Interview インタビュー あおやま すぴりっと

人は歴史から学ぶ〈卒業生・河合 敦さん〉

「金八先生」に憧れて教師を目指したという河合さんはその夢を叶え、公立高校の教員となります。ただしその活動は、教鞭をとりつつ何十冊もの本を執筆、テレビに出演、全国各地で講演をするという、一高校教師の範疇をはるかに超えたものでした。それを可能にしたものは運でも偶然でもなく、時に逆境と思える時期でも河合さんがそれを自分の糧とし、
「その時できること」
に全力で取り組んできた地道な努力にほかなりません。
本学で学んだ4年間や教員時代のこと、そして歴史を学ぶおもしろさなど、テレビでおなじみの軽妙な語り口で繰り出されるお話は歴史作家、歴史研究家である河合さんの魅力にあふれていました。

(2018年1月9日インタビュー)

 

教師に憧れ、龍馬に惹かれ、念願の史学科で歴史を学ぶ

──歴史に関する執筆活動や講演、テレビ出演と活躍されている河合さんですが、最初に歴史に興味をもったきっかけは何でしたか。
僕の暮らしていた東京都町田市の多摩丘陵は縄文遺跡の宝庫で、自宅の裏の畑からも土器や矢じりが出てくるようなところでした。小学校5年生の時に土器のかけらを拾い、「3000年前、4000年前の人がここで暮らしていたんだ」と感動したのが歴史との出会いです。

教師に憧れたのはテレビドラマの『3年B組金八先生』の影響ですね。当時、僕の通っていた中学はひどく荒れていて、毅然とした金八先生を見て「自分もこんな先生になりたい」と思ったのです。そして金八先生を演じる武田鉄矢さんご自身も敬愛している坂本龍馬におのずと僕も惹かれ、さらに高校2年生の時に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで「先生になるなら歴史の先生がいいな」と。
そこで教員になるべく国立大学を受験したのですが結果が出ず、私立の経済学部へ進学しました。

しかしやはり歴史が学べる史学科に行きたい、しかもキラキラ華やかに思えた青学の史学科に行きたいと、親に再入学の相談をしましたが反対されたため、大学に通いつつ受験勉強をしながらアルバイトをかけもちしてお金を貯めました。念願かなって青学に入学後も、結局4年間、学費はアルバイトと奨学金で工面しました。

──入学されてから、本学では希望されていた龍馬の研究が難しいと知ったそうですね。
せっかく青学に入ったのに、史学科には幕末の政治史専門の先生がいらっしゃらなかったのです。
そこで熊本藩士の儒学者、元田永孚(もとだながざね)の研究の第一人者でいらした沼田哲(ぬまたさとし)先生のもとで自由民権運動について研究することにしました。ちょうど地元の町田市が自由民権運動の盛んな地域だったという背景もありました。
 
最初の目論見こそ外れたものの、大好きな歴史を学べた4年間の勉強は楽しく、幕末や明治以外の時代の授業も好きでした。歴史に関係する授業は決して休まず成績もよかったですよ。先生方が研究されている専門の話は、面白い上にためになりました。忘れられない授業はたくさんありますが、あえて一つ挙げるとしたら、平安貴族の男性が恋した女性に何度も振られるという話が出た授業です。男性が女性をあきらめるために取った手段と、その結末について先生から意見を求められたので「物語にそう書かれているのだからその通りだと思います、疑問はないです」と答えたら、先生は「君は本当の恋をしたことがありませんね」と(笑)。

教員になり教える側になってからも、自分自身の勉強は続けていました。卒業後も沼田先生のもとに通って続けていた研究をまとめ、39歳の時には休職せずに学べる早稲田大学の大学院に進み、修士を取りました。

青学で歴史を学べたことは得難い経験ですが、歴史以外では青学に入ってから聖書を読むことが好きになりました。とくにイエスはたとえ話が上手だと気付きました。歴史は抽象的な部分もありますし、教わる側の生徒たちも昔のことに興味があるとは限りません。そんな時にうまくたとえ話を盛り込んで話すと「おっ」と聞く耳を持ってくれるんですよ。僕が授業で意識してたとえ話をするのは、青学で「キリスト教概論」の授業を受けたこと、チャペルで先生のお話を聞いて聖書を読んだこと、この経験によるところがとても大きいです。

──学友会文化連合会の古美術研究会に所属されていたそうですね。昨年9月の同窓祭ではOB会「甃会(いしだたみかい)」の招きで講演会もされました。
龍馬が過ごした京都に行く機会を作りたくて、合宿で定期的に京都や奈良を訪れる古美術研究会に入部しました。水曜日は厚木キャンパス、土曜日は青山キャンパスに集まるほか、春と夏には合宿があったので活動は盛んでした。研究会は「仏像」「建築」「庭園」「絵画・工芸」の4班に分かれ、僕は建築班を選びました。ですから合宿では主に建築物があるところを中心にいろいろなコースを巡ります。僕は法隆寺や薬師寺といった建築物がとても好きでしたね。

でもなぜか建築班は体育会系で、比叡山の千日回峰行の行者道を走ることが伝統になっていました。山深いところにある海住山寺(かいじゅうせんじ)に行こうとした時は道に迷ってしまい、飲み水もなくなって川の水まで飲んで、最後はたまたま道を通りかかったトラックに救助されたなんてこともありました。今となればどれも懐かしく楽しい思い出です。

大学時代の古美術研究会合宿 2列目の一番右が河合さん
大学時代の古美術研究会合宿 2列目の一番右が河合さん

 

念願の教師となり 執筆、講演活動も盛んに

──在学中も教員になりたいという思いは揺らぎませんでしたか。
僕が大学生の時はバブル絶頂期で、それこそ引く手あまたの求人がありました。それでも不思議と「公立学校の教員」という目標が揺らぐことはなかったですね。ほかの職業にはまったく目が向きませんでした。

ところが、卒業して最初に着任したのは養護学校でした。そのため高校教諭として日本史を教えることができず、最初は途方に暮れました。手厚い教育が必要なこともあり、1クラスの生徒は10人で、僕も含めて3人の担任がつきます。多少の読み書きができる子には字や計算を教えたり、できない子たちは音楽に合わせて体を揺らしたり。毎日2時間ある作業学習では、僕は「しいたけ班」になりました。山から原木を切り出して、そこにしいたけの菌を植え、刺激するとしいたけがたくさんできるため、定期的に原木を山から山へ移動させて……。原木を担いで山を歩いていると、時々「何のために自分は教師になったんだろう」と思いました。

最初に担任した生徒が卒業するまでの3年間は、その養護学校に勤めました。その後の長い教員生活の中でも、あの3年間を経験して良かったと心から思っています。金八先生は「頑張ればできる」と言っていましたが、子どもたちにたやすく「頑張れ」と言ってはいけないのだと、教育観が変わりました。逆に健常者に対しては甘えを許さないというか、見る目が厳しくなったと思います。

都立高校教諭時代の授業風景
都立高校教諭時代の授業風景

 

──その3年間は、日本史に関われないというストレスはなかったのでしょうか。
日本史を教えられないというストレスは大きかったです。それを解消するために、生徒たちと一緒に散歩するコースに跡地があった小野路城について論文を書き、雑誌『歴史読本』(現在休刊)に投稿したら優秀賞をいただきました。それをきっかけに、日本史に関する執筆依頼が来るようになったのです。養護学校で働かなければその論文を書くこともなかったと考えると、人生は不思議なものですね。

数々の著書 自身初の小説『窮鼠の一矢(きゅうそのいっし)』が2017年10月に発売
数々の著書 自身初の小説『窮鼠の一矢(きゅうそのいっし)』が2017年10月に発売

 

そのうちテレビからも出演依頼が来るようになりました。最初は出版社を通してテレビで使えるようなネタを相談され、いくつか話したところ「出演してほしい」と。でも僕は東京都の公務員で一教師ですし、とても芸能人がずらりと並ぶ前で授業などできないとお断りしました。ところがその後も、何カ月にもわたり「ぜひ出演してほしい」と依頼をいただき、最後はお受けすることにしました。今から13〜14年前に初めて番組出演したのですが、第1回目の記憶がまったくありません(笑)。やはり緊張していたのでしょうね。幸いその授業は好評で、その後も声をかけていただくようになりました。こうしてテレビに出演することによって、著書を読んでもらえたり、講演に呼んでいただいたりする機会も増えました。教師だけをしていたらそういう活動はしていなかったでしょうから、テレビ出演の声をかけていただけたのはありがたかったですね。

土方歳三のコスチュームでテレビに出演
土方歳三のコスチュームでテレビに出演

 

──高校で教鞭をとりながら執筆、講演活動に加えてテレビ出演となると、ご多忙だったことでしょう。
あまりにも忙しくて、「このままでは死んでしまう」と思ったのが退職を決意する決め手となりました。複数年にわたり担任を受け持ったこともありました。普通は一度担任を務め、その学年が卒業すると2年くらいは担任を受け持たないのです。しかし卒業式で生徒を送り出した半月後には、新たに担任を受け持つ生徒が入学してくるわけです。

さすがに肉体的に限界で、3年勤めるという契約で私立高校に移り、私立高校退職後は大学で講義を持つほか、執筆、講演活動に専念しています。また、去年は監修も含めると19冊の本を出したので、いくら高校教師を辞めたとはいえオーバーワークでした。フリー1年目ということで、その辺のさじ加減が今一つ分かっていませんでしたね。今年はさすがにもう少しペースを落としたいと思っています。

 

歴史に埋もれている偉人たちを多くの人に知ってもらいたい

──歴史を学ぶことの意義はどんなことだと思われますか。
人間は過去からしか学ぶことができません。過去を学び自分の人生に活かすことが歴史の重要性ではないでしょうか。歴史は学べば学ぶほど役立つ「実学」だと僕は思っています。

また、自分の学んだことが事実とは限らないという点も歴史の面白いところですよね。例えば鎌倉幕府成立は1192年ではないとか、源頼朝の肖像画も昔の教科書に載っていたものは間違っているとか、聖徳太子という名称はあまり使われていないとか。教科書は4年に一度改訂されるので教員ならば「教科書の内容が変わるのは当たり前」という認識ですが、多くの人の頭の中は、自分が学んだ教科書の内容がインプットされたままです。だから「えっ、聖徳太子って今は厩戸王(うまやどのおう)っていうの?」と驚くわけです。もちろんこれも社会科の先生の間では周知の事実です。たまたま僕がテレビでそれを話したことで、世間にも広く知られるようになり認知度も高まりました。ちょっと日本史に貢献できたかもしれません(笑)。

学ぶ楽しさがある一方、教える楽しさもあります。自分の好きな歴史の話をしていると、生徒たちが食いついて真剣に聞き入る、そんな姿を目の当たりにするのは教師として至福の瞬間です。今は大学で教員を目指す学生に教えていますが、これもまた高校で日本史を教えることとは違った楽しさややりがいを感じています。

 

──これから学びたい、研究したいと思っていることを教えてください。
講演をする時は講演先の地域にゆかりのある歴史も語るようにしているので、そのための調べものをします。するとあちこちにすごい人物がたくさんいて、「どうしてこんな人物が今まで無名だったんだろう」と驚くことがよくあります。このように「あまり知られていないけれど実はすごい人物」たちが、日本の歴史にはまだまだ発掘されずに埋もれています。そんな人物を取り上げ、一人でも多くの人に知ってもらいたいですね。

書きたい人物はたくさんいて数えられないほどですが、あえて一人挙げるなら、京都の豪商だった角倉了以(すみのくらりょうい)には非常に興味があります。江戸幕府ができたことで政治都市としての京都の存在価値が地に落ちそうになっていた時、高瀬川を開削して京都と大阪を水路で結び、政治都市から経済都市へと変化させた人物です。このような面白い人物を紹介することで、マイナーな人物がどんどん有名になったり広く知られていくのを目の当たりにする、そんな楽しさを味わってみたいです。

日々の勉強を欠かさず研究を進め精力的に発信していくためには、僕自身も元気で長生きしなければいけません。歴史上でも長生きした人が結局は勝っているでしょう? もしも秀吉が62歳で死なずに家康と同じだけ生きていたら息子の秀頼は成人を迎えたわけで、そうなればもう豊臣政権は安泰でしたよ。

──最後に在校生へのアドバイスをお願いします。
僕の学生時代は勉強に励みつつ学費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れ、さらに部活もやり、とにかくいろいろ全力でやっていました。この全力でやったという経験が土台となり、社会人になってからの自分を支えてくれました。ですから在校生の皆さんにも「ほどほどに」とか「てきとうに」ではなく、取り組むべきことには全力で取り組んでもらいたいですね。

また、人生には自分の望んでいたことと違う現実に直面することもありますが、無駄な経験や不要な経験はありません。定時制高校で教えた時は、授業中に漫画を読んでいる生徒にどうやって話を聞いてもらうかを必死に考え、面白い授業を組み立てることに四苦八苦しました。その経験があったからこそ、テレビに出ても人前でうまく話せるようになったのではないかと思います。辛いことや苦しいことはたくさんあっても、自分が今すべきことをきちんとしていけば、必ずそれがどこかで役立つはずです。

 

河合 敦さん KAWAI Atsushi

歴史作家、歴史研究家 
1965年生まれ、東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。東京都の教員となり各地の都立高校で教鞭をとりつつ、早稲田大学大学院教育学研究科社会科教育専攻(日本史)博士課程単位取得満期退学。現在、多摩大学経営情報学部客員教授、早稲田大学教育学部非常勤講師を勤めるほか執筆や講演で活躍中。テレビ「世界一受けたい授業」(日本テレビ)、「謎解き! 江戸のススメ」(BS-TBS)などにも出演。第17回郷土史研究賞優秀賞、第6回NTT トーク大賞優秀賞などを受賞。著書に『早わかり江戸時代』(日本実業出版社)、『教科書から消えた日本史』(光文社)など多数。

 

河合敦さんの著書

自身初の小説『窮鼠の一矢(きゅうそのいっし)』(新泉社)

河合さんの著書『窮鼠の一矢(きゅうそのいっし)』
越後村上藩の最年少家老・鳥居三十郎の奇策を鮮やかに描いた一冊

 

[Photo:加藤 麻希] https://www.katomaki.com

「青山学報」263号(2018年3月発行)より転載