを広めたいビジネスパーソンがいるから紹介します」との回答が。ノリオ・エンドー氏と慶應のラクロス部メンバーが出会う機会となる第一歩となりました。

 

初出:『Men’s Club』1984年2月号より
イラスト・記事:小林泰彦氏
日本にラクロスが誕生するきっかけとなった1枚の記事
(データ提供:JLA)

 

名越さん:青学ラクロス部誕生のきっかけも、まさに同じくその『Men’s Club』の記事でした。
1987年に青山学院大学(以下、青学)に入学後、それぞれテニスサークルに所属していた私を含めた4人の法学部A組のクラスメイトたちと、授業後の教室で、「夏合宿まで行ってみたけど、なかなかテニスサークルに馴染めないよね・・・・・・」と話していたある日のことでした。
「このスポーツをやりたいんだけど」と、そのクラスメイトの1人が、『Men’s Club』に掲載されていたラクロスの記事を持ってきて、それを見た全員が「面白そうだね! やってみようか!」と賛同。一緒にその記事を見ていた私に、「じゃあ、名越はマネージャーをやってくれない?!」と言われて、すぐに「じゃあ、私、マネージャーをやる!」と即決しました。
早速、青学ならこのスポーツありそうじゃない? と学生課に行って聞いてみたものの、「ラクロス? 見たことも聞いたことがありませんね」と即答でした。当時はネットもなかったため、情報収集の手段の全くない、手探りでのスタートでした。
私たち4人で、それぞれ所属していたサークルや知り合いを通して友達に声をかけ、経済学部と経営学部からも集まり、仲間が10人近くなったところで、当時渋谷の宮益坂にあったSOHO’Sというお店で発足会を開きました。まだその時点で、ラクロスについての情報が全くなかったため、その会でできたことは、自己紹介と決意表明、議題としてサークル名を決めること、等でした。サークル名は、持参した辞書で各々調べて、意見を出し合い、最終的に、“Field Varsity”と命名しました。
こうして1987年の9月、青学に男子ラクロス部の始まりとなる青学ラクロスサークルが誕生しました。この時、私ともう1人の同じクラスの女子がマネージャーとして加わりました。
当時、青学のサークルと言えば、「スタジャン(スタジアムジャンパー)」を各サークルで作ること、が定番でした。そこで、まだ何の情報もないままだけれど、何か、このメンバーでの始まりを形にして始動したい気持ちから、その第一歩として私たちもスタジャンを作ることにしました。『Men’s Club』の記事に掲載されていたスティック(以降、クロス)を見ながら、私がクロスの絵を描き、それを2本交差させてデザインした図案を持って渋谷のスタジャン屋さんに行きました。そこで、偶然、慶応のラクロス部メンバーの1人に出会ったんです。

 

名越さんがデザインしたワッペン
(写真提供:名越氏)

 

青学の男子ラクロス部がこんなにも早く始動できたのは、このお店でアルバイトをしていた慶應のラクロス部メンバーとの奇跡的な出会いから始まったと言っても過言はないと思います。持参したクロスの図案を見て、
「君たち、これやりたいの?」
「僕たち、今慶應でラクロスを広めようとしているから、すぐにでも練習に参加しにおいでよ」
と、練習に誘っていただいたんです。早速その週末、“Field Varsity” のメンバーで慶應ラクロスが練習している東横線の多摩川の河川敷に行きました。

 

青学女子ラクロス部の誕生

────運命的な出会いだったんですね。その後、慶應と一緒に練習を始めたんですか
名越さん:はい。慶應の練習に参加させてもらっていたある日のこと、いつも練習を見に来てくださっていたノリオ・エンドーさんが、青学のマネージャーとして男子の練習を見ていた私に、「見ているだけじゃつまらないよ。一緒に、ミエ(※名越さんのこと)もやりなさい」と、彼独特のウィンクをしながら、クロスを1本渡してくれました。もともと私は運動することが大好きだったので、楽しそうに練習している男子たちを見ていて、「いいなぁ……。楽しそうだなぁ……」とうずうずしていたのを、エンドーさんには見抜かれていたのかもしれません(笑)。渡していただいたクロスを持って、そのまま一緒にいれてもらうことになりました。ボールを初めてクロスでキャッチできた時のあの感覚はいまだに忘れません。今までに感じたことのない楽しさでした。パスやキャッチの練習の他にも、男子と一緒にシュート練習にも入っていました。「名越遅い! Hurry up!!」なんて言われながら(笑)。
佐々木さん:一緒に練習していましたね。そうそう、ノリオ・エンドーさんという人は、厳しくも、よく人を見ている方でした。「きっと名越さんなら……」と思ってクロスを託したのではないでしょうか。
名越さん:エンドーさんに声をかけていただいた時はとても嬉しくて、今でもその瞬間を鮮明に覚えています。
間もなくして、当時通訳を担当していた慶應の藤井美和子さんたちもエンドーさんに声をかけられて、男子と分かれて、女子数人でパスやキャッチの練習をするようになりました。大学の枠にとらわれず、チームもできないほど少人数でしたが、クロスを使って練習ができることが楽しくて仕方がなかったですね。
青学の男子3名、女子2名で参加させていただいた秋の慶應の合宿では、男子に混ざって激しいボディコンタクト(ぶつかったり押しのけたりといった接触プレーのこと)も一緒になって練習していました。(※女子ラクロスで禁止プレーです(笑))
そして、ある日のこと、エンドーさんが、「ミエ、女子ラクロスのルールは男子のものとは全く違っていた」と茶目っ気たっぷりの笑顔で伝えてきたんです。
男子と一緒に練習していた時は、ラクロスの練習自体はとても楽しかったけれど、正直、クロスでボディコンタクトを受けて痛いし、あざだらけだったから、男子とルールが違うことを知りほっとしました(笑)。
そして、この瞬間こそが、男女混合でのプレーから女子ラクロスへと道が分かれた転機であり、日本女子ラクロスの黎明期、そして青学女子ラクロス部の原点となったのです。
その後、ラクロスの楽しさをとにかく広めたくて、青山キャンパス内では、クロスを持ち歩き、興味を持ってくれた人に、「一緒にラクロスやらない?」と声をかけ続け、同学年で7人も集まった時には、嬉しくて仕方がなかったです。
────ラクロスの道具等はどのように調達したのでしょうか
佐々木さん:その時には、すでにエンドーさんの最大限の協力があって、ジョンズ・ホプキンス大学(以下、JHU)エドウィン・O・ライシャワー財団からラクロスの道具の寄贈を受けていました。
────そうなんですね。名越さんは、どのようなクロスを使っていたのですか
名越さん:私がエンドーさんからいただいた最初のクロスは、男子用でしたが、途中で女子用の木製のクロスに変更しました。今ではもう全く見かけなくなりましたが、1988年頃になると、女子用のクロスとしては、木製のものを使用している人が多かったですね。

 

名越さんが当時使っていた木製のクロス。
シュートが決まると、☆のシールを貼っていました。
(写真提供:名越氏)

 

グラスルーツ(草の根交流)の普及活動

────当時、ラクロスを広めるためにどんな活動をされたのですか?
佐々木さん:グラスルーツ(草の根交流)の地道な活動をしてきました。
僕たちが慶應のラクロス部を創部した最初の年(1986年)は、エンドーさんの助言やJHUの偉大な指導者ボブ・スコット氏のクリニックを通して、まずは自分たちのチーム作りに専念していました。翌年に入って、やはり試合をするには仲間を増やさないといけない。そんな思いから、4月の新歓で他大学に、ラクロスの飛びこみ営業に行ったのです。その時は、まだ日本で唯一慶應しかラクロス部がなかったから、僕たちはある意味日本代表だよねと、「KEIO」ではなく、「JAPAN」と胸に印字したユニフォームを作りました。でも、いざ創部となると大変だと思うのか、全くチームはできなかったんです。上智大学では、不法侵入ということで大学当局から追い出されたこともあります(笑)。5月には代々木で行われた国際スポーツフェアにも参加しました。

 

代々木の国際スポーツフェアでの
ラクロスのデモンストレーション
(写真提供:kiyomi Endo氏<故ノリオ・エンドー氏のご令嬢>)

 

当時、アメフト(アメリカンフットボール)部、サッカー部や、ラグビー部のメンバーからすると、ラクロスは、上半身はアメフトのようで、腰から下はサッカーのユニフォームみたいな姿なので、
「その競技ものすごくカッコ悪いよね」
と言われることもありました。「アメフトの格好をして短パンか?!」とか、「ドジョウすくいみたい」とか色々なこと言われたんですけれども、「これは、もしかしたら大変なスポーツになりうるかもしれない」とそんな思いを抱きながら、まずは自分たちで練習をして、普及をし始めようというプランを練りました。
名越さん:今では、クロスをケースやカバーに入れて持ち運びしていますが、当時はそういうものがまだ日本にはなかったので、クロスをむき出しで持って電車に乗っていると、
「それ、何?それで魚を捕るの?」
と、ほぼ100%の確率で、見知らぬ方から声をかけられていました。少しでもラクロスを知ってもらいたい一心で、
「これはラクロスというスポーツで、これから日本に普及していこうとしているんです」
とできるかぎりの情報を丁寧に説明して、地道な普及活動をしていました。とにかく、この楽しいスポーツを、自分たちが日本に普及していくんだという熱い想いで毎日が充実していました。

 

代々木の喫茶店から始まった学生の組織・学生連盟の発足

────グラスルーツ(草の根)の普及活動の成果により、1988年から少しずつ参加大学が増えてきましたね。1988年2月に設立された日本学生ラクロス連盟*(以降、学連)という組織はどんな活動をしていたんですか
*参考:この当時の参加校は11校(男子:慶應、東京大学、青学、帝京大学、立教大学、早稲田大学、慶應義塾高校 女子:青学、東京女子体育大学、慶應、聖心女子大学)
佐々木さん:エンドーさんのアドバイスもあって、もっと日本にラクロスを普及させるために、学生だけの独立自尊の組織を立ち上げました。
当時は携帯電話がない時代だから、家の固定電話で連絡を取り合って。電話の多さで一時ノイローゼ気味になることもありました。毎週日曜日に学連が開催されて、よく集まっていましたね。
名越さん:そうですね。朝練習をして、午後また練習をして、そのあとに学連に向かう、という日々でした。
今はなき、代々木の国立競技場内にひっそりとあった喫茶「オリンピア」で、コーヒー1杯150円で何時間も会議をさせていただいていました。テーブルを端にどけて、椅子を円に並べて、そこに各大学の代表が集まって。これからどう普及活動をしていこうかを、みんなで熱く、真剣に語っていました。そして最後に150円ずつ机の上に置いて帰りましたね(笑)。
佐々木さん:ほとんど貸し切り状態でしたよね。国立競技場の体育館の隣で、午後3時には誰もいない。そこに各大学から学連代表が1人ずつ集まって……。当時から名越さんをはじめ、女性の発言がとても活発でしたね。
名越さん:特に男子チームの通訳からプレーヤーになった帰国子女も多かったですしね。
佐々木さん:話し合いの中で、「それは違うんじゃない?」と堂々と意見する、当時からラクロスは男女が対等に語れる文化がありました。学連の文化が、すでに“男女平等”を体現していましたね。
これもエンドーさんから言われていたことなんですけれど、ラクロスは非常に男女の仲がいいので、大会運営も開会式や決勝戦は、男女必ず一緒にやるようにと。地区リーグ戦の決勝は必ず男子の決勝のあとに女子の決勝も続けて行う。そういう意味では、学連も、名越さんも含めて男女で運営していました。米国のラクロスにも”Coed”という男女共に競技をする文化がもともと強かったからだと思います。
名越さん:普及活動のために、男女何人かのグループを作り、クロスを片手にユニフォームを着て、いろいろな大学の入学式や学園祭に勧誘に行きました。どこに行っても、最初は、まったく話も聞いてもらえず、ちらっとクロスに視線を送ってくれた人を見つけて駆け寄ると、足早に逃げられてしまい(笑)、とにかく、しょんぼり帰ってきたのを覚えています(笑)。
佐々木さん:学連が設立されてからは、僕たちは、リーグ戦をして試合に勝つのも大事なんだけれど、とにかく、このスポーツを普及させたかったんですよね。国内に広げてこの競技を盛り上げていこうと、女子のメンバーも増やしていこうということで、懇親会も実施しました。
とにかく男女で一緒にスポーツを楽しむ文化があったと思います。
────その成果もあり、1988年あたりから、女子ラクロスのプレーヤーの数が増えていきますね
佐々木さん:学連が今の日本のラクロスを広げてきた中核執行部隊です。常に自分事として仲間を増やしてきたことがJLAの最大の強みだと思います。累計で全国で約12万人のプレーヤー、ラクロスコミュニティがパワーの源泉です。

 

競技人口の推移(JLA会員登録数)より
(資料提供:JLA)

 

────お二人は学連でどんな役割だったのでしょうか
佐々木さん:第1回の集まりの時に遅刻してしまったため、欠席裁判で、委員長を務めることになってしまい……。
学連では、「普及」、「リーグ戦開催」、「海外遠征」という3つの目標を立てました。
名越さん:そうそう、佐々木学連委員長の議事進行のもと、毎回「どのようにラクロスを日本に普及していくか」について、真剣に話し合っていましたよね。当時の佐々木さんの中には、エンドーさんや日本ラクロス協会2代目理事長だった延滋男氏(~1989年没)の熱い灯が確実に灯されていました。
ラクロスというスポーツの楽しさと、なぜ今日本にラクロスを普及する意味があるのか、等を伝えて共に広めていこうと、在籍大学の枠を超えて当時のプレーヤー全員総出で、プレーをする楽しさと同じくらい普及活動も楽しんでいました。
私は、初代大会委員長で、リーグ戦開催までいろいろ大変なこともありましたが、何もないゼロの状態から、初めて手掛けるひとつひとつのことが次第に形になっていくことが、とても充実していて楽しく、普通の大学生では経験できないような数々の貴重な経験をさせていただきました。

 

延滋男氏(パンフレット「JAPAN LACROSS’89 INTERNATIONAL LACROSSE FRIENDSHIP GAME IN KOMAZAWA」より)

 

────当時、どんなことが大変でしたか
佐々木さん:当時、特に大変だったのは、資金調達でした。
エンドーさんから「インディペンデント(独立自尊)であれ」という教えを受けていたこともあり、外部に頼らず自立した運営を目指すことに。そこで、学連を運営するために、学生会費制の導入を決断しました。
1988年に年間5,000円の会費でスタートしましたが、万が一の怪我に備えて傷害保険の必要性も浮上し、その後早い段階で、学連総会で保険料を含めた14,000円の会費を導入したことが大きかったです。ちなみに、保険料は加入者が増えると掛け金が安くなる仕組みで、今で言う“サブスクリプションモデル”に近いものだったと言えるでしょう。
こうした独立採算の体制のもと、会員数を着実に増やし、1990年初頭には競技人口が1万人を突破するまでに成長しました。
名越さん:大会委員長として、最初のリーグ戦の会場になるグラウンドを探すのが本当に大変でした。たくさんの資料を持参して説明に行っても、「この硬いボールが通行人に当たったらどこが、誰が責任を取るの?」「その棒でボールを拾うの? 芝生が傷むよね。」「サッカーより広い面積を使うの? そんな広さとれないですよ」と矢継ぎ早に言われて、ものの10分で帰されることも多々あり、何度も心が折れましたね。
佐々木さん:「また断られたー」って、よく言っていましたね。
名越さん:そうですね(笑)。でも、最初に神奈川県横浜市にある「こどもの国」が許可してくれた時はとても嬉しかったです。仲間と一緒に奔走して、初のリーグ戦会場として「こどもの国」のサッカー場で開催できたんです。ようやく、一筋の光が見えたようでした。
佐々木さん:ラクロスは、後発スポーツなのでいつもグラウンド探しで奔走するのが文化でした。サッカーや野球のグラウンドで、朝ならグラウンドが使えるので、結果的に、どのメンバーも早寝・早起きが求められて、JLA の選手は、効率的な生活習慣が身についている、と思っています。
名越さん:そうですね。大会開催会場だけでなく、日々の練習場所確保には本当に苦労しました。
佐々木さん:グラウンド確保というのは、ここまでラクロスが認知されてきた今でも大変です。

 

初めてのリーグ戦の参加校
(パンフレット「LACROSSE COLLEGE LEAGUE 1988」より)

 

関東からいよいよ関西へ! 関西での普及活動から学んだこと

名越さん:関西遠征にも一緒に行きましたよね。学連で企画し、関西でも普及活動をしようと。私たち女子は、各大学から数人で2つのチームを作り、神戸松蔭女子学院大学(現在の神戸松蔭大学)でエキシビジョンゲームを行いました。試合を開始して10分後に雨が降ってきて、すぐに観戦しに来ていた学生たちがみな帰ってしまって、私たちだけで雨の中試合をして東京に戻りました。今では、悲しいエキシビジョンゲームの思い出、というより、そんな中でもとにかく楽しかったという思い出になっています。
佐々木さん:1988年の12月頃の冷たい雨の日でしたよね。お金がなかったので、東海道線の鈍行(各駅停車)の夜行列車で行きましたね。しかも明け方の暗いうちに2回も乗りかえて大阪に行くという強行軍でした。椅子は固く、長い時間で身体のあちこちが痛いし、大阪に着くや否や冷たい雨が降っていて、その上、睡眠不足でつらかったのを覚えています。エンドーさん延さんも一緒でした。全部で27名の陣容。男子は、関西学院大学にクリニック(体験会)をしに行きました。関西学院大学の子が一生懸命声をかけてくれて、初心者が200人くらい来るかもとの前評判だったのもあり、期待を胸にしていましたが、当日集まったのはわずか5人! 一瞬気持ちが沈みかけましたが、エンドーさんが、「5人もいれば十分じゃない!」と。夜行列車で関西まで来て身体的には大変だったけれど、結果とても楽しかったんですよ。1人でもいればいいんだって、“ゼロイチ”というのはそういうことなんじゃないかと初めて学びました。

 

アメリカ遠征で本場のラクロスを

佐々木さん:関西遠征前の話に戻りますが、1988年7月から約1か月弱、初めての海外遠征をしました。
男子は、東大(東京大学)、早稲田大、帝京大、青学、慶應から43人。最初にボルティモアに入り、JHUのサマーキャンプに参加しました。キャンプの前後では、ホームステイをし、最後には、ワシントンD.C.の日本大使館でフェアウェルパーティをやってくれましたね。メリーランド州のウィリアム・ドナルド・シェーファー知事への表敬訪問もあったりして。エンドーさんが、スポーツ交流を通じて、結果として外務省までもがサポートしてくれるようなスキームを作ってくれていたんです。

 

日本大使館でのフェアウェルパーティ
女子代表として挨拶する名越さん
名越さんの右後ろには佐々木さんが。
(写真提供:名越氏)

 

名越さん:女子も一緒に行きましたね。青学からは2人、東女体(東京女子体育大学)と慶應からもそれぞれ2人ずつ参加させていただきました。行きの飛行機までは男子陣と一緒にアメリカ入りをし、女子6人はボストンのヒルトップキャンプに参加しました。ところが、ボストン行きの飛行機が欠航となってしまい、途方に暮れていた私たちのもとにエンドーさんがレンタカーを借りてきてくれました。ボストンまでの片道4時間の道のりを、歌を歌いながら運転し、私たちをキャンプ前の滞在先のそれぞれのホストファミリーの家まで送り届けてくれたんです。時間もお金もかかる大変な労力だったはずなのに、彼は一切それを見せず、ただ笑顔で、私たちには「みんな、楽しんで!」と言い、ホストファミリーには「あと、よろしくね」と言い残し、また4時間かけて1人でニューヨークへ戻っていきました。

エンドーさんの何気ないふるまいの中に、揺るぎない信念と温かさが込められていたことを、大人になった今、しみじみと実感しています。エンドーさんや延さんから、真のボランティア精神とはこういうものなのだと、私の心の中に、今でもしっかりと刻まれています。

 

ジャッキー・ピッツ氏からの招待状(資料提供:名越氏)

 

女子ラクロスを本場アメリカでしっかり学んでくる使命を託された私たちは、アメリカ国内だけでなく、ウェールズ等からも参加者が集まった、ヒルトップキャンプで 、たくさんのことを学んできました。この第1回ラクロスアメリカ遠征は、多大なる日本ラクロス協会の支援のもと、日本女子ラクロスの基盤を築くことができた重要なラクロス遠征となりました。この時、全面的にバックアップしてくださった日本ラクロス協会への感謝の気持ちには、言葉で言い尽くせないものがあります。

 

JHUキャンプの最終日にJHUに合流した名越さん。
試合を終えた直後の青学男子ラクロスメンバーと
ドン・ジマーマン氏と共に
(写真提供:名越氏)

 

佐々木さん:アメリカ遠征では、女子には当時女子ラクロス国際連盟会長を務めていたジャッキー・ピッツ氏とJHU女子ラクロスコーチのサリー・ベス・アンダーソン氏が、男子には同じくJHUラクロス部ヘッドコーチのドン・ジマーマン氏がキャンプに来てそれぞれ教えてくれましたね。
みんなラクロス界のトップ中のトップ。

 

大学の枠を超えた全大学合同キャンプ

佐々木さん:私たちは帰国直後に、アメリカ遠征で得た学びを日本で待っていてくれた全プレーヤーに還元すべく、福島県の猪苗代湖畔で全大学合同ラクロスコーチング合宿を開催しました。全国の10大学と1高校から約250人のラクロスプレーヤーが集まり、初めて“学びを共有し、伝えていく仕組み”が生まれました。大学という枠を超え、プレーヤーとしてだけでなく、このあと指導者として後輩に技術や知識を継承していく、そんな現在のフレッシュマンキャンプの原点となりました。”Lacrosse Makes Friends”、“枠を超えていく” というJLAが掲げていくスローガンや哲学は、この学連によって執行されてきました。また、「最初が肝心だ。君たちは世界のトップから学ぶべきだ」というエンドーさんの言葉を受け、日本のラクロスは、草の根で広がりながらも、技術や知識の面では常に「世界のトップから学ぶ」という姿勢を大切にしています。
名越さん:佐々木さんのお話から、この猪苗代キャンプの前日の出来事を思い出しました。
その頃、河川敷のグラウンドで偶然出会ったベスというラクロス経験者と知り合い、少しの間ラクロスを教えてもらっていたことがありました。彼女の人柄もあり、猪苗代キャンプにコーチとして参加してもらえたらと思い、声をかけていました。ところがキャンプ前日、エンドーさんから1本の電話がありました。
「今は一番大事な時だから、“本物”だけを入れたい。ベスは今回のキャンプの指導者としては連れていけない。ミエから断ってほしい」
と英語で言うんです。私はキャンプの直前に、しかもどう英語で伝えればいいか悩みながらも、
「ごめんね、いっしょに連れていくことができなくなってしまったの・・・・・・」
とベスに泣きながら電話で伝えたことがありました。
今振り返ると、あの猪苗代キャンプには、アメリカ遠征で指導してもらった最高の指導者ジャッキー・ピッツ氏とサリー・ベス・アンダーソン氏が来日して、私たち女子選手たちに技術やルールの指導をしてくれたんですよね。世界女子ラクロスのトップの指導者のお二人から直々にコーチングしていただけていたんです。

 

ジャッキー・ピッツ氏からの直に指導を受ける名越さん
(写真提供:名越氏)

 

エンドーさんは、ラクロスの未来を担う若者たちに、最初に触れるものこそ“本物”であるべきだと考えていたんですね。彼の哲学が、今のラクロスの土台を築いているのだと、あらためて感じます。

 

初めての試合

────チームとして初めて試合をした時のことを教えてください
佐々木さん:1987年の10月に米軍横田基地のグラウンドで、在日アメリカ人のビジネスマンチーム(ALC)と慶應のチームが親善試合を行ったのが初めての試合です。結果は13対2の大差で惨敗でした。ベテランで身体の大きい選手を相手に激突し、みんな傷だらけになってしまいましたが、とてもよい経験となりました。何と言ってもアメリカのチームを相手に最初の試合ができたことが一番嬉しかったです。

 

生まれて初めてのラクロスの試合。
若干緊張気味な面持ちの選手たち?
(写真提供:Kiyomi Endo氏)
米軍横田基地での日本初のラクロスの国際交流試合
(写真提供:Kiyomi Endo氏)

 

名越さん:私たち青学女子ラクロスチームは、1988年6月26日の国内初の大会となったラクロス・フェスティバルで、東京女子体育大学と対戦したのが最初の試合となりました。この大会では、男子2試合(慶應VS東京大学、青学VS帝京大学)、女子2試合(青学VS東京女子体育大学、エキシビジョンマッチ:聖心女子大学VS混成チーム)が実施されました。
エキシビジョンマッチの数日前に、サリーが青学の厚木キャンパスに指導に来てくださり、私の学年ともう1つ下の学年のプレーヤーが直接教えていただけるという、貴重な時間もいただきました。この時にサリーからいただいたクロスとボールを今でも大切にしています。

 

 

サリー・ベス・アンダーソン氏が厚木キャンパスへ。
厚木キャンパス近くにある森の里の若宮公園での練習場所で
コーチングを受ける青学女子ラクロスプレーヤーたち
(写真提供:名越氏)

サリー・ベス・アンダーソン氏から寄与された
クロスとボール。
クロスには“日本で初めての女子ラクロスゲーム「AOYAMA」”のサリー氏からの言葉が直筆で刻まれている。
(写真提供:名越氏)
サリー・ベス・アンダーソン氏が来日して1年後に
日本の女子ラクロス選手たちに宛てた書簡
1993年の日本の女子ラクロスがワールドカップ出場することが決定していることもわかる
(データ提供:JLA)

 

赤いタータンチェックのユニフォーム

佐々木さん:1990年代になると女子の間でラクロスがワーッと広がったんですよね。それは、ファッション性というところもあったのかもしれません。青学女子ラクロス部のあの赤いタータンチェックのユニフォームは伝統的で、かっこいいと思いました。
名越さん:そう言ってもらえて嬉しいです。1988年に入ってから、学連には、青学、慶應、東京女子体育大学に加えて、聖心女子大学、白百合女子大学、早稲田大学が加盟し、その年の9月の初のリーグ戦開催に向けて各大学のユニフォームを決めることになるんです。『Men‘sClub』に掲載されていた「白いポロシャツと赤いタータンチェックのスカート」の写真を見た時から、「ユニフォームにするならこれ!」とずっと思い描いていたので、「青学のユニフォームは白いポロシャツと赤いタータンチェックのスカートにします!」と一番先に名乗りを上げ、青学のユニフォームに指定しました。
佐々木さん:あの青学のユニフォームに憧れてラクロスを始めた人、多いんですよ。
名越さん:でも最初は全員分を揃えられなかったんです。だから似たような柄を各自がそれぞれお店で探してきて(笑)。よく見ると、チェックの柄がひとりひとり違うんですよ。
そして実は、1989年の第1回国際親善試合では、青学のユニフォームが一番素敵だという意見が多かったことと、初代全日本選抜女子メンバー24人のうち11人が青学生だったこともあり、女子日本代表チームのユニフォームは、この青学のものを貸し出しして、着用したんです(笑)。

 

最初の青学女子 兼 日本代表女子のユニフォーム
(写真提供:名越氏)

 

佐々木さん:ラクロスは、ユニフォームの繊細なデザインにこだわっているところがあります。今でも、各大学に登録してもらう時に、ユニフォームのかっこよさというのをJLAはすごく意識しています。
────現在の青学ラクロス部の緑×白のユニフォームからは想像しづらく、今の学生たちからすると赤×白のユニフォームだったことは驚きかもしれませんね

 

国際親善試合

────1989年に初めて海外からチームを呼んでラクロス国際親善試合が開催されていますね
佐々木さん:JHUから60余人の代選手団とそのご家族、豪州のナショナル・チームの20人、そして米国セントポール高校から男女ラクロス選手40人が来日し、約10日間、日本に滞在してホームステイ・親善試合を行いましたね。米国大使館、メリーランド州知事が後援者としてバックアップしてくれ、また、日本の外務省が多大の理解を示してくれました。

 

国際親善試合の後援者となっている
メリーランド州知事からの書簡(画像提供:JLA)

 

名越さん:国際親善試合開催においては、全プレーヤーがプレーするだけではなく、事前準備、チケット販売、当日の会場設置や受付まで、すべて学生で行いました。大学を超えた、ラクロス普及の大きな団結力を感じました。
初めて観客を動員して行った海外チームとの試合は、勝てませんでしたが、ひとりひとりがラクロスの楽しさを爆発させているような、そんな試合でした。
午後になるにつれ、スタンドに観客が増えていくのを見て、いつか、こんな大きなスタジアムの観客席を、ラクロスファンで埋め尽くす日が必ず来る、と熱く思ったのを覚えています。

 

第1回国際親善試合(JHU vs 豪州代表)(写真提供:JLA)

 

佐々木さん:国際親善試合は、“Lacrosse Makes Friends”の象徴的草の根交流イベントとして、これまでに男子ではプリンストン大、ノートルダム大、ノースキャロライナ大、女子ではスタンフォード大、ボストン大、ロヨラ大、英国女子代表等が来日し、今でもエンドーイズムは継承されています。

 

学連総会の開催

────学生の自主運営から学んだことはなんですか
佐々木さん:今から思えば、JLAの学連の活動は、会社経営そのものだったと思います。学生のスタートアップとして、大会・広報・新人の3つの委員会をコアに、大学の垣根を越えた執行部が、自由にブランド価値を創るところが面白く貴重な経験になったと思います。また、“攻め”だけではなく、学連規約策定、予算審議、翌年の学連幹部人事選考等のミドルオフィス・コーポレート機能 (学連を支え、継続していくためのルール作りや組織運営に関わる役割)も、11月学連総会で300人近い会員が一同に集まり民主主義的に議論しました。
名越さん:あの頃の記憶は、とにかく毎日が練習・授業・練習・学連・・・・・・で、詳細の記憶がないのですが、一番覚えているのは、学連総会の最後の方の挨拶で壇上に立った時に、目の前にたくさんの大学の列ができていて、男女のプレーヤーが並んでいるのを見た時に、こんなに多くの人がラクロスを始めてくれたのだと、胸が熱くなって泣きそうになりながらスピーチをした記憶が鮮明に残っています。

 

「Go Forward!」未来志向のラクロス

────どのようにこれらの哲学を残していきたいと思いますか?
佐々木さん:当時の僕たちは「このスポーツをどう普及させるか」を常に考えていました。
エンドーさんは、僕たち学生を連れて企業や大使館を訪ね、また、毎週火曜日の早朝に赤坂の東急エイジェンシーで行われるJLAの役員会にも同席させてくれました。
役員会参加者の多くは当時の日米の企業経営者で、学生の僕たちはその中に混じって話を聞いていました。役員会は英語で進行され、何を言っているのかほとんどわからない(笑)。
でも彼は「本物の現場を見せることが教育だ」という信念のもと、僕たちにその現場を見せてくれました。
名越さん:私も、この役員会にも同席させていただいていましたが、そんな秘めたメッセージがあったんですね! 毎回とても緊張しながら参加させていただいていました。社会人になった今、学生ではなかなか経験することができないような貴重な経験を、本当にたくさんさせていただいていたのだと気づくことが多いです。そして、なによりも私の中で大きな財産になっているのは、真のボランティア精神を重んじ、純粋な草の根の活動を大切にしている熱い想いを、エンドーさんにお会いするたびに伝えていただいたことです。
エンドーさんと共に、最初に発行した『ラクロス通信』第1号のタイトルは、“Lacrosse Makes Friends”でした。エンドーさんに寄稿をお願いしたら、“The Fire Never Die”という言葉を寄せてくださり、
「ラクロスを通じて、共に友情を育み、この灯を絶やしてはいけないよ。この理念の根底にあるのは、真のボランティア精神と草の根交流だ」
と手書きのメッセージで寄稿してくださいました。
佐々木さん:反戦の哲学を持っている人が、スポーツを通して国際交流に人生をかけているという生き様が”The Fire”なんじゃないかなと今では思います。何度も同じ話を聞き、だいぶ刷り込まれましたね(笑)。我々自身も実現していく必要がある社会課題をこのラクロスに込めています。
今、私がラクロスに携わっている理由は、間違いなく、ノリオ・エンドー氏の情熱に共感しているからだと思っています。
ラクロスは、スピードと戦略の“競技性”である一方で、草の根交流と平和への願いの“文化性”を持つスポーツです。
このエンドーさんの哲学、JLAの“文化”―Lacrosse Makes Friends には、すでにそれを継承・発展していく仕組みができていると思います。むしろ、それが時代の動きと共にどう変わっていくのか、7世代先のラクロス選手像はどうなっているのか、を考える楽しみがあると思います。

現在では、日本ラクロスの理念に共感してくださる企業パートナーからの支援も増え、持続可能な体制が少しずつ整ってきています。 それでも、私たちの活動の根底にあるのは“草の根の独立精神”です。支援を受けながらも、自分たちの信念は自分たちの手で守る、この姿勢は、これからも大切に受け継いでいってほしいと思いますね。
名越さん:それは本当に大事なことだと思います。2017年の青学ラクロス創部30周年記念の時に総会で
「ラクロスは、草の根交流を原点に、将来起こり得るかもしれない戦争や経済摩擦を回避する願いが込められたスポーツです。そして、そこには、真のボランティア精神の大切さも強く根付いているスポーツなんです」
と説明したら、学生たちは初めて知ったという感じで、普通にラクロスをスポーツとして始めたという選手が多いようでした。野球等と同じように、今では“珍しいスポーツ”ではなくなってきていると感じることができて、とても嬉しかったです。
青学は、日本女子ラクロスにおいても創成期からの歴史があることもぜひ知っていただき、「青学プライド」を持って、これからのチームにその灯を引き継いでいってくださいね、と皆さんにお話させていただきました。
駅や街中でクロスを持っている子を見ると、親が子の成長を喜ぶような気持ちで、「数あるスポーツの中から、ラクロスを選んでくれてありがとうね」と心の中で感謝とエールをこっそり送っています。
佐々木さん:JLA創成期のJHUの理念とノリオ・エンドー氏の哲学は、何か難しいことではなくて、若いプレーヤーたちが、実体験から簡単に学べることばかりだと思います。ラクロスを通じて、アジア、米国大陸、欧州、アフリカに行って、現地で友人を作る。毎年、各地区で国際親善試合を行い、ホームステイを受け入れる。さらに、全ての大学が4年に一度は海外遠征を経験し、ラクロス留学にも挑戦してみる。また、日本国内においても、大学や地区の垣根を越えて試合を重ね、お互いを知り、仲間になっていく。そうしたひとつひとつの経験へとつながる筋道と機会を作っていくことこそが、我々の役割だと思っています。実際に海外の同世代の人たちとラクロスをすると、ワクワク感が自然と心の中らか生まれてきます。ぜひ、この経験を全国のメンバーの皆さんに体験してもらいたいと思っています。今日はありがとうございました。

────お二人とも、お忙しい中、貴重なお時間、そしてお話をいただき、ありがとうございました。 ノリオ・エンドー氏が、ラクロスを通して、当時の若者たちに託した平和への想いが深く心に響きました。

 

 

最終回で、また「未来へのメッセージ」としてご登場いただき、今回の取材の後半部分をご紹介させていただく予定です

 

Profile プロフィール

佐々木 裕介
■公益社団法人 日本ラクロス協会 理事長・代表理事
1986年慶應義塾大学入学後、日本で最初のラクロス部創設メンバー。88年日本学生ラクロス連盟創設、委員長。89年米国ジョンズ・ホプキンス大留学、ラクロス部学生マネージャー従事。90年NCAA(全米大学体育協会)1部全米大学選手権準優勝。その後、JLA国際分野を担当、2018年一般社団法人JLA理事⾧。

■アセットマネジメントOne㈱常務執行役員/同オルタナティブ インベストメンツ㈱代表取締役社長
1991年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本興業銀行入行(総合資金部、シカゴ支店)。2002年からみずほフィナンシャルグループで資産運用業務に長く従事。2022年から現職。

 

Profile プロフィール

名越 美恵
■弁護士法人 龍馬
1987年青山学院大学入学後、同大学女子ラクロス部を創設。88年日本学生ラクロス連盟初代大会委員長。89年初の女子日本代表チームのキャプテンを務める。
1991年青山学院大学法学部卒業後、三井生命保険㈱入社。子育て後、現在まで弁護士法人龍馬において秘書業務に従事。心理カウンセラー。

 

※本サイト掲載の写真および文章について、無断転載・転用を禁じます。