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森村誠一さんのご逝去を悼んで

2023年7月24日、森村誠一さんがご逝去されました。謹んで哀悼の意を捧げます。

これまで森村さんは、青山学院の校友(卒業生)として、青山学院の創立記念行事などにご出演くださったほか、「青山学報」のインタビューにもご出演いただきました。インタビューの中で森村さんは、大学生という時間は、人格や価値観の形成上重要な時期であること、学問そして友人を作ることの大切さを教えてくださっています。
青山学院の記録の中から、森村さんと青山学院のかかわりについて、故人を偲び、感謝の気持ちを込めまして、ご紹介させていただきます。

【写真上:「青山学報」199号より】

 

終わりなき創作に挑む

「青山学報」199号(2002年3月15日発行)【あおやま すぴりっと】インタビューより

森村 誠一

今から21年前にご出演いただいた時、森村さんは69歳。戦時中の小学生の頃、青山学院大学の学生の頃、ホテルマンを経て小説家に至るお話などを伺いました。その「青山学報」での森村さんの言葉を中心にご紹介いたします。

 

〈森村誠一さんプロフィール〉

1933年埼玉県熊谷市に生まれる。埼玉県立熊谷商業高等学校卒業後、自動車部品会社勤務を経て、青山学院大学文学部英米文学科に入学。在学中、ハイキング部に所属。1年の留年後卒業し、新大阪ホテルに就職。その後ホテルニューオータニに転職。在職中に小説家デビュー。
1969年『高層の死角』で第15回江戸川乱歩賞受賞。1973年『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞を受賞。1976年『人間の証明』で第3回角川小説賞を受賞。2004年第7回日本ミステリー文学大賞受賞、2011年『悪道』で第45回吉川英治文学賞を受賞。

 

郷里熊谷にて 終戦の頃

──戦争が与えた影響について
森村 12歳の時に、私の郷里が終戦当日の8月15日未明に空襲を受けました。私の家も被災して、死体が一番多く発見されたのが私の家の近くでした。星川という川が死体で埋もれて川底が見えなくなり、焼け焦げたカボチャに見間違うほどの人間の頭蓋骨を目の当たりにして、その激烈な体験をどんな形でもいいから書き残したいと思いました。まだ当時は作家として書くという意識まではなかったですがね。

もう一つは自由がまったくなかったこと。読書少年の私は早熟で、当時『金色夜叉』を読んでいて、それを学校へ持っていくと配属将校に軟弱小説だと歯がぐらつくほど殴られたんです。何せ日本に「自由」という言葉は自由が丘という地名にしかないという時代でしたから。食べ物もなかったですね。これらのことが戦争中の経験として強く自分の心身に刻み込まれています。

 

郷里熊谷や青学をモチーフに

──郷里熊谷や母校青山学院をモチーフにした作品が多いことについて
森村 5割はそうですね。
人生を大きく分けると、人間の第一期は仕込み、学生時代、第二期が現役、これが社会人時代、第二期はリタイアした後です。
特に、第一期の仕込み時代というのは、人間の精神形成に非常に大きな影響を与えます。私の場合、両親は80代後半まで健在で、郷里の熊谷がとてもよかった。そして、たまたま青学と肌が合って、クラブ活動がよくて、仲間に恵まれ、個性的な先生が多かった。青学の戦後復興の上げ潮に乗ったハツラツとした時代、一番いい時代に学生時代を過ごしました。そういう非常にラッキーな第一期を過ごしたので、母親、郷里、母校の影響が骨の髄まで染まっているんじゃないかと思いますね。

 

青山学院の雰囲気が入学の動機

──青学を選んだ動機について
森村 青学のほかに早稲田大学や日本大学も見学に行きましたが、埼玉県熊谷の男子高校出身でしたから、青学のキャンパスを見た途端、環境がよくて、女子学生がきれいで、本当にカラフル。これこそ青春の学園だと決めたんです(笑)。そして、渋谷の街もとても気に入りました。

 

青山学院大学の教育「視野の広い客観性」

森村 客観的な視点で書けるということは青学のおかげです。青学は一方的な見方だけではなく、非常に視野の広い教育をしています。そういう点では、学生の視野が広くなりますね。その反面、学生(OB・OGを含めて) の個性が強すぎてまとまりにくくて、学閥が形成しにくいということもあります。今はだいぶ変わってきているでしょうが、当時は反権力的な姿勢の学生が多かったですね。
今でも私は権力が嫌いです。だから作家になったんです。権力は独占することに意義がありますが、文学や音楽や美術などの芸術は、大勢の者と共有すればするほど評価されます。権力とはまったく正反対のものなんです。

 

戦後復興期のハツラツとした青山学院

森村 私は1953年から1957年まで在学しましたが、戦後の混乱となにもない焦土の中から、ようやく日本人が立ち直ってきた時代です。何かこれからいい時代になりそうだなという希望に日本が弾んでいて、高度成長に入り込んでいく、やや豊かになりかけた時期です。特に青学は、キリスト教の学校ということで、いわゆる敵性の大学として弾圧を受け、長いトンネルをくぐり抜けて大きな大平原か大海原に出て、ようやく本領を発揮するという時代でした。そして、戦場に引っ張られた学生が戦場から戻ってきて、青学そのものがハツラツとしていました。

 

大学の二大要素「学問」と「友人」

森村 学生時代は人生第一期ですから、その第一期に詰め込む燃料によって、それぞれの人生の方向と航続距離、飛んで行く距離が決まります。4年間は、ぼんやり過ごしていれば、あっという間に経ってしまうし、その4年間にせっかく青学というすばらしい燃料の宝庫にいながら燃料を積み込まないというのはかなり損をします。では、その燃料を積み込むというのはどういうことかというと、これが4年間における教室であり、友人であり、サークルです。私は大学に入学してクラブ活動に参加しないというのは、青春だけでなく、人生の損失だと思います。

大学の二大要素は、まず学問、プラス友人です。
大学の教育は、教室がもちろん主体です。教室で視野にあるのは、まず教授であり、黒板であり、友人は側面にいるだけです。いい友人関係はまず教室以外のクラブ活動などを通してできるんです。私が学校に行く一番の楽しみは友人に会えること。教室を出て、中庭のシェークスピアガーデン、部室、喫茶店、そういうところで友人と過ごすことがすごく楽しかった。

 

ホテルマンから小説家へ

森村 学生時代は読書好きで、図書館で過ごした時間が一番多かったほどですが、文芸の方に行こうとは思っていなかったですね。まだあの頃は、将来に対する展望はないですから。しかも、すさまじい就職難で、特に文科糸の学生は、使ってくれるところがあればどこでもいいという状況でした。就職斡旋課(当時)の推薦で、なんとか大阪のホテルに就職できました。ホテルの仕事というものは、チームワークでお客を迎えて満足していただく、「この仕事は私がしたことでございます」とはっきり告げられない、署名がない仕事です。私は自己顕示欲が強いですから、それがだんだんつまらなくなってきて、自分がやった証拠の残るような仕事をしたいという気持ちが強くなりました。

学生時代から私がものを書く能力に目をつけてくれていた出版社勤めの山路という同窓生から、急病になったある著名なライターの代理を頼まれて、それが結構評判がよかったんです。これをまとめて、ホテルニューオータニ在職中に出版したのが『サラリーマン悪徳セミナー』。アルバイトを禁じられていたので変名(雪代敬太郎)で出しました。これが私の処女作になりました。37年前のことです。
その本があちこちで目にとまって、サラリーマンのコントやエッセイなどの原稿依頼が出てきて、それを合計すると大体(今の)給料ぐらいにはなるし、何とかやっていけるんじゃないかなと、職場を辞めちゃいました。

専門学校の講師をやりながら、2年間で本を4、5冊出しましたが、全然売れないんです。それでも、私の将来性に目をつけてくれて、売れない本を出し続けてくれていた青樹社の那須英三編集長から「あなたの作品は推理性が強いから、推理小説を書いてごらんなさい」とサジェスチョンを受けて『高層の死角』を書き上げると、「これはなかなかおもしろいから、江戸川乱歩賞に応募してみたら」といわれて応募して、受賞という結果になったんです。

 

 

森村さんは、もともとは歴史小説やフランス文学、ドイツ文学、ロシア文学の、社会性の強いロマン・ロラン、ドストエフスキー、カミュ、ヘルマン・ヘッセに心酔していたという。
ところがたまたま同じクラスに推理小説が好きな友人がいて、推理小説の面白さを教えてもらい、海外の推理小説にも広がったそうだ。
 

    青学に行っていなければ、彼に会えなければ、作家になったとしても違うジャンルの作家になっていたでしょうね。

と語っている。

 

徹底的な調査・取材

森村 本格的な推理小説の場合でも、まず基礎知識が必要になります。仮に路上に死体が転がっているとします。そこで警察の登場、次に検死……その辺から始まります。そうすると警察の組織、管轄、捜査の展開、法医学、解剖、刑事訴訟法など、もうそれだけ出てきます。ところが、そんなに詳しく調べて書けない、あるいは面倒だということになれば、X区、Y署にする。それは作家が逃げて楽をしているだけなんです。

社会性の強い作品は、徹底的に調査、取材をしないと読者にばかにされます。刑事が読む、裁判官が読む、学者等専門家が読むと「ああ、手を抜いている」とすぐわかりますから。
存命中親しかった新田次郎さんが、オーロラを見ないで書かれた短編がありました。このことが新田さんにとって長い間、読者に対する債務になっていました。それで、実際にアラスカまで行って、オーロラを見て書いた作品が『アラスカ物語』なんです。私はそういうことが作家の責任であり姿勢だと考えています。
イメージは作家にとって非常に大切ですが、社会性の強い作品を書く場合は、イメージだけを膨らませて書くことはできないんです。

元禄時代や平安時代になると、その時代に生きている人はもういませんから、資料、文献に頼るわけですが、資料、文献にないようなことは自分の想像でかなり書けるんです。

また、青学を舞台にした『エンドレスピーク』の中で、青山学院を青楓学院という違う名前にしました。これは逃げているのではなくて、実名をそのまま出してしまうと、どこかで誰かに迷惑をかけるかもしれない。その危険性があるので、実名を使わないことはあります。

 

※『エンドレスピーク』(光文社文庫 1996年11月刊)
青山学院をモデルにした青楓学園を舞台に、日本人、アメリカ人、中国人の5人の同級生が、太平洋戦争によってそれぞれの国に引き裂かれ、終戦後にまた出会うというストーリー。それぞれの国の立場から客観的な視点で戦争が描かれた作品。

 

社会性が強い作品を推理小説で描く

森村 ミステリーは文芸の分野では初めは“俗悪な読み物に過ぎない”と異端視されていました。ところが今、ミステリーが文芸の主流になっていますね。優秀な新人もどんどん出てきています。純文学にしても、ミステリータッチになっているんです。それは、時代がどう変わっても、人間と人生学というのが文芸のテーマですから。ミステリーは人間や社会の悪に迫りますので、人間、社会の断面や病理とか、風俗とか、その時代性が非常に描きやすいですね。
たとえば、推理小説は大体犯罪が主たるテーマです。なぜ犯罪をテーマにするかというと、人を殺せば犯人は追及され、犯人が捕まれば処罰される。当然、犯人は自分を守るために戦う。そこで犯人と捜査側の知恵の攻防が推理の一つの大きなキーポイントになります。それから、なぜそんなことをやったのかという理由が人間の謎に迫れる。だから、人間を描くのに推理小説はとてもいい形態なんです。

 

過去と同じ過ちの轍を踏まないために

森村 小説はいろいろな基準によって分け方が違ってきますが、作家の「志」という点を基準にして分けると、まず、読者に迎合する作品があります。これはあまり書きたくないけれども、読者人口を増やすために、あるいは、出版社からどうしてもこういうものを書いてくれと言われた場合。新人の頃は出版社の意向がかなり影響します。
2番目が、本人も書きたいし読者も求めているという理想的な作品。これが一番いい形ですね。
3番目は、この作品を書けば、きっと社会から、読者から抵抗を受けるだろうという対抗作品。これが、私の場合は『悪魔の飽食』です。

この3つのスタイルの中で、なるべくなら迎合作品は書きたくないですね。私は作家の使命として、人間の不幸をテーマにしなければいけないと考えています。それは不謹慎だと思われるかもしれませんが、過去と同じ過ちの轍を踏まないために、そして風化させないためにも必要です。これは美術や音楽などのどんな芸術にもいえることです。

 

これからの抱負 正義の基準とは

森村 作家はデビューしてから、幾つかのステージを経ますが、60代後半から70代にかけては、作品を絞って代表作に集中していく傾向が多いんです。ただ、自分では代表作だと思っても、代表作は作者が決めるものではなくて読者が決めるもの、それも死後決められることもありますからね(笑)。

私は抱負をよく聞かれますが、抱負がないんです。なぜないかというと、今書いている作品に全力集中して、現在の作品に焦点が合っているので、その次に書くものがまだ思い浮かばないんです。現実に取り組んでいる作品が抱負といえば抱負ですね。

現在は、人がリタイアした後の余生について考えています。それを「余る生」ではなくて、「誉れある生」、『誉生の証明』(光文社2003年7月刊)という作品に取りかかっています。

そして、ニューヨークの同時多発テロ(2001年9月11日)のとき、ビン・ラディンは「アラーの神のおぼしめし」「殉教者」という言葉を使い、そして、ブッシュ大統領は「アメリカの正義のために必ず報復する」と言った。ビン・ラディンも正義と言い、アメリカも正義と言う。正義の基準が全然違います。世界には宗教がたくさんあって、キリスト教、仏教、イスラム教、それぞれ聖書があり、経典があり、コーランがある。信者たちはそれぞれの基準を信じていますよね。正義の基準はどこにあるのか。その正義の基準について小説を書きたいと思っています。

 

『青山が創る文化の集い』

1994年10月29日開催


左から、高木美也子さん、森村誠一さん、大内順子さん、市川團十郎さん

 

渋谷公会堂で行われた創立120周年記念行事の一つ『青山が創る文化の集い』では、第2部「座談会『21世紀の文化』」にご出演いただきました。

この『青山が創る文化の集い』は、校友有志がボランティアで開催してくださった青山学院創立120周年イベントで、12代目市川團十郎さん(故人)が発起人となり、森村さんや渡哲也さん(故人)、竹脇無我さん(故人)、一柳慧さん(故人)、ペギー葉山さん(故人)、名取裕子さん、桑田佳祐さんら文化人が集い、歌舞伎、音楽、座談会が開かれました。

『私たちを育てた青山』と題して、市川團十郎さん(歌舞伎)と大内順子さん(ファッションデザイナー、故人)、司会の高木美也子さんとともに思い出話やそれぞれが進んだ世界の話、これからの未来について語ってくださいました。

その座談会の打ち合わせの際の森村さんの言葉を紹介します。

     森村さん 青山学院の卒業生は、社会に出てからあと、なかなか結集しない。私がホテルニューオータニにいたとき、総支配人がたまたま青学出身だったので、グループを作ったところ、東大や早稲田などよりも多くて、一番多かったです。
      高木さん たまたま知り合った人が青山学院の出身者だったりすると戦場で味方に会ったような気がして大変うれしくなることがありますよね。
      森村さん そうですね。『悪魔の飽食』を書いた時に山本七平さんと対立したのですが、じつはお互いに青学出身だということが分かってから、両者ともに戦意が無くなってしまったということがありました。

 


『青山が創る文化の集い』プログラム

 

「青山学院大学フェスティバル in 相模原」

2001年12月16日開催


森村誠一氏による「トークショー」

 

相模原キャンパスの開校(2003年4月)に向けたイベントとして、相模原市と近隣諸市との共生に向けて相模大野で実施した「青山学院大学フェスティバル in 相模原」の特別イベントとして開催されたのが、森村誠一氏による「トークショー」でした。

    「我が青春の青山」と題して、なぜ青山学院に入学したか、青山学院で培われてきたことが今の自分に大きく関わっていること、学生時代には山登りをしていたこと、読者の前に作家が顔をさらすのは余り得策ではないこと等々、森村先生の洒脱な話に会場内は時には真面目に、時には爆笑の渦に包まれた。なお先生は用意した講師料をどうしても受け取られず全額を「青山学院維持協力会」にご寄付くださった。
「青山学報」199号より

 

お別れに

「青山学報」のインタビューの中で、

    これからは青学の卒業生もだんだん群れ集まって、群れ集まるというのは言葉が悪いけれども、協力し合って一つの大きな火になってほしいですね。

と語っていた森村さん。

来年2024年に迎える青山学院創立150周年。
在校生と卒業生、教職員ら関係者が群れ集まって、協力し合って、一つの大きな火になることができるよう、見守ってください。

森村誠一様の安らかな眠りをお祈りいたします。

 

 

〈協力〉
資料センター

 

 

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