Interview インタビュー あおやま すぴりっと

考える力、切り拓く力をこの先も育てていきたい〈校友・名取裕子さん〉

大学文学部日本文学科1年のときに芸能界デビューして以来、長きにわたって芸能界の第一線で活躍されている名取裕子さん。

多数の作品に出演される一方、美しい日本語を世に送り出したいと、現在は朗読劇の制作も手掛けるなど、新たな試みにも精力的に取り組まれています。

今回は同級生である鵜飼眞常務理事との対談で、懐かしい思い出話から俳優としての日々、そして「青山学院150アンバサダー」として青山学院と在校生たちに期待することまで語っていただきました。

(2024年4月29日インタビュー)

 

[聞き手]
青山学院常務理事 鵜飼 眞 UKAI Makoto

 

高校で古典の楽しさを知り日本文学科へ

──名取さんは幼少期、どんなお子さんだったのですか。
いつも2つ上の兄の後ろについて、兄の友達と一緒に虫や魚を捕って泥んこになって遊んでいるような活発な子どもでした。中学生になったセーラー服姿の私を見た兄の友達が「弟じゃなくて妹だったのか」と驚いていたほどです(笑)。中学ではテニス部に入りましたが2年のときに母ががんで他界したので、家事もよくやっていました。母は「一生懸命勉強して国立の大学に進学して」といっていましたが、私は、今でいう客室乗務員になりたいとか海外に行きたいとか思っていましたね。

──高校は進学校として有名な神奈川県立厚木高校に進学されましたね。
勉強では古典がとても好きになりました。古文は掛け詞や係り結びなど言葉遊びがすごく面白いし、季語も多彩。日本の言葉ってこんなに美しいのかと高校時代に実感しました。現国の先生にも恵まれ、現代語の優れた小説などをたくさん読ませてくれました。高校2、3年の頃は、年間300冊は文庫本を読むほど読書好きだったので、堀口大學訳の『ヴェルレーヌ詩集』を読んで、日本語に訳されていてもその日本語が難解でよくわからないから、そこから自分なりに考えて意訳したりするのが楽しかったですね。日本語の心地の良いきれいな響きにも惹かれ、高校時代は国語の点数だけは良かったです。

──進学先に青学を選ばれたのはなぜでしょう。
都会への憧れがあり、同級生とも「大学は絶対都会に行きたいよね」と話していました(笑)。なかでも当時の「JAR(ジャル)パック」と呼ばれていた大学に行きたかったんです。

──Jが上智、Aが青学、Rが立教ですね。懐かしい呼び方です。
それで青学なら青山だから立地は文句なし、しかも日本文学科があるので好きな古文を学べていいなと。ちなみに親友も青学の英米文学科に合格したのですが、彼女の場合は最寄り駅に出るまでにバスで1時間もかかるので、片道2時間45分かけて通学していました。そのくらい私たちの都会の大学に対する憧れは大きかったんです。親友はさすがに2年目からは下宿しましたが、彼女とは今でも親しくしています。

 

 

大学とスタジオを往復する日々

──本学に入学されて、大学生活はいかがでしたか。
私のいた高校のクラスからだけでも青学に8名も進学したので、入学当初から友達がいるのはうれしく頼もしかったですね。私が仕事を始めて忙しくなると、ノートを取ってくれたり、試験に出そうなところを一緒に勉強してくれたりと、支えてもくれました。高等部からの内部生はみんなあかぬけて、きれいでスマートでしたね。サークルは広告研究会に入り、広告代理店のまね事のようなことをしていました。そんなとき学内でカネボウと東宝共催の「ミス・サラダガール・コンテスト」が開催されることになり、私たち1年生は「学内のかわいい子を探せ」という指令を受けました。それでも人が足りないということで、人数合わせのために私も写真を撮られて応募したら、とんとん拍子で審査を通過し準優勝。東宝芸能所属になって、オーディションに連れて行かれたらポーラテレビ小説『おゆき』の主演に決まるという、あれよあれよという流れで生活も一変しました。

──そこから学業と芸能活動の二足のわらじを履く生活が始まったのですね。特に『おゆき』は月曜から金曜の昼に放送されるドラマでしたから、撮影も大変だったでしょう。
TBSのスタジオが赤坂にあり、青山キャンパスから近かったので、試験のときはその時間だけ撮影を空けてもらい、試験を終えたらまたスタジオに戻るということもありました。内部生やほかの高校出身の人とも親しくなって、普段も私が席に着くとみんなが周りを囲んでくれて「何とかしてやるぞ」とか「守ってやるぞ」みたいな感じもありがたかったですね。

──僕は世田谷キャンパスだったのですが、1年のときに「名取裕子がいる」と話題になり、「みんなで見に行こう」と、わざわざ青山キャンパスまで行ったことがあります。今だから言える話です(笑)。
そうでしたか(笑)。どうしても授業を休みがちになり、単位の取得には苦労しました。平家物語の原文講読をするという補習を受けたこともありました。忙しい毎日でしたが点火祭や青山祭にも参加して、青学生を謳歌しましたね。卒業論文も仕事の合間を縫って、狂言に出てくる「わわしい女」たちについて書きました。

──印象深い先生や授業はありますか。
後に第15代学長になられた武藤元昭先生はユーモアのある楽しい方で、私の舞台も見に来てくださいました。「漫画的文化論について記せ」という問題で、私が「実践漫画的文化論─絵しりとり」とタイトルをつけて、イラストでネズミの絵などを書いて提出したのですが、ちゃんと点数を下さって。「あなたみたいな地味な人が芸能界で大丈夫ですか」と言われたこともありました(笑)。

──大学に入って驚いたことや新たな発見はありましたか。
自分のことは自分で決めるというのが新鮮でした。時間割通りに授業を受けていた高校生活とは一変して、自分で考えて自分だけの時間割を作り卒業までに必要な単位を取得するというのは、大学では当たり前のことですが、やはり入学直後は驚きでしたね。それから礼拝堂の荘厳な雰囲気は素敵だなと感じました。

──卒業後に同級生たちがさまざまな道に進む中、名取さんご自身は俳優の仕事を続けていくことに迷いや不安はなかったのでしょうか。
教職課程を取っていたので母校の厚木高校に教育実習にも行きました。もう一人の実習生の補佐のような形でしたが、古文の授業も担当させてもらいました。国語の先生になって好きな古文を教えるのもいいなという思いもありました。けれど、俳優の仕事も国語と無縁ではありません。台本を読み込みそこから感情を起こし、登場人物やストーリーのバックグラウンドを考え、全体を俯瞰で捉えて物語を読みシーンを考えるのは理解力や読解力が必要で、とても国語的なところがあります。だから台本を読むのも好きで、日本文学科での学びは仕事にも生かせるのではと考えました。そういう考え方を受け入れてくれる武藤先生のような方やおおらかなキャンパス、そして友人に恵まれたことが、俳優でやっていくという選択を後押ししてくれた気がします。

 


学生のころ

 

チームとなって一つの作品を作り上げるのは役者の醍醐味

──これまで演じられた役でとりわけ気に入っている作品はありますか。
どの作品にも思い入れはありますが、『けものみち』はいわゆる清純派の役から女性の役をやったということで皆さんからかなりの反響がありました。個人的に楽しかったのは30年近く続いた『法医学教室の事件ファイル』シリーズですね。『京都地検の女』シリーズも思い出深いです。プロデューサーを始めとするスタッフの方がみんな年下だったので、細かな設定までみんなで一緒に考えながら作り上げたのはすごく楽しかったです。俳優業のどこが楽しいかと聞かれたら、みんなでチームとなって一つの作品を作るところというのは間違いなくありますね。また、その瞬間にしか存在しない自分の表現を切り取ってもらえるのもありがたいことです。

──俳優に求められる資質は何でしょう。
いちばん大事なのは体が丈夫なことですね。2時間ドラマ1本でも撮影に2~3週間はかかるし、映画なら何か月も時間を要します。作品を撮り終えるまでベストコンディションを維持し続けるために自己管理は非常に大事です。

 


40代のころ

 

──過酷な撮影もありそうですね。
寒い冬に夏の衣装を着たり、暑い夏にコートを着て冬のシーンを撮影したりすることはあります。

かつては撮影時間も朝から晩まで、休みという概念がありませんでしたが、現場の環境については、今はすごく改善されましたね。スケジュール表の横に「パワハラ、セクハラなどがあったら第三者機関にお知らせください」と記載されているし、インティマシー・コーディネーター※もいるからラブシーンにもチェックが入るし。本当に変わったと思います。

※性的なシーンを演じる俳優の身心の安全を守るスペシャリスト

──僕からすると名取さんといえば犯人を追い詰めたりするドラマのイメージが強いのですが、最近はクイズ番組でも活躍されていますよね。
本来、役者はクイズ番組には出たくないんですよ、頭が悪いのがばれたら賢い役ができなくなっちゃうじゃないですか(笑)。だから私もすごく嫌でしたが、出たら出たで楽しいし、高揚感があるんですよね。私が出演している『Qさま!!』などのクイズ番組はサポートが一切なく真剣勝負なので、こちらも必死に勉強しなければいけなくて、もう大変です。「高齢者枠で出ているんだからハンデつけて」と頼んでみたのですが聞いてもらえませんでした(笑)。

──あの番組はインテリ芸能人がクイズに答えるというスタイルですから、青山学院大学出身という枠で出演されているんでしょう(笑)。
名取さんと青山学院が今もこうしてつながっているというのが、とりわけ同級生の私からすればとてもありがたく感慨深いです。われわれの時代から変わったのは、今年度入学した新1年生のうち、青学を第1志望とした学生が51%だったことです。僕らの頃って、第1志望は早稲田大学や慶應義塾大学だったでしょう。今や「青学に来たい」という子がここまで増えて感無量です。

駅伝の活躍も拝見していますが、選手の皆さんが伸びやかで朗らかですよね。「ザ・青学」っていう感じの明るいカラーがアピールできていると思います。

──ずっと俳優業をされてきた中で、思い悩まれた時期はありますか。
38歳のときに経理関係を任せていた父が亡くなり、いきなり自分にすべてのしかかってきたときは大変でした。税金の払い方も知らず、とにかくお金のことに関してはまるで知識がなかったので戸惑いましたし、義母がアルツハイマー型認知症になり、ちょうど座長を務める舞台『吉原炎上』の公演も重なったりして、呼吸ができない、汗が噴き出るなどパニック障害のような症状に苦しんだ時期がありました。乗り切れたのは、犬と暮らしていたおかげだと思います。どんなに体が重く気持ちが沈んでいても、ワンちゃんの散歩に行かなければと思うと起き上がることができました。しかもそのワンちゃんが出産したので子犬の世話に奔走しているうちに、いつの間にか体調不良から回復していました。

 

他者を思いやることは自分を救うことにもつながる

──この先やってみたいこと、目指すことなどをお聞かせください。
俳優としては、いろいろな役ができるよう体力と気力をもっていたいです。あと、最近は朗読劇を書いているので、それはこれからも積極的に取り組みたいですね。

また趣味で三味線を習っているご縁もあり、ラジオ番組で長唄の解説をしています。小唄とか端唄にはとても素敵な唄がたくさんあるのに、古語が入ってくるとそれだけで「わからない」と敬遠されてしまう。それがかねがね残念だったので、ラジオでは今の言葉でわかりやすく解説しています。朗読劇でも日本語の美しさや言葉の奥行きなどを伝えたいと思っています。三味線を教えてくださっている先生や鳴物の先生なども加わり、私が朗読を担当する朗読劇は、作り手側という色合いが強いせいか、俳優として演じるのとはまた違う楽しさがあります。俳優の活動と併せて、今後は作り手の立場も楽しんでいければと思います。

──今回、青山学院150周年にあたり「青山学院150アンバサダー」に就任していただきました。青山学院に期待すること、求めることをぜひお聞かせください。
都会の颯爽とした涼やかな校風から生まれる規制されない考え方など、オリジナリティのある新しい価値観を創生していただきたいです。園児から学生まで伸び伸びと学び、発信できるような環境を整えて、社会の荒波を乗り越えられる力を涵養しつつ、青学生だからこそできることがあるという校風を大切にしていただきたいですね。

 


アンバサダー就任式にて 2024年3月11日
堀田宣彌理事長(中央)と山本与志春院長(左)と

 

──昔の成功体験をずっと引きずって時代に取り残されていくことは多々ありますから、青学も時代に合わせた変化、進化を続けていかないといけません。楽しみながら大変なことに挑戦していきたいですね。僕は会社員時代、新入社員には「楽しくなかったら駄目だよ」と言っていましたし、学生にも「いつもワクワクしようよ」と伝えています。やはりそれがないとモチベーションは上がりません。

 


名取さんと同級生で理工学部出身の鵜飼眞常務理事

 

どうせやるなら楽しみながら、その姿勢は大切ですね。私も微力ながらSDGsの精神で、自分にできることを小さくてもいいからコツコツ続けていこうと。節電も徹底していて、自宅の窓にはプチプチの緩衝材を二重に貼っていますよ。おかげで見た目はかなり悪いです(笑)。若い人にも頭が柔らかいうちにさまざまな世界を見て経験して、何が大事なのか、何を大事にしなければいけないのか、本当に欲しいものは何か、しっかり考えてもらいたいです。

──本当にそうですね。確かに環境問題や紛争など、なかなか自分ごととして捉えられていないという点はありそうです。
私も昔は「難しい問題は大人が考えてくれる」と思っていました。年齢を重ねた今は、「もう次の若い世代の人が考えればいい」などと思いたくなりがちですが、それではいけないと思っています。私自身も考える力、自分で切り拓く力をこれからも一層培っていかないと。

──最後に在校生へメッセージを。
人を大事にしてください。私はそれがいちばん大事だと思っていて、他者を思いやる気持ちは、結局それが自分を救ってくれることにもつながります。

──まさにキリスト教の精神です。本日はありがとうございました。

 


名取 祐子さん NATORI Yuko

1957年生まれ、神奈川県出身。青山学院大学文学部日本文学科卒業。
大学1年のとき「ミス・サラダガール・コンテスト」で準優勝。
77年ポーラテレビ小説『おゆき』の主演で注目されて以降、『法医学教室の事件ファイル』『京都地検の女』シリーズなどのテレビドラマをはじめ、数々の映画や舞台などで活躍中。

 

名取裕子さん公式ウェブサイト

 

青山学院150アンバサダー関連

 

「青山学報」288号(2024年6月発行)より転載
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