Christianity キリスト教

青山学院のステンドグラス〈2〉 初等部

神々しい彩りが鮮やかに射し込む

米山記念礼拝堂の東西の窓には、2007年の校舎建て替えの際に旧礼拝堂から移設された16枚のステンドグラスが設置されています。ステンドグラスにはキリスト降誕から復活までが描かれ、デザインを洋画家の田中忠雄さん(1903年~1995年)に、ガラス製作はベニス工房の羽渕紅州〔本名:寛〕さん(1902年~1971年)とご子息の羽渕恭夫〔現・羽渕紅州〕さんにお願いしました。

このステンドグラスは、第1回から第48回の卒業生の記念として寄贈されたもので、当時児童が月々捧げていた10円献金や、卒業記念献金および昇天記念献金などから制作費用に充てられました。1967年に最初のステンドグラス4点「マリヤへのお告げ」「天使のうた」「きよしこの夜」「博士たちの礼拝」を設置し、1990年に完成するまで実に23年の月日を要しました。

キリストの生涯を柔らかい陽の光とともに運び入れているステンドグラスは、これからも子どもたちの心に深く刻み込まれていくことでしょう。

マリヤから博士たち
幼な子から放蕩息子
パンから水
ホサナから祈り

 

田中忠雄さんと青山学院初等部

洋画家の田中忠雄さんはどういった人物で、何故、初等部のステンドグラスのデザインを手掛けられたのでしょうか。

北海道札幌市に生まれた田中さんは、1920年に兵庫教会にて牧師であった父親より洗礼を受けます。俣野第三郎、第四郎(洋画家)兄弟との交遊がきっかけで油彩画に興味を持ち、1921年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科に入学後も油彩画への思いは捨てきれず、独学で油彩画の道を進まれたそうです。第13回二科展(1926年)にて初入選、第4回現代日本美術展(1960年)で優秀賞を受けるなど多くの賞を受賞しています。1969~1974年まで、武蔵野美術短期大学(1988年武蔵野美術大学短期大学部と改称)教授を務められる一方、青山学院初等部をはじめ、各地の大学や教会のステンドグラスをデザインされました。1995年に91歳で死去された田中さんは、戦前には労働者や農民などが主題の作品を、そして戦後はキリスト教に関わる作品を残されたそうです。

……と、 経歴からは初等部のステンドグラスのデザインを手掛けた以外に、青山学院との繋がりを見つけることができませんでした。それではデザインをお願いしたきっかけは何だったのでしょうか? それは伊藤朗先生(元初等部長・宗教主任)にありました。伊藤先生は「青山学報」73号(1975年5月発行)で、初等部の礼拝堂について執筆しており、その中でステンドグラスについて次のように語っています。

    たとえ青山学院が富士の裾野に移ろうとも、これははずしてもっていける、というわけです。でこれはですね、メモリーというのは永遠でなければいけないというふうに思っておりました時に、田中先生が「学校とか教会とかいうのはお金があったら芸術品を入れるけど、お金がないからやらんという人が多い。私はお金がなくてもやる人があったら手伝う」と、こういうことを、ある時おっしゃって、それが雑誌にのっておったんです。で、私はその雑誌をもって田中先生のおうちをたずねまして、「うちはお金ありません。ただ、やる気はあります」と申しましたら、はじめ笑っておられましたが、それがですね、2、3年ののちにてがけてくださいまして、こういうことになったわけです。

そして伊藤先生は「(初等部礼拝堂〈当時〉の)東側は、一番最初、10年位まえにおはじめいただいたのです。西側は、それから7、8年のちで、田中先生がフランスに3か月ほど行っておられて帰ってこられたのちのものですから、多少絵の図がらが変わってくるわけです、色合いその他が」と語り、「これは、当然変わっていくんだろうと思います」と時とともに変化する画風についても述べられました。

青山学院・各設置学校には、初等部のステンドグラス以外にも田中さんの作品が多数所蔵されています。

ガウチャー絵画

令孫の田中知雄氏より田中忠雄生誕110周年を記念して寄贈された
「鶏三度鳴くまで」(左)と「坂を下る人々」(右)
ガウチャー記念礼拝堂正面入り口に飾られている

今年の11月には女子短期大学の短大ギャラリーにて「日本のキリスト者による美術展-田中忠雄・古田十郎・渡辺禎雄-」が開催予定で、展示された作品は女子短期大学の閉学に伴い、宗教センターに移設されることが決まりました。