Interview インタビュー

美しき陰翳(いんえい)─オランダ通詞たちの足跡

プロローグ

光があれば影がある。
光が物体に当たるとおのずと影ができる。
明るい光、あるいは光の当たる物体しか見ない。影は暗く、嫌なもの。だから見ない。
たいていはそう。
しかし、ひとたび影を見ると、その細密とも言うべき美しさに目を奪われることがある。

そもそもの始まりは、2019年秋「青山学報」の取材で、大学文学部英米文学科教授田中深雪先生の研究室を訪れたことだった。
研究室の扉を開けて圧倒された。
通訳・翻訳関係の本と共に特に“オランダ通詞”の本が多かったからだ。
“オランダ通詞”――鎖国期にオランダ語の通訳として活躍した人々のことをいう。

(影なくしては光はない。裏がなければ表がないのと同じ。支えているのは影)
田中深雪先生から“オランダ通詞”の話を聞いた時の印象がそうだった。
“オランダ通詞”。その名は主要な歴史の教科書にさえ、出てくることはないという。
彼らは文字通り歴史の中で忘れられた存在といえよう。

だが、ひとたび目にすると、彼らの足跡はひそやかな美しさに満ちていることに気がつく。

その時、初めて耳にした“オランダ通詞”という言葉は徐々にわたしの心の中で大きな位置を占めるようになっていった。
外国との行き来がままならなかった江戸時代に“オランダ通詞”たちは、一体どのようにしてオランダ語を学んだのか。
そこに外国語や外国の文化を学ぶわたしたちへのヒントがあるかもしれない。

2020年3月――
“オランダ通詞”のお話を伺うため、もう一度田中深雪先生の研究室を訪れてみることにした。

──深雪先生、まずは“オランダ通詞”について教えてください。
オランダ通詞とは簡単に言えば、江戸時代に日本にやってきたオランダ商館の人々と日本人との間に入り、異文化間のコミュニケーションを担った人たちのことです。

オランダ通詞イメージ


キリスト教徒への取り締まりを強化するようになった徳川幕府は、その頃日本の各地で布教を行っていたポルトガル人たちの来航を禁止し、1639年には海外に追放してしまいます。その一方で、徳川幕府への忠誠を示したオランダ人に対しては、キリスト教の布教活動を行わないことを前提に貿易を許します。

阿蘭陀船入船の図

「阿蘭陀入船の図」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

幕府は1641年には、オランダの商館を平戸から長崎の出島に移転させました。その際、当時、商館に雇われていた通詞たちの一部も後を追うようにして長崎に移り住みました。長崎に移った通詞はこれまでの雇主だった商館を離れて、長崎奉行に雇われる通詞となりました。こうして彼らは長崎の出島での通詞業務に専念することになったのです。

出島に越しました

 

──“オランダ通詞”たちが長崎の奉行所に雇われていたということはお役人だったということでしょうか。
そうです。そこが、現代の通訳者と異なる点のひとつです。
今の通訳者たちはフリーランスで働く人が多いのですが、当時の通詞はまさしく役人でした。
彼らは長崎奉行とオランダ商館との間で貿易交渉の事務なども行っており、その仕事の範囲は現代の通訳者と較べて広いことが特徴と言えます。彼らは、オランダ人たちがもたらした海外からの貴重な情報を日本語に訳し、幕府に差し出すという重要な役目も担っていました。
また、オランダ人たちの行動や持ち物をチェックしていました。

──なんだか、スパイみたいですね。

隠密

 

それだけではありません。オランダ通詞たちは、数年に1回オランダ商館長(カピタン)が長崎の出島から江戸の将軍のもとへ、貿易を許可してもらったお礼の挨拶の旅に行く時は、その一切の手配やお世話を通詞たちが執り行っていました。彼らの旅が滞りなく行われるために必要な各地の宿の手配、通訳や翻訳の仕事、将軍との謁見に関わる打ち合わせなど、とても煩雑で失敗が許されない重要な役割を担っていました。

旅に同行する通詞

──失敗できない役目、聞いているだけで緊張が走ります。ところで、深雪先生は何故彼らに興味を持たれたのですか。

初めて“オランダ通詞”の存在が気になったのは、もう随分昔のことになります。たまたま立ち寄った佐賀県にあった小さな資料館で、古いオランダ語の書籍や地球儀などが無造作に置いてあるのを見かけました。

武雄の蘭書

左:学芸百科事典
右:オランダ王立園芸促進協会誌 オランダ本土及び海外領土の園芸植物
(いずれも武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 

なぜこのような品々がここにたくさん遺されているのか、ちょっと不思議に思いました。その時は、江戸時代の日本は海外に対して門戸を閉じていたと歴史の時間に教わったのに、なぜ古いオランダ語の書籍や地球儀などがあるのだろうと漠然と思っただけでした。しかし、調べていくうちに江戸時代には西洋からの書物や品物などがたくさん輸入されていたことや、それらを訳す翻訳官のような人たちが長崎を中心に活躍していたと知り、なるほどと思いました。と同時に、新たな疑問も湧いてきました。

──新たな疑問とは?
現代のようにインターネットを通じて海外からの情報が簡単に入手できる状況であっても、通訳や翻訳の仕事には文化の違いや言葉の用法の違いなど、さまざまな困難がつきまといがちです。ましてや外国との往来が限られていた江戸時代に、一体どのようにして語学力を磨き、訳す技術を習得していったのか謎のように思えて、もっと知りたいと思ったことが“オランダ通詞”に本格的に興味を持つようになったきっかけです。

──なるほど。Google翻訳とか電子辞書などがない世界で、どのように外国語を習得していったのか、わたしも興味があります!! しかしオランダ通詞って、あまり知られていない(わたしが知らないだけ?)というより、謎が多そうですね。
確かに、彼らの実像を追い求めるのは容易ではありません。そもそも通詞たちは自分たちのことをほとんど記録に残していないからです。さらに昔は現在のように音声を録音する技術もないため、どんな通訳をしていたのか知ることもできません。困難が伴う作業ですが、少しずつでも謎が解ければ良いなと思いながら仲間とともに歴史研究を通じて明らかになった史実や専門家の解説を頼りに研究を続けています。

──江戸時代なので当然と言えば当然ですが、オランダ通詞も世襲制だったのですよね。外国語を習得するだけでも大変なのに、外国語の力をどう世襲していったのでしょうか?
語学力を「世襲」すると言われても、現代ではどういうことなのか理解できない方も多いのではないでしょうか? 私も初めて聞いた時は、どうしてそのようなことが可能なのか、とても不思議に思いました。

その謎を解く鍵のひとつが、通詞家という仕組みにありました。

通詞家イメージ

 

オランダ通詞には大通詞や小通詞などを始めとして、たくさんの職階(職務内容や責任の度合いになどによって定められた階級のこと)があり、基本的には通詞家の中から選ばれた者が職についていました。

通詞の階級

 

はじめは「見習(みならい)通詞」や「稽古(けいこ)通詞」などの職に就き、徐々に語学力も仕事も身につけていったようです。現在で言えばon the job trainingのような形態でしょうか。

丁稚

 

大通詞という高い位まで昇進できる通詞の数は限られていたため、各通詞家における次世代の育成には熱が入っていたのではないかと想像します。
ただ現代も昔も、外国語の習得には向き不向きがあり、誰もが同じように上達できるものでないという点は同じかもしれません。江戸時代を通じて、入れ替わりはあったものの数十件ほどあった通詞の家においても、語学力に卓越した人材を常に輩出し続けるのはとても困難なわざだったのではないかと思わざるをえません。

英才教育

 

当時は封建制の世の中ですので、長男が家業を継いでいましたが、適材がいない場合は養子を迎えて通詞職を継がせている例も見受けられます。
また現代では語学に興味を持つ女性が多いためか、男性よりも女性の通訳者の数が多いですが、通詞たちが生きた封建時代下では、男性のみに通詞の仕事が任されていたという点も大きく異なります。
彼らの学習方法は、現在の語学教育と似ているなと思う点もあります。たとえばまだ若いうちからオランダ文字の読み方や書き方、それに日常会話を学び、文章の読み書きを学んでいたということが分かっています。現代では第二外国語研究(SLA)などを通して、語学を学び始めるのに適した年齢があることは広く知られています。通詞たちは長年の経験を通して、早い時期からの語学学習の大切さを熟知していたのかもしれないですね。

寺子屋

 

──深雪先生、オランダ通詞についてもっと知りたい方に、お勧めの本はありますか。
詳しく知りたい方は、まずこちらの本を読んでみることをお勧めします。
青山学院大学名誉教授の片桐一男先生が書かれた『江戸時代の通訳官-阿蘭陀通詞の語学と実務』(吉川弘文館 2016年)です。

(次回「灰紫(オールドローズ)は黎明の刻を告げる」に続く)