Interview インタビュー あおやま すぴりっと

「声」を追求し、究める〈卒業生・京田尚子さん〉

今や憧れの職業のひとつである声優。京田尚子さんはその声優という職業がまだ存在せず、役者が洋画のアテレコをする時代から活躍されてきた、まさに声優の先駆けとも言える存在です。そして89 歳になられた現在も現役として活動を続け、後進の指導にあたっていらっしゃいます。

「声」を学ぶために、演劇、狂言や義太夫などを学び、演じるキャラクターに命を吹き込む、プロフェッショナルを究めた方です。女子短期大学の学生時代の思い出や、60年以上にわたって出演された数多くの作品、そして役者・声優の仕事について語っていただきました。

(2021年4月23日インタビュー)
映画『風の谷のナウシカ』で演じた「大ババ」
映画『風の谷のナウシカ』で演じた「大ババ」
風の谷のナウシカ© 1984 Studio Ghibli・H

 

 

子役でラジオドラマに出演 英語が好きで女子短大へ

──京田さんは幼少時から子役として活動していらっしゃいました。どのような子ども時代を過ごされたのでしょうか。

小学生の頃は東京で、中学・高校生の頃は兵庫県芦屋の学校に通いました。通っていた小学校が軍国主義一色の時代に自由主義を貫いていて、子どもの感性を育ててくれる学校でした。そこで「あなたは演劇のセンスがある」と言われたこともあって小学2年生からNHKのラジオドラマに出演するようになり、それを学校も応援してくれました。当時は生放送ですから音楽も芝居もすべて同時進行で、靴を脱いで音をたてないようにマイクの前に進み、自分のセリフを言ったらさっと下がるんです。ハプニングがあっても、みんなで助け合ってなんとかつなげていくという現場を目の当たりにして、「なんて大変な仕事なのだろう」と子ども心に感じていました。

ただ、小さい頃から蜂窩織炎という細菌感染症を長く患い、手足がひどく痛むので体育の授業はまったく受けられず、高校も半分くらいしか通えませんでした。当然勉強はどんどん遅れます。唯一の例外が英語で、商社勤務だった父の仕事柄、かつて父が勉強に使った英語の参考書を自宅で読んでいました。そのおかげで英語だけは好きになって成績もよく、もっと学びたいと思い、青山学院女子短期大学の文科英文専攻(後の英文学科)に進学しました。

──女子短大では充実した学生生活を送られましたか。

病気で学校に通えず「勉強したい」という思いでいっぱいでしたから、英語はもちろん、ほかの科目も学べる喜びはとても大きかったですね。

今も忘れられない思い出深い授業もあります。物静かな年配の先生、ミス・ジェニー・S・リンドが「笑い話を作る」という宿題を出されたのですが、いざ発表するときになったら誰一人手を挙げようとしないのです。何分も教室に沈黙が広がり、先生は泣きそうな顔をされています。私は宿題をやっていなかったのですが(笑)、いたたまれなくなって手を挙げて即席で「米(rice)としらみ(lice)」を間違える笑い話をしたところ、先生が喜んでくださって。ほかのみんなは、宿題はちゃんとやってきていたのですよ。最初に手を挙げにくかったのでしょうね。

英語教育者として有名な荒牧鉄雄先生は英文学を学ぶために役立つプリントをたくさん配ってくださり、ありがたくて長い間保管していました。シェイクスピアを教えてくださった三神勲先生は、学生と友達のように付き合ってくださる先生でした。「イスラエル民族史」の授業も面白く、深く印象に残っています。また「音声学」では「今、自分はこういうふうに舌と歯を使っているんだ」と分析できるようになったり、さらに万国音標文字(国際音声字母)も教わったおかげで「私の言っている〝し〟はこうなのか」と理解できたりと、後の仕事にもとても役立ちました。

 

荒牧鉄雄先生の英文演習の授業の様子(1956-57年)
荒牧鉄雄先生の英文演習の授業の様子(1956-57年)

 

──在学中、お芝居の仕事はされていましたか。

夜は劇団に通っていましたが、教職課程も選択して学んでいましたし、大学と一緒だった課外活動では、児童文化研究部や演劇部に入っていたので、学生生活で忙しくしていました。一緒に活動していた男子学生たちが広告代理店などに就職し、私に仕事の声をかけてくれるようになりました。これもご縁ですね。セリフが言いたい、将来は役者になりたいという思いは学生時代からすでに定まっていました。

 

アテレコの世界に 狂言と義太夫で表現力を磨く

──卒業後の進路は決まっていたものの、最初から順風満帆というわけにはいかなかったそうですね。

卒業時が戦後10年ですからテレビもまだ浸透していませんでしたし、仕事の機会そのものが多くありませんでした。演劇の養成所もあまりなく、役者を育てるシステムも構築されていませんでした。当時はいつも「ドラマに出たい、セリフが言いたい」と思っていましたね。

文学座の女優、堀越節子さんの付き人をしながら、アテレコの仕事を受けているうちに気づいたことは、若い人は主役をやりたがるということでした。そこで私は「脇役やお年寄りの役をさせてほしい」と頼みました。きらきらした主役ではなく、味のある深い演技で魅了する脇役に活路を見出したところ、マネージャーも「その若さでそういう役をやりたがたる人はいない」と喜び、どんどん仕事をくれました。身近に20歳年上の堀越さんというお手本があったおかげで20代から様々な役をこなせ、周囲からも「あなたのセリフは堀越さんに似ていますね」と言われました。

そのままアテレコの仕事が順調にいくかと思いきや、「いらっしゃいませ」という一言だけの女中さんの役を頼まれたとき、そのセリフがなかなか言えませんでした。その女中さんの格、旅館の格、どんな和室でどんな障子か、その背景にあるすべてが「いらっしゃいませ」の一言に出ると思うと震えあがってしまって……。自分のアテレコには自信がありましたし、周りからも上手だとちやほやされていたのでショックでしたね。

セリフがうまく言えるようになるためには「日本の伝統芸能を勉強しなさい」と日本大学の高山図南雄先生から助言されたこともあり、新劇の俳優たちが学んでいる和泉流宗家の狂言教室に通い始めました。この稽古が本当に厳しくて、稽古に向かうバスの中でお腹が痛くなるほどでした。しかし稽古が終われば和泉先生は一変し、「来るだけでいいんだよ。それだけで勉強になるからね」とやさしくおっしゃってくださるんです。

 

第49回落狂寄席「堪忍袋」
第49回落狂寄席「堪忍袋」での一場面(2003年10月 渋谷クロスタワーホールにて)

 

──狂言だけでなく、義太夫も学ばれたそうですね。

NHK放送劇団の女性1期生である綱島初子さんに教えを請うたとき「セリフの勉強には義太夫が一番」と言われていたので、現在は人間国宝でいらっしゃる竹本駒之助師匠から学びました。師匠は理屈で説明せず、ただ「違う」と言って、繰り返し稽古をさせます。義太夫は一段30分ほどの最初から最後まで、声、呼吸など無駄が一切ありません。学ぶうちに、「義太夫は日本の最高の語り芸だ」と思うようになりました。

狂言や義太夫を学んだことで、作って役を演じることにもリアリズムがあることを学びました。いまだに仕事の声がかかるのは、当時の学びがあるからだと思います。どちらもきつい稽古でしたが、学んでおいて本当によかったです。

──仕事のための学びも、熱心に行われていたのですね。

1971年にベラ・レーヌという著名な俳優が来日して公開講座が開催され、それに参加したときは、目の前にぱーっと光が差したような気がしました。セリフをうまく言うためにさんざん苦労しているのに、「なんだ、セリフってこんなに簡単でこんなに楽しいものなんだ」と思えました。セリフは符号でしかない、だから同じセリフでも違う芝居ができるということに、改めて気づかされたのです。この頃から、アテレコが苦しい以上に面白く思えるようになっていきました。

 

いちばん好きな作品は『タイタニック』

──数多くの出演作の中で思い入れのある作品、役をお教えください。

映画『タイタニック』の老いたローズ役です。ストーリーは彼女が懐古する形で始まるのですが、演技などは頭で考えず、憑依したようにすっと役に入っていけて、すごく気持ちよかったですね。最後に大嫌いだった婚約者から贈られたブルーダイヤのネックレスを海に捨てるのですが、そのときに発する「あっ」の一言が難しいのです。その後、別の仕事をした際に「あの『あっ』を入れてください」とリクエストされ、〝通じていたんだな〟とうれしかったですね。いろいろ苦労したからこそ自然体で、そういう芝居ができるようになったのでしょう。「役の気持ちになってやればいい」と軽く言う人もいますが、苦労なしでいいものはできないと思いますね。

──京田さんから見て上手だと思われる声優さんはいらっしゃいますか。

中国ドラマ『三国志 Three Kingdoms』の日本語吹き替え版の司馬懿役をアテレコされた佐々木勝彦さんは本当にお上手でした。曹操役の樋浦勉さんも素晴らしかったです。新劇の方は稽古をたくさん重ねる中で芯をつかみ、役柄をふくらませて舞台に立ちますから、セリフに奥行きがあります。

──俳優としての仕事をメインにしたいと思われたことはありませんでしたか。

テレビや映画で演じるには相当勉強をして経験を積まなければできないと思っていましたし、それには体力が要ります。さらに映画は古い世界なので、対人関係などが難しそうだと感じていました。舞台の仕事をメインにしたいと思ったことはありましたが、なによりも声の仕事が圧倒的に多かったのです。昔は声優という職業はなく、新しい分野の芸能でしたから、慣習もなく、みんな平等で、私からすれば嫌なことが一切ない世界で魅力的でした。

「役者」と十把一絡に言いますが、映像や舞台、放送劇、アテレコはまったく違います。表現手段が異なり、それぞれのテクニックがありますから、簡単に舞台のテクニックでアテレコはできませんし、その逆もしかりです。

京田尚子さんインタビューカット

 

──アテレコをされていて「この仕事は面白い」と思われるのはどんなときでしょう。

単純に言えば、ゲーム感覚で言葉に感情を乗せて「アテ」ていくことでしょう。たとえば主役の女性役なら、外国映画の世界に冠たる美男が耳元で愛をささやいたりすればまるで現実のように感じるし、脇役なら、芝居に長けた役者が多いですからその役に没入できる面白さがあります。名作映画のアテレコは本当に面白いですね。

ちなみにアニメではさらに個性が出せます。演出の意図するところに沿う面白さもあると同時に、それを超える楽しさ、自分なりのキャラクターを作りあげることができる面白さもあります。

 

京田尚子さん主な出演作品
京田尚子さん 主な出演作品

 

 

「声」の仕事の奥深さ 声優業界へのエール

──アテレコはどのように行われるか教えてください。

アテレコには稽古の時間はあまりありません。何十年も続いてきたアニメの収録などは事前にDVDをもらえず、絵は収録当日に初めてその場で確認します。一度みんなで絵を見て、ブレスを確かめ、「ここは早めに出るんだな」とか「ここは距離が離れているな」「こういう気持ちだな」などとタイミングなどをつかみ、マイクの前で合わせたらすぐ本番です。ですから瞬時にどれだけ多くの情報をつかみ、表現できるかが勝負です。

外国映画の吹き替えの場合は、どうしても日本語が多くなって早口になります。画面の俳優の演技に合わせながら、隣の人の日本語を聴き、英語も聴きながら絵と台本を見て、目の端で空いたマイクを確認してさっと移動するということを同時進行で行います。その上で芝居はきっちり続けていなければいけませんから、これは舞台にも放送劇にもない、アテレコならではのテクニックでしょうね。

 

アテレコの様子
アテレコの様子(2021年7月撮影。写真提供:俳協)

 

──現在、声優は人気のある職業です。60年以上にわたってこの業界をご覧になってきて、どう感じていらっしゃいますか。

声だけの演技は、本来とても難しいものです。息遣い、間、感情、感覚、気分の明暗など、己を自由にコントロールできなければいけません。ですから追求すればするほど難しく思える仕事だと思いますが、逆に言えば、日本語が話せて人並みの適応力があれば、これほど簡単に収入の得られる仕事もないでしょう。容姿がよければより多くの仕事も舞い込む現在は、声優のタレント化が進んでいると感じます。1本ヒット作に当たり、雑誌やTVに出たりする機会が増えたとしても驕らず、自分を深めていく意識のある人だけが、息の長い声優として残っていくと思います。

少し厳しいことを言いましたが、もちろん上手だなと思う若い声優もいますよ。私は呼吸が下手なのですが、うまい子はおしなべて呼吸が上手ですね。

声優業界全体に対して思うことは、もっと間口を広げて平等にオーディションの機会を提供し、才能のある人を育てていってほしいということです。そして観客・視聴者も「見る目」「聞く耳」を養ってほしいですね。

──最後に、若い人たちの未来に向けてメッセージをお願いします。

どんなことからも学ぶものはあり、考えることもたくさんあります。だからこそ、物事を真面目に、探って、深く見るようにしてください。また、それぞれの作品は多くの人々の力の結集です。謙虚に、感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。

京田尚子さんインタビューカット

 

 

京田 尚子 さん KYODA Hisako

1932年、東京都出身。青山学院女子短期大学文科英文専攻卒業。テアトル・ピッコロ、劇団キューピット、演劇座、リヴ・ゴーシュなどを経て、1969 年より東京俳優生活協同組合(俳協)に所属。映画『タイタニック』『風の谷のナウシカ』など、多数の映画やアニメ、ゲームなどの声優として活躍中。2019年、第13回声優アワードにて「功労賞」を受賞。義太夫第14代横綱(大日本素義会)。

 

[インタビューPhoto:] 加藤 麻希 https://www.katomaki.com/

 

「青山学報」277号(2021年10月発行)より転載
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