「特色ある伝統の創始者」元初等部部長 伊藤朗先生を追悼して
2021/06/04
青山学院初等部部長を1970年から3期務めた伊藤朗(いとう あきら)先生が、2021年5月26日、逝去されました(享年96)。慎んで哀悼の意を捧げます。
伊藤朗先生は、1925年4月生まれ。同志社大学神学科卒業、同大学院神学研究科修士課程修了。1952年に青山学院初等部教諭に就任されました。
1970年4月から3期12年に亘り初等部部長を務め、特色ある教育・行事などを創始。現在の青山学院初等部の礎を築き上げました。
一方で、1950年ラジオセンター設立、1951年財団法人文化放送協会(現・文化放送)設立、1957年日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の設立に関わり、株式会社日芸代表取締役を務めるなど、異色の経歴をもっています。
世界は教場であり
学校とは建物ではなく
先生と生徒である
教育とは教えることや教えられることではなく
一つの出会いでありチャンスである
先生とはリーダーのひとりであって
学校以外にもリーダーはいる
これが伊藤先生が掲げた教育に対する思想でした。
『信仰の盾にまもられて 青山学院初等部五十年のあゆみ』(青山学院初等部 1987年)で伊藤先生は次のように述べています。
「子どもの教育は家庭でも、社会でも行われなければならないし、けっして学校だけがひとりじめにするものではないのである。学校以外のところで学びとったものが、学校教育の中で十分に生かせるのであり、学校は子どもたちに時間を返すことによって、子どもが自ら学ぶという学習態度が身につくのである。我々はもう“小人閑居すれば不善をなす”(注:「つまらない人間が暇でいると、ろくなことをしない」の意味)との妄想から解放されなければならないのである。(中略)学校とは、たんに教えたり、教えられたりすると言うよりむしろ児童に動機づけをするところ、チャンスを与えるところであり、それをきっかけに興味をもった子ども自らが学んでいくところとなるのである。そのとき学校はまさしく先生と子どもとの出会いの場となるのである。そこで真の人間教育、感じる教育、考える教育、行動する教育を実践したのである。」
「青山学報」91号(1978年12月)では『21世紀の子供たち -世界のコーディネーターとして-』と題した座談会を行っています。世界のコーディネーター=世界を調整していく者を育てていく、という教育について、そして「個人の能力を充分に教育(引き出せる)出来る体制を確立すべき」と語っています。
「青山学報」99号(1980年7月)の『初等部10年の歩みとこれからの教育を夢みて』の中に記載された「10年のあゆみ」には、伊藤先生が創始した数々の行事が紹介されています。それらは今も脈々と続いている、初等部の特色ある行事です。
※下線部分から初等部ウェブサイトの紹介ページへリンクします。
●アオガクプラスの行事紹介特集ページ(動画あり)へ
8泊9日、船を1隻丸ごとチャーターしての船旅。海に囲まれた島国日本に住む者として“海を知る”、6年生の行事です。それは“遊覧船”や“豪華客船の旅”を想像するかもしれませんが、全く違います。ときに荒海の中、船酔いと闘いながら、船のクルーとしての活動を行い、美しい海の自然と厳しさを学び、さらには寄港地での地元の方々と触れ合い、人々の生の生活を見て知り、その土地の文化・歴史を学習する旅なのです。先生や大学生のアシスタントリーダーたち、船員さんたち、旅で出会う方々を師として学び、わずか9日の間に、児童たちは一回りも二回りも成長して帰ってくる、厳しくも、成長を促す行事なのです。先生方にとっても、かなりの苦労と負担を伴う行事でもありますが、児童にとって、卒業後、最も思い出に残る行事の一つなのです。
「どうして同じ場所で毎年毎年三学期を迎えなければならないのだろうか。真白い雪野原で子どもたちと一緒に学校生活ができたらさぞ素晴らしいだろうな」という伊藤部長の提案で実現した行事。3~6年生全員と教職員が5泊6日で、長野県の黒姫高原にまるごと学校を引っ越す、という大行事。先生方の苦労がしのばれますが、夢物語のような話を実現させ、さらには今日に至るまで継続していることに感嘆の念を覚えます。
生活する中で、雪はやっかいな存在です。歩くスピードも遅くなり、行動に制限がかかります。その苦労を子どもたちにさせる。
1.教育の場として子供たちにチャンスを与える。都会では求められない体験をさせたい
2.スキーは“レジャースポーツ”ではなく、“より深く自然に入るための歩く道具“と捉える
3.縦割り班で行動し、上級生が下級生の面倒を見る
これらを目的に始まり、4年ごとの見直しを行いつつ、現在に至っています。
週5日制教育の導入について、当時「週刊朝日」(1973年5月4日)から取材を受け、伊藤先生が応えている記事を見つけました。
同誌によると、それまで土曜日を登校日としてきた小学校は、年間約240日が登校日でした。それに比し、ソ連(当時)で200日、フランスやアメリカで170日でした。そこで始まったのが週5日制の導入。これも伊藤先生が1972年より取り入れ、年間186日の登校日としました。公立学校ではまだ1校も採用していない時代、と書かれていました。
授業時間数が減るため、教師間で研究・対策を図り、一つ一つの授業の精度をあげ、カリキュラムも新しくするなど、青山学院初等部独自の教育体制を築き上げます。そして子どもたちに自分の時間を少しでも多くもてるように、自主的な休みの過ごし方を学ばせることを目的としたのです。「何事も人任せで余暇の過ごし方を知らない人間が多い中、一人一人が楽しめる人間を育てたい」と同誌の中で伊藤先生は述べています。
ご紹介したほかにも、「海の学校」や「木曜ランチョン」など、様々な特色ある取り組みが始まりました。伊藤先生は1991年3月に定年退職されましたが、今も、子どもたちの成長を促す行事・取り組みとして、先生方の想いをのせて受け継がれているのです。
私も2011年から5年間、初等部事務室で勤務したことがあり、毎年初等部のロビーに、由緒あるひな人形と、五月人形の飾りつけをするために伊藤先生が初等部を訪ねられて、我々にそのご指導をされていたお姿を思い出し、かつての同僚の藤森さん(現・大学学術情報部情報学習課長)とその思い出話に花を咲かせました。その当時、“生きた伝説”と、畏敬の念をもって接したことを思い出しました。
伊藤先生によって蒔かれた種は、今や隆々とした大木となり、そこかしこに、様々な花を咲かせています。その花々は、個性豊かに、力強く輝き続けています。
〈参考文献〉
・「青山学報」91号 1978年12月発行
・「青山学報」93号 1979年5月発行
・「青山学報」99号 1980年7月発行
・「青山学報」103号 1981年5月発行
・「教育はチャンスである」初等部学校案内1978-1979 1978年 青山学院初等部
・『信仰の盾にまもられて 青山学院初等部五十年のあゆみ』1987年 青山学院初等部
・「週刊朝日」1973年5月4日発行号
ほか
〈協力〉
初等部事務室