Story ストーリー

フジコ・ヘミングさんのご逝去を悼んで

フジコ・ヘミングさんが2024年4月21日にご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。

フジコさんは、青山学院初等部の前身である青山学院緑岡小学校に入学され、青山学院女子高等部を経て、東京藝術大学に進まれました。
女子高等部在学中の17歳の時、ピアニストとして、コンサートデビューを果たされます。
その後、国内で数々の賞を受賞され、ドイツへ留学。その才能をレナード・バーンスタインに見いだされます。
ところが、ウィーンでのリサイタル直前に、風邪による高熱が原因で聴力を失うというピアニストにとって致命的なアクシデントに遭遇されます。

転機が訪れたのが、1999年2月に放送されたNHKドキュメント番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」でした。大反響を呼び、その年から本格的なコンサートを日本各地で行ってきました。

今から23年前。
フジコさんには、青山学院の全卒業生(校友)の方々に郵送でお届けしている「あなたと青山学院」の前身にあたる「青学チャイムズ」VOL.2(2001年12月発行)にご登場いただいています。
故人を偲び、哀悼の気持ちを込めまして、2001年10月にインタビューさせていただいた「青学チャイムズ」の記事をご紹介いたします。

最後に、その時インタビュアーとしてフジコさんのお話をうかがった平野京子さんの言葉を掲載いたします。

 

「青学チャイムズ」VOL.2(2001年12月発行)インタビュー

 

フジコ・ヘミングさんプロフィール

本名:ゲオルギ―・ヘミング・イングリット・フジコ Ingrid Fujiko v.Georgii-Hemming
東京音楽学校(現・東京藝術大学)出身の大月投網子とロシア系スウェーデン人の画家・建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングを両親としてベルリンに生まれる。5歳で帰国して以来、母の手ひとつで東京に育ち、10歳でレオニード・クロイツアーに師事。青山学院には緑岡小学校(後、緑岡初等学校)から女子高等部まで在籍。女子高等部在学中の17歳の時にコンサートデビューを果たす。東京藝術大学を経て、NHK毎日コンクール音楽賞、文化放送音楽賞など多数受賞。渡辺暁雄指揮による日本フィルハーモニー交響楽団等との共演、来日中のサンソン・フランソワに絶賛される。
29歳でドイツへ留学。ベルリン国立音楽学校を優秀な成績で卒業し、ウィーンのパウル・バドゥラ=スコダに師事。20世紀最大の作曲家・指揮者の一人といわれるブルーノ・マデルナのソリストとして契約。その才能をアメリカの音楽家レナード・バーンスタインに激賞される。
しかし、ウィーンでのリサイタルの直前に、風邪による高熱が原因で聴力を失うというピアニストにとって致命的なアクシデントに遭遇。すべてのコンサートをキャンセルした。
その後、ストックホルムにおいて耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を取得、ピアノ教師を続けながら、欧州各地で演奏活動を行う。
1995年に帰国。母校東京藝術大学旧奏楽堂でコンサートを行う。
1999年2月、NHKドキュメント番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」は大反響を呼んだ。同年10月に東京オペラシティーでのリサイタルを皮切りに日本での本格的な演奏活動を再開した。2001年6月にはニューヨーク・カーネギーホールでリサイタル、9月にはプラハでコンサートを行い、大成功を収める。10月から年末まで日本全国でチェコ・ナショナル交響楽団と共演によるコンサートツアーが行われている。

 

インタビュー

[聞き手・文] 平野 京子 本部広報室(当時)

10月中旬、秋の気配につつまれた芸術の森・上野東京文化会館大ホール。その日もフジコ・ヘミングのピアノを聴くために集まった2300人もの人たちで、コンサートホールは埋めつくされていた。
演奏終了後、満場の拍手の渦をあとに、楽屋に戻ってきたフジコさんは、まだ興奮が冷めやらない紅潮した笑顔で、楽しそうに語ってくれた。なつかしい緑岡小学校時代の想い出、そして、初めてコンサートに出演した女子高等部時代のことなど……。
その横顔はまるで少女のようにあどけなく、美しく輝いていた。

──今日の演奏も迫力があり、とても素晴らしかったです。演奏を終わられた今のお気持ちはいかがですか。
(歌を口ずさむように)もう、天にも昇ったような気持ちです(笑)。今日の演奏は成功でした。でも、時々こわくなると、お祈りをしたんです。そうすると、うまくいくんです。

──フジコさんはリサイタルも多くなさっていますが、今日のようなオーケストラとの共演では、心構えや神経の使い方なども違うものなのでしょうか。
一番違うのは、今回も80名以上のチェコ・ナショナル交響楽団と共演しているのですが、オーケストラと共演すると、世界に出るチャンスに早く恵まれるんです。9月のプラハでの演奏会は大成功でしたけどね、すぐに次の演奏会をしてほしいと反応がありました。一人でやっていたのではそういうわけにはいかないですね。

私も若ければ、のんびりとやってもいいんだけれど、あと10年か20年しか弾けないから、早くやらないとならないじゃない(笑)。だから、なるべくなら近道を選んでいます。あさってはドイツ人の指揮者だけど、失敗したらドイツに連れて行ってもらえないもの(笑)。

──リサイタルの楽曲は、どのようにして決められるのですか。
自分で決めています。あまり難しい曲ばかりだと、お客さんにわかりづらいから、1曲ぐらいは難しいものを入れても、あとは馴染みやすい曲を選ぶようにしています。

──今年は6月にニューヨークのカーネギーホールでリサイタル、また、9月にはプラハでオーケストラとの共演によるコンサートをされて、いずれも大成功を収められたとお聞きしていますが、海外と日本とでは聴衆の反応は違いますか。

日本の方はおとなしいですよね。聞くところによると、イタリーなどでは、オペラ歌手の調子が悪いと、客席から卵をぶつけたりするそうです。「わかってるぞ」って示すためにね。とても厳しいですよね。日本ではこういうことは決してないですね。でも、失敗してしまったときにはさすがにシーンとしてますよね。ニューヨークの場合は一曲弾くごとに、「ワーッ!」とか「ヤーッ!」とか反応がすごいですよ(笑)。

──フジコさんご自身は、そういった反応が気になるほうですか。
そうでもないですよ。むしろ私としては、静かな曲が続くときには、その度ごとの拍手ではなく、全部弾き終わってからのほうがありがたいですね。

──アンコール曲のときなど、舞台で少しお話しされることがありますが、すごく雰囲気が和みますね。
そうそう、私がなにかしゃべると、みんなが喜んでくれるから、それで、心掛けています。しゃべり方がおもしろいんじゃないかしら(笑)。最近はトークをしてほしいという仕事も入っています。

 

青山学院時代を振り返れば、やはりあの小さな礼拝堂が懐かしい!

(ベリーホールのチャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂の写真を見ながら)この小さな礼拝堂には、今でも時々足を運んでいます。女子高等部時代にここで礼拝をして、オルガニストの先生がお休みすると、私が讃美歌の伴奏をしたものです。想い出がいっぱい詰まっていて、とても懐かしいですね。今も入るたびに感激しています。
初等部の頃には、英語を教えてくださった外国人宣教師の家が、運動場のまわりに並んでいて、よくその辺りで遊んだものです。

──その頃はどのようにして通っていたのですか。
渋谷区神宮前に住んでいたので、表参道を歩いて通っていました。
表参道も、あの頃は今みたく賑やかじゃなくて、人が5人も歩いていればいいほう。ケヤキの香りがプーンとしてね。

学校の帰りは東門を出て、青学会館の横を通ると、高等部の男子学生が寄宿舎から着物を着て出て来たりしていました。

このあいだの会報「さゆり」で、昔の学院や渋谷の様子が書かれたものを読んだのですが、忠犬ハチ公がベンチの下で寝ていたなんて話が出ていて、すごくなつかしい思いをしましたね。私は、母が若かった頃の時代がとても好きなんですよ。

──初等部へは、お母様の薦めで入られたのですか。
うちの母は、ピアノ教師をしながら、女手一つで私と弟を育ててくれましたから、子どもを青山学院に入れられるほどお金持ちではなかったんです。でも、ハーフということで、公立の小学校ではいじめられるのではと心配して、母の実家が学費を出してくれて、初等部に入学出来ました。そのことは母にとても感謝しています。

当時、私のほかにもイギリス人や中国人の子どももいて、米山梅吉校長先生が時々お教室にみえて、私たち外国人の頭をなでてくれて、とてもやさしくしてくださいました。クラスの人も育ちのいい教養のある人が多くて、私はとても幸せでした。

制服も大好きで、特に夏になると白い制服に衣替えするときの、あのすがすがしさは忘れられないですね。

 


右から2番目こちらを見ている女の子がフジコさん

 

──初等部3年生の時に、はじめてNHKラジオに出演され、ピアノを弾かれたんですね。
あの時のことは、曲目以外はまったく覚えていませんけどね。ただ、当時は録音というものがなかったから、生放送でしょ。とにかく間違ったら大変なんだけれど、間違えないで弾けたから、ほんとうに不思議ですよね(笑)。

──お母様のピアノのレッスンは厳しかったのですか。
いつも逃げ回っていました。弾きたくもない曲を無理やり「弾けっ」てね。弾けないと「なぜ弾けないのか」ってね。「バカ、バカ」なんて、一日に20回くらい言われて、いつも劣等感をもっていました。

だから、私がドイツで15年間ピアノの教師をしていたときは、決してそういう教え方はしませんでした。

学校もそうだけれど、生徒を機械みたく扱うのはいけないんですよ。一人ひとりに個性があるんだから。

──「いままでの人生において、何度も聖書の言葉によって助けられた」と本にも書かれていますが、それは幼い頃、青山学院で教育を受けられたことが影響しているのでしょうか。

青山学院での影響は大きいと思います。

青山学院で一番素晴らしかったと思うのは、道徳教育ですよね。食事の前にお祈りをしたり、そういう習慣が心を育てるのだと思います。

女子高等部時代には、なんか世の中がおかしいと思い始めたんですよ。というのも、初等部の頃から戦争の影響で、鬼畜米英なんて言われたりして、世の中いったいどうなっているのか知りたいと思ったんです。私、アメリカ人やヨーロッパ人が大好きですし、私自身ハーフですから。

それで、数学なんかは大嫌いだったけれど、旧約聖書と新約聖書を全て読んだんです。とても納得したし、感激もしました。哲学だと思いましたね。

 


女子高等部時代。右がフジコさん

 

──女子高等部の頃、コンサートデビューをされましたが、もうそのときにはピアニストになろうと決めていたのですか。
まだ、その頃は子どもでしたからね。世の中がおかしいなんて思って聖書を読み始めた頃だから、自分のことなんかわかりませんでした。天才だか凡才だかもわからなかったしね。

モーツアルトだって、そうだったんじゃないかしら。自分の才能に気づかないで、拍手されたって「みんなが自分の服をほめてくれた」って言って喜んでいたらしいから(笑)。

 

永遠の恋人バーンスタイン

──芸大卒業後、29歳でベルリンに留学されたときには、日本では経験できない様々な経験をされたと思いますが。
ピアノに関しては、日本で10歳の頃からレオニード・クロイツアーに習っていましたから、留学先に彼ほどの大物がいなかったという点ではがっかりしました。でも、学校の講堂でベルリンフィルとカラヤンが定期公演をやっていて、学生は毎月無料で聴けるんです。それは貴重な経験でしたね。

ある日、カラヤンが指揮を終えてすぐに、客席の私の目の前にやって来て、穴があくほど見つめられたことがあってね。もう、恥ずかしくなっちゃって。彼もいつか私が世の中に出るだろうということを感じていたのかも知れないわね。

そんなこともあり、チャンスもあったけれど、彼の前ではピアノは弾かなかったの。そのことは後悔はしていません。それは彼が無名の人間を引き上げてくれる人ではないことを、まわりから聞いて知っていたから。

でも、バーンスタインは違っていました。彼には困っている人を救ってくれる、神様のようなやさしさがありましたね。

──すてきな人に出会い、すてきな恋を経験されてこそ、フジコさんのピアノのような、情感豊かな人間味あふれる演奏ができるのだと思いますが、やはりフジコさんの永遠の恋人は、バーンスタインでしょうか。
そうね、やはりバーンスタインですね。彼が、音楽の面でも、人間的にも尊敬できるすばらしい人でした。

実は、6月にカーネギーでのリサイタルのためにニューヨークに行ったときのこと。たまたま滞在したホテルが、バーンスタインの最後の家だったところの目の前にあって、そこはジョン・レノンもかつて住んでいて、その家の前で射殺されたところなんだけど、そのホテルで、リサイタルの数日前にバーンスタインが夢に現れたの。

なんと、私のベッドに彼が大の字になって寝ながら、「オォー、俺は疲れた!」って言ってるのよ(笑)。私が隣でドキドキしていると、まわりには女性の友達が5、6人いて、「なによ、あなた素顔じゃないの、もっとおしろいつけなさい」なんて言ってるのよ。そのうちに目が覚めちゃったんだけど、たとえ幽霊でも、彼が出てきてくれてうれしかったわ(笑)。

──カーネギーの大舞台を目前にして、夢に現れるなんて、やはりバーンスタインは常にフジコさんにとって心の支えなんですね。
そう、そうなの。カーネギーで弾きながら、それはもう、すごくこわかったですよね。だから、心の中で、「どうか、バーンスタイン、助けて、助けて」って、祈ってましたもの。

 

音色にこめた想い

──以前、ピアノの弾き方について、「ひとつひとつの音に色をつけて弾く」と仰っていましたが、独特の音の出し方については、意識的にされているのですか。
ドイツの新聞に初めて批評が出たときに、ほとんどの批評家が私の音をほめてくれたんですよ。その音色にびっくりしたってね。例えば、ドビュッシーのときにはその色合いを薄くしてあるとかね。私はよけい音色を大切にしているんです。テクニックよりもね。

テクニックなんていうのは、疲れていればだめだし、テクニックが得意な人は大勢いるから、そんな人たちと競争してもしかたないしね。それよりも自分の得意な部分を強調して弾いています。

──テクニックに関しては「間違えたっていいじゃない。機械じゃあるまいし」というフジコさんの言葉が、とても印象に残っているのですが。
例えばワイングラスでも、チェコからくる手作りのものは一本ずつ線を描いているから、その太さには多少違いがありますよね。でもそれが味わいになる。機械で作ったものはすべて線が同じで一見美しいけれど、だたそれだけで、なにも味わうものが感じられません。

ピアノも同じで、間違えのないものを求めるのなら、機械ピアノでいいのよね。それよりも、どれだけ味わい深い音色を出せるかということのほうが、ずっと大切だと思います。

──フジコさんは「ラ・カンパネラ」や「ハンガリアンラプソディー」などの超技巧的でドラマチックな曲と、「月光第一楽章」や、ショパンの「ノクターン」などのしっとりとしたロマンチックな曲と、どちらも得意としていらっしゃいますが、ズバリお好きな曲はどんな曲ですか。

どれも、とても好きです。
ショパンの「ノクターン」については、1988年にある人から、ロシア人の大家でその人の門下生はみんな世界的なコンクールで1位か2位になっているというすごい人なのですが、その大家に聴いてもらいなさいと言われて、若い人たちと一緒に講習を受けたんです。

そこで、ショパンの「ノクターン」を弾いたら、その先生が、5分ほどのあの一曲に、「20タウゼントマルク(日本円で約150万円)の価値があります。フジコさんのが一番です」って言って、褒めてくれたの。もううれしくって、私は水を得た魚のように弾きましたね。

でも、そのあとも、10年間も無名の状態で、日々の生活費を心配するほどの貧乏生活が続きましたけれどね。

──1999年2月に放送されたNHKドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」は、フジコさんにとって一大転機となるわけですが……。
それまでは、私の出番は天国だと思っていました。

NHKの方も、あれほどのことになるとは思っていなかったし、私自身も、番組を見ていて、なんて変な声で出てしまったんだろうと恥ずかしく思っていたんです。そうしたら番組が終わったとたん、NHKじゅうの電話が鳴り始めたそうです。その反響を聞いて、ほんとうにうれしかったですね。

──番組のはじまりは「ハンガリアンラプソディー」でしたね。曲をバックにフジコさんの不遇な半生が紹介されて、なんて数奇な運命なのだろうと思いました。フジコさんが奏でる「月光」や「ノクターン」そして「ラ・カンパネラ」を聴いて、感動で涙があふれてきました。
あの番組を見て、多くの人が「よかった」って、感想を言ってくれます。普通、ピアニストは裕福な環境のなかで、苦労することなく先生について習い、時間とお金をかけてテクニックを磨き上げて有名になっていく人が多いですが、私の場合は、まったく違いますから。その部分もあるんでしょうね。

──フジコさんの心の支えのひとつに、一緒に暮らしている猫や犬たちがいますね。
人間っていうのは、言葉で人を傷つけたり、繊細ではない面があるじゃないですか。でも、動物はしゃべれないし、人を傷つけることがないですよね。ほとんどが捨てられていたのを拾ってきた猫や犬ですが、一緒にいると心が癒やされます。

 

 

──今年の10月から年末にかけては、演奏会のスケジュールがとてもハードですが、体調はいかがですか。
体調は大丈夫ですよ。毎朝、お茶漬けを食べるの。夜はジャガイモのお味噌汁ね。そんな質素な食事でも、耳以外は病気をしたことがないです。

──フジコさんの演奏をライブで聴けるのはとてもうれしいのですが、コンサートのスケジュールがハードなので、お身体にさわらなければと思います。ファンとしては、ずっと弾き続けてほしいと思いますので。
私も今まで、あまりにも苦労したから、長生きして人生を楽しみたいと思っていますし、そのためにも健康でいたいと思っています。

──青山学院の校友・学生・教職員の中にも、フジコさんのファンが大勢います。フジコさんの素晴らしい演奏を聴きたいし、また、ずっと応援していきたいと思っています。ツアーが終わって、少し時間にゆとりができましたら、ぜひ母校でのリサイタルを実現してほしいと願っているのですが。

みなさんが応援してくださり、望んでくださるのでしたら、ぜひやりましょう。そのときには、音響効果の良いピアノを用意してくださいね(笑)。

 

人の心に届く音楽には、演奏者自身の人間性が大きく影響する。フジコ・ヘミングの弾く「ラ・カンパネラ」には、聴く人の心にうったえる何かがある。それはきっと、彼女の人生そのものなのだろう。
「ラ・カンパネラ」……イタリア語で“鐘”。
人生のいろいろな場面で鳴り響く教会の鐘をイメージしてリストが作ったといわれる超難曲であり、フジコ・ヘミングがもっとも得意とする曲でもある。
時代と境遇によって国籍を失い、避難民としてやっと果たしたベルリン留学。貧困の日々、バーンスタインの支持を得て、実現するはずだったウィーンのリサイタル。しかし、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、ピアニストとして世に出るチャンスを失う。その後、必死の治療にもかかわらず、結局左耳の聴力が40%回復しただけ。そんな彼女に残された道は、異国の地でピアノ教師として日々の生活を過ごすことだった。
いま、長い年月を経て、ようやく光を浴びた一人のピアニストは、演奏家としての情熱と、人としてのやさしさを込めて、「ラ・カンパネラ」を奏で、私たちに勇気と感動を与えてくれる。

「青学チャイムズ」VOL.2(2001年12月発行)より転載(一部除く)

 

青山学院で実現したコンサート 2006.4.15

2006年4月15日、青山学院講堂にて、フジコ・ヘミングさんのピアノコンサートが実現。抽選で選ばれた約1700人の聴衆の前で全19曲も披露してくださいました。
「ラ・カンパネラ」の演奏が終わると拍手が鳴りやまず、「会場全体がその拍手で揺れるような感じさえいたしました」と記録されています。

(「青山学報」216号(2006年6月発行)より)

※チケット収入は全て、青山学院へご寄付いただきました。

 

 

平野京子さんからのコメント

今朝、フジコさんがお亡くなりになったとのニュースを見て、残念でなりません。
2023年のコンサートがキャンセルされていたので、ご体調を心配しておりました。
2022年12月に伺ったのが、私にとっては最後のコンサートとなってしまいました。
そのときも手と足がしびれていると仰っていて、アンコールでは、「無理なさらないで」と心で念じるほど心配なご様子でしたが、1曲「トロイメライ」を弾いてくださいました。
これまで長い間演奏し続けてくださったことに心から感謝しています。
インタビューは、広報室に所属していた当時の2001年、校友会と共同で制作していた「AOGAKU Chimes(アオガク チャイムズ)」の企画として提案し、元さゆり会会長で同誌の企画委員をされていた綿引静枝先生にご相談したところ、教え子だったということもあり仲介していただきました。お耳が聴こえにくいことからFAXでご連絡したところ、インタビューを快くお引き受けいただけることになりました。
ご本人からお気に入りのお写真もご提供いただきました。
私にとって一番の思い出に残る、ありがたいインタビューだったと思っています。
フジコさんは動物愛護にも、とてもご尽力されていました。コンサートもそのためになさっていたと聞いております。
天国への虹の架け橋で、たくさんの犬や猫たちに導かれながら、安らかな旅立ちをされたことと想像します。もしかしたら天国でも「ラ・カンパネラ」を奏でていらっしゃるかもしれませんね。
心より哀悼の意を表し、天での平安をお祈り申し上げます。

 

〈協力〉
・資料センター
・校友センター

 

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