津田梅子の父、津田仙と青山学院
2019/04/27
財務省が2019年4月9日に発表した2024年度からの新紙幣への刷新。5千円札の肖像画には津田梅子が採用されました。我が国における女性の高等教育の先駆者として活躍した津田梅子。その彼女の父の名は、津田仙。満6歳の娘・梅子を岩倉使節団(1871~1873)の留学生募集に応募し、渡米させたことが、その後の梅子の人生を決定づけたと言えます。
この津田仙が、実は青山学院の創設に大きく関わった人物であることをご紹介したいと思います。
氣賀健生青山学院大学名誉教授(故人)が記した書籍『青山学院の歴史を支えた人々』には37人の人物が紹介されており、その中で3番目の人物として津田仙を取りあげています。
『津田仙の名を知る人は少ない。(中略)しかし彼の生きた明治期には、官界から外交、実業、農業畑、教育、宗教界から社会事業界に至るまで、津田仙の名は広く知られていたのである。(中略)彼は生涯その身を飾る何の称号をももたなかった。ごく若い時代を除いて終生在野の「平民」であった。しかし、豪放磊落にして義侠肌、直情径行にして天真爛漫、その行動力は群を抜き、巨躯をひっさげたその姿は至るところに見られ、情深く涙もろく、畏敬をもって人に頼られる「大平民」であった。』と紹介しています。
氣賀名誉教授の同著書より要約してみます。
『津田仙は、佐倉藩士の子として1837年に誕生。蘭学・英学に没頭し、1861年幕府の外国方奉行通弁役として仕官、1867年には幕府の遣米使節の通訳として渡米。アメリカで、男女平等と農業重視の世界を目の当たりにし、この経験が後の仙を形作ったと言えよう。
帰国後、明治政府が作った「築地ホテル」の理事や、北海道開拓使の嘱託、青山の開拓使農事試験場で農事研究に携わり、西洋野菜の栽培を手掛けるなど、日本に於ける近代農業の先駆者として活躍した。
(広報部注:この農事試験場は、まさに「国産ビール開発にかけた情熱 ~ 青山キャンパス秘史」でご紹介した農事試験場でした)
また、明治初期のキリスト教主義学校の創立に数多く携わっている。その中でも中心的に関わった学校は、同志社、普連土女学校、東京盲唖学校、そして青山学院である。新島襄と親しく、仙の長男の元親は同志社に学んでいる。普連土女学校の開校時の仮校舎は、仙の自宅内に建てられた。
キリスト教界においても足跡を残しており、1878年に開催された第1回全国基督教徒大親睦会という明治期のキリスト教史上重要なイベントにおいて議長を務めている。
青山学院の創立にも深く関わった。梅子が渡米した際に寄宿した先がチャールズ・ランメンという人物で、その友人であったジュリアス・ソーパーが、アメリカのメソジスト監督教会が日本に派遣する宣教師5人の内の一人として日本に来る際、梅子の父親を手掛かりにしたことがきっかけであった。
ソーパーの影響を受け、仙は受洗し、キリスト教徒となる。仙はソーパーを助け、1878年4月16日、東京築地に「耕教学舎」を設立。青山学院の源流となる三つの学校のうちの一つを創設した。その後、ほかの学校と交わり、初期の青山学院を形成していくが、その基礎作りには、仙が中心的役割を果たしていた。』
また、明治初期の頃の啓蒙的思想集団「明六社」にも名を連ねています。福沢諭吉、西周らは有名ですが、津田仙の名前はあまり後世に耳にしません。
さらに、足尾銅山鉱毒事件においても、田中正造を助け、八面六臂の活躍をした、と気賀名誉教授は記しています。
青山学院の源流となる三つの学校のうちの一つ「女子小学校」をドーラ・E・スクーンメーカーが創設した際、教室として津田家の隣の岡田邸を斡旋、その岡田邸売却後は、一時津田家の客間を貸しています。「女子小学校」とはいうものの、仙の息子二人も入学させ、スクーンメーカーを大いに助けています。
このように津田仙は、青山学院の創設時に深く関わったのみならず、明治の偉人たちとともに、教育、農業・農民、キリスト教をキーワードとした分野を中心に、開国後の日本の道標として、名は知られない「大平民」として、サーバント・リーダーとして活躍された偉大な先人であったことがわかります。
津田仙は、1908年4月24日、東海道線の汽車の中で脳溢血で倒れ、帰らぬ人となりました。4月28日に、青山学院講堂において葬儀が営まれました。
青山霊園に眠るその墓碑には次の聖句が刻まれています。
「我を信ずる者は死ぬとも生きん」(ヨハネ傳福音書11章25節)