Interview インタビュー

美しき陰翳(いんえい)第2回 比類なきトランスレーター志筑忠雄・前編

“オランダ通詞たち”の密やかな美しさに満ちた足跡を辿るシリーズ“美しき陰翳”。
今から260年も前の日本、鎖国期只中に生まれた志筑忠雄(しづき ただお:1760-1806)。“鎖国”という訳語自体も志筑が考案したというから凄まじい才能といえよう。志筑忠雄について興味をひかれ、大学文学部英米文学科教授田中深雪先生にお話を伺った。

──深雪先生、比類なきトランスレーター、志筑忠雄について詳しく教えてください
実は志筑忠雄の生涯について、多くの人がその名を知る有名な人物にもかかわらず、残念ながら彼自身についての資料は、多く残されているわけではありません。墓の場所さえもわかっていないほどです。

──謎に包まれた、ミステリアスな雰囲気、いいですね。なんだか盛り上がってきました!

これまで明らかになっている資料によると、忠雄は裕福な家に生まれ、10代で通詞家の一つであった志筑家の養子となり、稽古通詞(いわば見習いの通訳官)という地位についています。

見習い
稽古通詞(イメージ)

 

──稽古通詞というと、下の位の通詞ですね。普段、通詞たちはどんな仕事をしていたのですか?

通詞の仕事は多岐に渡っています。
オランダの船が長崎に入港すると荷物の積み下ろしの指示、荷揚げされる貨物の中身の点検や調査、禁制品が持ち込まれていないかの調査、記録、通弁(通訳)、和解(翻訳)などの業務に携わるのが常です。

──そうでした、そうでした。オランダ通詞って、お役人で通訳家で翻訳家で時々見張り番のような仕事もするという忙しい人々でした。

その忙しさが志筑には難しかったようです。

──と言いますと? 志筑は見習通詞を辞めてしまったのでしょうか。

志筑は身体が弱かったこともあって、通詞としての日常業務よりも蘭書の翻訳や執筆に打ち込み、多くの書物を後世に残しました。

打ち込む

 

──深雪先生、その当時ってどんな風に翻訳していたのでしょうか。わたしの愛用する電子辞書やGoogle翻訳もないでしょうし。

そうですね。
優れた辞書や参考文献が容易に入手でき、さらには機械翻訳技術の発展や翻訳者間の分業などで、一度に多くの文書を素早く訳すことが可能になった現在でさえ、翻訳という仕事自体は手間や時間がかかるなど骨の折れる作業であることに変わりはありません。
ましてや志筑がオランダ語の書物の翻訳に取り組んだ時代では、まだ日本にはまともな辞書も編纂されていませんでした。

──ええっ、そもそも辞書がないっ。(絶句)

辞書がないというだけではありません。外国語の書物を読むのに欠かせない文法体系についての知識も限られていました。

便利グッズ
あんなものやこんなものといった便利グッズは当然存在しない(泣)

 

──辞書もない、文法もほぼない。それでどうやって翻訳することができたのですか?

翻訳にあたって一つ一つ外国語の意味を見つけ出し、解釈して、それに適する日本語を探し出す。また、そもそも日本語にない物や概念を翻訳する場合は、日本語の語句そのものを生み出さなければならないわけで、気が遠くなるような苦労が伴う難業であったことは容易に想像することができます。

──もう聞いているだけで、めまいがしてきました。

本当にそうですね。
当時翻訳というのは今以上に骨の折れる作業だったわけですが、目を見張るのは志筑が短い生涯で残した著作の数を見てみると、判明しただけでも40点を超えることです。

40点
1年1冊訳しても40年はかかるとなると……

 

──47年の生涯で40点以上、1年に1点は訳していたということですね!

子どもの時は訳していないと思いますが、でもその数だけを見ても志筑がいかに超人的な人物であったかということがお分かりいただけるのではないでしょうか?

──はいっ、骨身にしみて分かります! 病弱の天才・志筑忠雄。彼がどのように外国語(オランダ語)を学んだのでしょうか。その学習法は現在でも有効でしょうか、そして彼の業績がますます気になってきました。深雪先生、もう少し志筑について教えてください。(前のめりになる)

星空
Now is no time to think of what you do not have. Think of what you can do with that there is.

今はないものについて思いめぐらせる時じゃない。今ここにあるものでできることを考えるんだ。『老人と海』より