イングランドの田園ぶらり旅【佐久間康夫の「この世という広大な劇場」第29回】
2024/09/18
イギリスは都会と田園でそれぞれまったく異なった趣があり、その対照は不思議な魅力を放っています。もし田園地帯へ目を向けてみたいとお考えの方がいらしたら、お勧めしたいのが、今回取り上げるサフォークです。
日本人にはややなじみの薄い地名かもしれませんが、サフォークはイングランドの南東部にあたるイースト・アングリア地方の州(カウンティ)の一つで、西はケンブリッジシャーに、南はエセックスに接しています。州都はイプスウィッチ。3800㎢という面積は、日本でいえば埼玉県くらいの広さの、なだらかな丘陵が目にやさしい土地柄です。サフォークはクルマをうまく利用すれば、首都ロンドンからのデイアウトを十分に楽しめると思います。カントリーサイドの風情をたっぷり味わえますよ。
イギリス製のクレイアニメ『ひつじのショーン』は日本でも人気を博しました。主人公のショーンや仲間の羊はみな顔や頭が真っ黒ですが、そのキャラクターのモデルになったのが、この地方原産のサフォーク種という羊です。肉用種として、最高級の品質とされます。
サフォークの人口1300人足らずの小さな村ラヴェナム。こぢんまりとした古風な家が通りにずらりと並ぶさまは、まるでおとぎの国に迷いこんだよう。この村は15世紀から16世紀にかけて、羊毛製品の商いで隆盛をきわめました。しかし次第に衰退し、家屋の建て替えにかかる費用をまかなえなくなり、時代がかった家並みが手つかずで残される結果に。世の中、何が幸いするかわかりません。中世から近世初期の雰囲気をこれだけ湛えている例は他になく、村そのものがイギリスの歴史遺産といえます。
漆喰の壁面に木材の梁(はり)や柱がむき出しになっている構造は、ハーフ・ティンバード・ウォールという様式です。骨組みに斜線や曲線が多用され、家全体が曲がりくねって見えます。このような形の家は、一般に「クルックド・ハウス」(crooked house)と呼ばれ、日本語では「ねじれた家」「曲がった家」などと訳されています。
マザーグースの人気の高い童謡に、「ねじれた男がねじれた家に住んでいた」という内容の唄がありますが、ここラヴェナムのねじれた家がヒントになったのでは、との説もあるくらいです(唄の全文は末尾に)。
骨董品、日用雑貨、ギフト、アクセサリー、衣料、ホームメイドの菓子……ラヴェナムのハイ・ストリートや路地には、立ち寄りたくなるお店が軒を連ねています。ただし骨董品だけは評判を呼んで、世界中からバイヤーが殺到したせいで、庶民には手の届かないプライスタグが付くようになってしまいました。
サフォークのあちこちで目に留まる建物の特徴として、「パージェティング」(pargeting)があげられます。家屋の壁面に漆喰できれいな装飾をほどこした建築様式を指す用語です。16世紀から18世紀にかけて特に流行しました。
今日でも、専門の職人(パージェター)が凝った意匠を修繕して、環境保全に貢献しています。値は少々張りますが、新しく製作を依頼することも可能だそうです。
他にイギリスの旧式な建築物で目立つのは、2階が道路に張り出した独特の建て方です。この突出した部分を「ジェティ」(Jetty)といいますが、狭い道路に面した室内の空間を有効利用するための昔の人の知恵なのでしょう。
サフォークには歴史を中世にさかのぼる大邸宅も。その一つ、ケントウェル・ホールはロング・メルフォードという場所にあるマナーハウス(荘園)です。ケントウェルは1086年にウィリアム征服王が検地を行った記録である世界初の土地台帳、いわゆるドゥームズデイ・ブックにも載っているほどです。
現存する建物は、一番古い部分で15世紀初頭の見事なチューダー朝様式を体現したものです。中世の大地主クロプトン家は17世紀に没落しますが、後代の所有者の意向で、今にいたるまでインテリアも外観もほとんど変更されませんでした。堀に囲まれた造りの建物や、東京ドーム3個分に迫る広大な庭園に、往時の荘園領主の暮らしぶりをしのぶことができます。
特に夏季のイベントは見逃せません。16世紀風のいでたちをした人々が屋敷や庭園のいたるところに勢ぞろい。何げない日常生活の作業にいそしむ姿をさりげなく再現してくれるのです。まるでシェイクスピアの生きていた時代にタイムトラベルしたような錯覚にとらわれます。
ここから2kmほどのところに、もう1軒、名高い大邸宅メルフォード・ホールがあります。こちらもチューダー朝のたたずまいを濃厚に残していて、現在はナショナル・トラストの管理下に置かれています。
第10代戸主ハイド=パーカー准男爵の結婚相手は、「ピーターラビット」シリーズの作者ビアトリクス・ポター(1866-1943)のいとこでした。「ビーティ」(ビアトリクスのニックネーム)は足しげくこの館を訪れ、自作の絵本を准男爵家の子どもたちに語り聞かせたそうです。ポターの資料も展示され、「ピーターラビット」の物語世界を身近に感じられます。ファンにはこたえられません。
サフォークはまた20世紀の作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-76)の生まれ故郷です。後年、サフォークのオールドバラに居を構えたブリテンは、1948年にオールドバラ・フェスティバルを創設、亡くなるまで主催しました。この音楽祭はブリテンの死後も継続され、世界中から熱心な音楽ファンを呼び寄せています。
ブリテンのおかげで国際的な知名度を著しく高めたオールドバラは、中世から近世にかけて北海に面して栄えた漁村でした。現在ではむしろ海辺のひなびた保養地といった感じですが。内陸に数kmほど入ったところにスネイプという集落があり、ここにブリテンの肝いりで800席ほどの音楽会場《モールティングス》を1967年にオープン、音楽祭のメイン会場となりました。
ウイスキーの原料にする麦芽(モルト)の製造工場を、レンガの外壁や4本の煙突はそのままに、瀟洒(しょうしゃ)な造りのコンサート・ホールにコンバート(改築)したのです。さて、その音響効果のほどはいかに? 楽団雀(がくだんすずめ)のもっぱらのジョークでは、楽堂の音に芳醇な香りが匂い立つのはモルトのおかげだそうです(笑)。いや、イギリス随一の音響を誇るホールであることは、数多くの名録音によって証明されています。
地元出身の詩人ジョージ・クラッブ(1754-1832)の書簡形式の物語詩『ザ・バラ』(1810)を基に、ブリテンの創作したオペラが『ピーター・グライムズ』(1945)です。閉鎖的な漁村を背景に、漁師ピーターが徒弟の少年を死なせてしまい、船もろとも海に没する最期を遂げるまでの顛末(てんまつ)が描かれます。荒ぶる北海の情景がまざまざと目に浮かぶ痛ましい悲劇です。
30年近く前に、私はチェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィッチが指揮をしたロンドン交響楽団の実演に触れました。聖地オールドバラではなく、ロンドンのバービカン・ホールにおける演奏会形式での公演でしたが、あの時以来、20世紀の傑作と称えられるこのオペラの底知れぬ魅力にとりつかれています。
ロストロポーヴィッチは生前のブリテンと親交を結び、ブリテンの創作したチェロの楽曲はすべて彼に献呈されたほどです。ロストロポーヴィッチの指揮ぶりは、打楽器が強烈に打ちこまれ、管楽器群が咆哮(ほうこう)する、情熱のたぎった演奏でした。彼が得意にしたショスタコーヴィッチやプロコフィエフの曲のように聞こえる部分もありました。後日、購読していた『デイリー・テレグラフ』紙に、私の受けた印象通りの演奏会評が掲載されて、我が意を得たりと膝を打ったものでした。
There was a crooked man, and he walked a crooked mile,
He found a crooked sixpence against a crooked stile;
He bought a crooked cat, which caught a crooked mouse,
And they all lived together in a little crooked house.
むかしねじれた男がおりまして、ねじれた道を歩いていたら
ねじれた踏段で、ねじれた6ペンスを見つけてね
ねじれたネコを買ったら、ねじれたネズミをつかまえて
みんなそろって小さなねじれた家に住んだとさ
(マザーグースの唄より)
[Photo: 佐久間康夫]