Interview インタビュー あおやま すぴりっと

渋谷の今と未来を見つめ続ける〈卒業生・西 樹さん〉

学生時代から活動の拠点が渋谷だった西さんは、現在も渋谷発の情報を発信し続ける「街の記録係」的な存在です。渋谷駅から1駅圏のエリア「広域渋谷圏」という言葉を生み出した西さんにとって、ほかの街にはない渋谷ならではの魅力とはどう映り、そして未来の渋谷はどのように見えているのでしょう。
インターネットのニュースサイト「シブヤ経済新聞」編集長、「みんなの経済新聞ネットワーク」代表として、長年渋谷を見つめ続けてきた西さんならではの視点でご自身の幼少期から、これからの渋谷についてまで語っていただきました。

(2017年10月30日インタビュー)

 

衝撃を受けた大阪万博

──西さんは株式会社花形商品研究所の代表であり、シブヤ経済新聞の編集長、みんなの経済新聞ネットワーク本部の代表もされています。
シブヤ経済新聞立ち上げを機に渋谷の街との関係が濃密になり、渋谷絡みの仕事が中心になりました。ローカルメディアでの経験を活かす形で、みんなの経済新聞ネットワークも動かしています。複数のことを並行して進めるのが常ですね。

──1970年に開催された大阪万博に強烈なインパクトを受けたそうですね。
僕は当時小学校4年生でした。自分が小さかったせいもあるのでしょうが、会場がとてつもなく大きく見えました。たくさんの人があちこちで行列を作っている、その会場の活気に衝撃を受けましたね。これまで見たことがない、考えたことがないというものが視覚化されていることへの快感も大きく、幼心に「こういう現場に関わりたい」と思いました。それが今の仕事の原点と言えるかもしれません。

この万博の影響を受けて自分でも何かアクションを起こしたいと思い、小学校の卒業制作でモニュメントを残す際に「タイムカプセルを作ろう」と提案しました。「後の生徒たちが使えるようなものに」と反対の声もあったのですが「おもしろい」と賛成してくれる先生方もいて、実現しました。僕は当時から新聞も好きだったので、このことを記事にしてもらえないかと新聞各社の地元支局を回ってお願いしたら、取材に来てくれたんですよ。今思えば、これがおそらく広報(PR)との最初の接点ですね。ちなみにタイムカプセルは10年後、無事に開けることができました。

 

在学中からイベント企画に関わる

──その後、大阪の高校で学ばれた西さんが、本学へ進学されたのはなぜでしょう。
東京には親戚がいたので、よく遊びに来ていてなじみがありました。また、当時は『POPEYE』や『Hot-Dog PRSS』といった雑誌で、アイビーやプレッピーというファッションと共に渋谷・青山エリアが取り上げられることが増えていました。さらに、せっかく東京の大学に行くなら郊外ではなく、東京らしく街の中にある大学がいいと思っていたので、必然的に青山キャンパスがある青学はいいなと。だから合格してうれしかったですね。

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青山キャンパス正門にて

進学した経済学部では、経済の原理原則を知るのは面白かったですね。マクロ経済のゼミでは松下正弘先生からご指導いただきました。学んでいくうちに自分の興味がどちらかといえば経営やマーケティングにあるということも気付きました。

授業では必修科目である「キリスト教概論」も新鮮でした。キリスト教はそれまでの自分の中にはなかった世界なので、聞くことすべてがとても新鮮で。知らないものに触れる面白さがあって、先生が話してくださる聖書のストーリーもいつも楽しみでした。

入学後は広告研究会に入り、1年生の時はその活動にどっぷりと浸りました。現在ブックカフェになっている7号館1階のスペースを、当時の僕たちはロビーと呼んでいたのですが、その中央に陣取っていた広研のエリアによく行っていました。

広告研究会の仲間と、道玄坂やセンター街に、よく行きました。集まりの最後はいつも、ハチ公前広場で円陣を組みカレッジソングを合唱するのがお約束でした。当時は携帯電話なんてないですから、東横線の渋谷駅改札横にある黒板を伝言板代わりにして、「○○集合」と書いて仲間に知らせたりもしていましたね。

2年生になるとほかの大学の広告研究会やプロデュース研究会の学生たちと親しくなり、アーバンリーグというグループを作って各大学のミスコンテストの協賛コーディネートなどを行うようになりました。企画書を書いて大手広告代理店に売り込んだりするのも楽しくて、徹夜も苦になりませんでした。夜は現役女子大生がDJを担当する文化放送の「ミスDJリクエストパレード」というラジオ番組のADをしていました。火曜日が川島なお美さん担当の日で、同じ青学生だからということで僕も火曜の担当でした。

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卒業旅行は中国を列車で一人旅

 

ごちゃまぜと多様性こそ渋谷ならではの魅力

──大学卒業後はPR会社勤務を経て独立されました。
当時、PRは広告に比べてまだあまり知られていない分野でした。アメリカではPRが広告より上位という概念すらあることを書籍で知り、非常に興味を持ち、僕は学生時代からPRを意識した活動をしてきました。そこでPR会社に絞って就職活動をしたところ、何社からか内定をもらいました。その中でオフィスが最も渋谷に近い、外苑前にある会社を選びました。青山キャンパスに4年間通ったことでこの地域に愛着もありましたし、卒業後もホームグラウンドを変えず、渋谷駅を基点に動いていきたいという思いも強かったのです。

3年ほど勤めた後、「この先は企画から自分で考えていることを、形にする仕事をしよう」と退職、1年ほどフリーのプランナーをしていましたが、事務所を構えることにしました。そうして誕生したのが株式会社花形商品研究所です。「○○プランニング」といった横文字の社名が多かったのであえて縦文字に、しかも社名からは何をしているのかよく分からないという点にこだわって命名しました(笑)。最初の仕事は、1989年に開催された横浜博覧会で、キーコーヒーが会場内に1920年代のカフェを再現するというプロジェクトでした。大阪万博で感じた「こういう大きな催しに関わりたい」との思いが少し叶えられました。

その後、PRとセールス・プロモーションを中心に仕事をしていく中、次第にウェブサイト制作も手がけるようになりました。渋谷では「渋谷マークシティ」の建設が始まり駅周辺がどんどん変わり始めました。しかし、その変化をつぶさに記しているような媒体がなかったのです。渋谷の変化をニュースとして取り上げるメディアがないならば自分で作ろうと、2000年にシブヤ経済新聞、通称「シブ経」を始めました。自分が欲しいものを作ったら「シブ経」になったというわけです。

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──広域渋谷圏のビジネス&カルチャーニュースをウェブで届けるシブ経がスタートすると、全国各地で地域のニュースを伝えるサイトが開設、「みんなの経済新聞ネットワーク」へとつながりました。日頃、ネタ探しやネットワークづくりで意識されていることはありますか。
ネタ探しでは、ネットでも現実でも「キョロキョロすること」を心がけています。例えば街を歩く時も、求人のポスターから閉店のお知らせまで、貼ってあるものには極力目を通します。それをしないとただA地点からB地点へ移動するだけになってしまい、一見何でもないものに思えるものの中に眠る、キラリと光るネタを見つけることはできません。

ネットワークづくりについては、突き詰めれば基本はコミュニケーションだと思っています。ネットの時代だからこそ、リアルに顔を合わせる価値が高まっています。だから僕らも年に一度はオフ会を行っていますし、ネットの裏側にあるリアルというところが、ネットワークづくりの要だと感じています。

──西さんにとって渋谷の魅力とは何でしょう。
スクランブル交差点が象徴するように、色々なものがごちゃまぜになったミックスカルチャーの街であるということですね。しかもそれを許容しているところが面白いと思います。これほどまでに多様なものを受け入れる街は珍しいのではないでしょうか。コワーキングスペースも恐らく日本で一番多く、「働き方」の多様性も渋谷ならではだと思います。

「シブ経」を立ち上げる際、取材範囲は渋谷駅から1駅圏としました。そのエリアを「広域渋谷圏」と称したのですが、今ではこの名称も随分一般的に使われるようになりました。広域渋谷圏の最大の特色は、街の相互作用や複合的なパワーがものすごいということです。ハブとなる渋谷駅周辺を、さらに原宿、表参道、代官山、恵比寿といった人気エリアが取り囲む構図で、とにかく新しい話題に事欠くことがないため広域渋谷圏はいつでも元気で、「チームシブヤ」的なところがありますね。また、僕が学生の頃は、広域渋谷圏を徒歩で移動している人はあまりいませんでした。お店もあまりありませんでしたしね。歩いたところで特に面白くないからです。それが今では、歩いて移動しないと面白いものを見逃してしまうほど、街と街を結ぶ線にも見どころがたくさんあります。それも広域渋谷圏の大きな特徴であり強みだと思います。

──渋谷再開発、未来の渋谷の姿がどうなっていくと思われますか。
広域渋谷圏の中心である渋谷はこの先、これまでとは違った姿になることが予想されます。2019年度に47階建ての「渋谷スクランブルスクエア」が完成したら、オフィスフロアの増加に伴い大企業も進出してくるでしょう。2020年には東京オリンピックもありますから、今以上に外国人の姿も目立つようになるはずです。ところが英語が苦手な人の多い日本では、外国人に道を尋ねられると逃げてしまう人も少なくありません。これでは街のイメージダウンにもつながりますから、「英語で道を尋ねられても『ひるまない』対応力養成講座」を開いています。逃げる人が減れば「渋谷では道を尋ねても誰も逃げなかった!」と好感度が上がるので、これは今後も地道に続けていきたいですね。何より僕自身も今、英語を学びたいです。大学生の時に習得しなかったことを激しく後悔しています。社会人になってからも何度かスクールに通ったりしたのですが、なかなか長続きしなくて。ウェブサイトでも、英語サイトに比べて日本語サイトの情報量はごくわずかです。もし英語ができればもっと違う見方ができる出来事もあるはずなのに、日本語の論調の中だけで自分の幅が決められてしまうのは悔しいものです。自分の考え方の幅を広げるためにも、英語をもっと軽やかに使えるようになりたいですね。

これまでは名実ともに「若者の街」として知られてきた渋谷ですが、将来は大人がどんどん増えてビジネス街としての側面も大きくなっていくでしょう。その時に僕が期待したいのは、大企業と小さな企業やユニットとのコラボレーションです。もともとコラボは渋谷のお家芸なので、丸の内あたりからやってきた大企業と面白いアイデアを持った渋谷の人たちとが繋がり、渋谷が「新しいものが生まれる場」になってくれたらいいですね。渋谷から生まれたサービスやブランドが世界に出て行く、そんな未来を期待しています。

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みんなの経済新聞ニュースアプリのアイコン(左)とシブヤ経済新聞のスマホ画面(右)

 

恵まれた立地を生かし、身に付けたい柔軟な思考力

──渋谷で学ぶアドバンテージとは何でしょう。
渋谷は、これだけ柔軟なものがたくさんある、日本の中でも極めてたぐいまれでユニークな場所ですから、単に通学の駅として使うだけではあまりにもったいないので、「寄り道」を推奨します。

渋谷はソーシャル系のコミュニティが活発なので、自分が共感できる場を見つけてそこに関わりアクションに加担すれば、渋谷の見え方がまた変わって面白いと思います。大学生は社会とのつながりができやすい環境にあるので、ぜひ臆せずに関わってもらいたいです。

青山キャンパスはややもすると立地がよすぎて、この大学に来ること自体が渋谷と関わっていることになってしまいます。しかし「だから特にほかに関わる先を見つけなくてもいいでしょ」という考えになってしまうと、そこから生まれるものはありません。ぜひもう一歩踏み込んで寄り道して様々なものを見て、聞いて、触れて欲しいですね。渋谷が大好きだけど自宅や学校が離れているという学生は、必死になって渋谷との接点を探し渋谷の魅力を満喫しています。大学側が学生と地元コミュニティとのつながりを少しプッシュしてあげるというのも、悪くないかもしれないですね。

ダイバーシティ(多様性)をうたっている渋谷で触れた多彩な文化や価値観は、物事を柔らかく考える力に貢献するはずですし、大学時代に身に付く思考のスタイルってすごく大事だと思います。「多様性を偏見なく見られる力を養える場所に大学がある」という利点を生かして学び得たものを、卒業後に発揮できれば、自分自身の〝ユニークネス〟にもつながっていくのではないかと思います。

──在学生へのメッセージを。
青学に通ったことが今の仕事につながっていると考えると、人生って面白いなと思います。皆さんも、常に目の前のことに全力で取り組んでください。それを紡いで意識の中に深く埋め込んでいけば、いずれ自分のストーリーのようなものに繋がっていくと思います。自分を構成する根幹ともいえるストーリーをちゃんと作っていける、ぜひそんな人になってください。

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西 樹 さん NISHI Tateki

1960年、兵庫県尼崎市生まれ。青山学院大学経済学部卒業。在学中、インターカレッジのイベント・ネットワークの発起人のひとりになる。卒業後、大手PR 会社・株式会社オズマピーアールに入社。1988年、株式会社花形商品研究所を設立。各種企業や新商品・サービスのコミュニケーション戦略の立案・代行を手がける。2000年4月、広域渋谷圏のビジネス&カルチャーニュースを配信する情報サイト「シブヤ経済新聞」を開設。全国各地に広がりを見せ、現在は国内外に「みんなの経済新聞ネットワーク」を展開中。

 

[Photo:加藤 麻希] https://www.katomaki.com

「青山学報」262号(2017年12月発行)より転載