人との繋がりが導いてくれた絵本作家への道〈校友・よしだるみさん〉
2023/06/15
絵を描くのが大好きな少女が中国武術に夢中になり青春時代のすべてを捧げ、敬愛する伴侶に支えられながら絵本作家としてデビュー。
様々なことを乗り越え前向きに生きる強さの根源には、「すべては神様が与えてくださったこと」という青山学院で学んだキリスト教の教えがありました。
よしだるみさんの半生や絵本作家としての思いなど、幼稚園から女子短期大学まで過ごした青山学院での思い出とともにお話しいただきました。
──幼少時はどのようなお子さんだったのでしょうか。
「おしゃべりするより先に絵を描いていた」と母から聞きました。2歳頃には延々とご機嫌でお絵描きをしていたそうです。父は大学時代に剣道で全日本大会優勝を経験し、母はキルトアーティストです。休日になると家族で道場に行き、それからギャラリーや美術館で過ごすのが私たちの日常でした。現在映画を撮っている弟と私は、父が剣道の練習をする間、ずっと二人でお話を作ったり絵を描いたりして遊んでいました。お出かけのときには母の手作りのバッグに小さなスケッチブックを入れて、目にした花や景色を描く子どもでした。大好きな家族です。
幼稚園に入園後、父の仕事の都合でニューヨークで過ごしました。不思議な話ですが、カラフルな絵本がずらりと並ぶのを前に、「いつか私の絵本もここに並ぶだろうな」と思ったことを覚えています。
帰国後は初等部の1年に転入学しました。楽しい思い出がいっぱいです。今でも大好きな先生方とはお手紙のやり取りをさせていただいています。中でも、いつも絵をうんと褒めてくださった池田敬介先生、本を読むことと文章を書くことをたくさん薦めてくださった小林寛先生、温かく可愛がってくださった体育の伊原直美先生、そして1、2年で担任いただいた佐々木淳先生には大変お世話になりました。2019年に福音館書店から刊行いただいた『あめあがりのしゃぼんだま』は、不思議なご縁から学年は違いますが同じく佐々木先生に習った編集の方と一緒に作品を作らせていただくことになり、そのきっかけをくださった先生に感謝でいっぱいです。
どの先生も、些細なことも受け止めてくださり、やりたいと思ったことを否定されたことは一度もありませんでした。
──特に思い出に残っている行事や出来事などがあれば教えてください。
雪の学校などの行事も楽しかったですが、毎日放課後に屋上でサッカーをして、夕方になると流れる音楽を聴きながら日が暮れていくのを眺める日常が大好きでした。初等部の空気は私にとても合っていて、学校全体を遊び場にしていたような、かけがえのない時間です。
そういえば、今も初等部で下校時に流れる “It’s time to go home” という英語のアナウンスは、私の声なんです。帰国子女ということで母に文章を作ってもらい録音しました。初等部の卒業生による授業「ようこそ先輩」の講師として、武術講師と絵本作家の立場で二度伺ったのですが、「私の声をみんな知ってるはずなの」と言ったら、みんな喜んでくれました!
──中国武術はいつ始められたのですか。
初等部5年生のとき、偶然テレビで武術のアジア大会の試合映像を見て、動きが一番格好よかった選手を指し「この人みたいになりたい」と父に言ったのが始まりです。インターネットのない時代ですが父はその選手を見つけてくれて、片道1時間以上かけてその選手が指導する教室に通うようになりました。その方が後に私の主人になる、武術の世界チャンピオンの先生です。
最初は習い事という感覚でしたが、ちょうど2008年の北京五輪の正式種目になるという話があり、中等部2年の終わりごろ育成選手に選んでいただきました。陸上部と美術部に所属していましたが、部活動には参加できなくなってしまったのは残念でした。高等部でも武術の練習漬けの毎日で、今の自分からは信じられませんが朝練習をしてから登校し、授業後は直接練習に向かい、帰宅後も走りに行ったり自主練習をするのが日課でした。部活動には全く参加できませんでしたが、中等部の美術の筒井祥之先生、高等部の美術の安山義正先生ともに「絵は続けた方がいいから、籍を置いておきなさい」と優しくお声がけくださり本当に嬉しかったです。
──多忙な日々、絵を描く時間をつくることはできたのでしょうか。
ある夏休みのことですが、絵をたくさん描いてから練習に通っていました。でも、気持ちが散漫になっているのが伝わったのだと思います。武術の先生から「絵はいつか描ける時がくるから、今は武術に専念しなさい」と言っていただき、そういうものかあ、と授業以外では長く絵を描いていませんでした。なかでも、中等部の文化祭で入り口のモニュメントを友達と作らせていただいたり、高等部のクリスマス讃美礼拝の絵を描かせていただいたのは良い思い出です。
友人たちと遊ぶ時間はつくれず、自分のことでいっぱいいっぱいで付き合いどころではなかったのですが、みんな優しく接してくれました。試験の当日に範囲もわかっていなかったり、校内で迷子になったりする程でしたが、誰かが必ず助けてくれたおかげで無事卒業できました。当たり前のようにそっと寄り添ってくれて、皆に頭があがりません。親友にも出会えて、自分は本当に幸せ者だなあと思います。
──高等部卒業後は女子短期大学芸術学科に進学されました。
短大でも素晴らしい先生方に恵まれました。美術史を教えていただいた現・東京都美術館館長の高橋明也先生には卒業後も今に至るまでたくさんのことを教えていただいています。児童教育学科の清水眞砂子先生は絵本の活動を喜んでくださり、お手紙でいっぱい励まして応援くださっています。大勢の先生方にお世話になりましたが、中でも淀井彩子先生と田島俊雄先生は、先輩や先生を紹介くださったり、同じ芸術家同士という目線で、拙い私にも対等な立場でお話しくださることに感激しました。
相変わらず武術中心の毎日でしたが、20歳の時練習中に大きな怪我をしてしまい競技は引退することになりました。勝敗への執着がとても希薄で良い選手ではなかったのですが、自分なりにうんと真剣に続けてきたから、何かそういう生き方のようなものが根付いている気がします。続けてきたからこそ見える景色もあるんじゃないかなあと感じています。
──幼稚園から短大まで、今も多くの先生方と連絡を取り合っていらっしゃるのですね。
青山学院ではその時々で本当に良い先生方と出会うことができました。小さい頃から「素敵な大人がいる」ということをわかったうえで、安心して伸び伸びと成長できたことは、私にとって大きな財産になりました。先生方をはじめ、同級生のお母様方にも大変可愛がっていただき、幼少時から信頼できる大人にたくさん出会えたことが今の私の土台になっています。
──卒業後は武術講師として活動されたのですか。
20歳で初めて教室を持たせていただいたとき、恥ずかしながら疑いもなく「自分は選手として武術を真剣に練習してきて、動けるから教室を持たせていただいてるんだ」と思っていたのですが、大間違いでした。幼稚園児から60代までの幅広い年代の方が数十人、体力も目的も全く違う人たちを前に、たった一人で2時間の練習をどうしたら授業として成立させることができるか、試行錯誤の連続でした。子どもクラスでも、競技として真剣に頑張りたい子、お友達とただ楽しく通いたい子、心身にハンディがある子もいます。大人の方も、老若男女、様々な方がそれぞれ習い事として集まる場所をどうしたら楽しんでもらえるか、武術の技術だけではどうにもならないことを前に自分の力不足を痛感して、20代は本当に必死でした。
教室以外でもテレビのお仕事や演武や講習など、いろいろなお仕事をさせていただきました。中でもいくつかの小中学校で運動会のカンフーの演武の振り付けと指導をしたことが強く印象に残っています。学年も人数も様々で、千人を超える学校もありました。何年か担当させていただく中で、様々な環境の学校を知ることができたことは青学しか知らない私には大変良い経験でした。
もちろん今でも、課題は出てきてその都度勉強するの繰り返しです。ただ、20年続けてきて、小さい頃に教室に通っていた生徒さんがお母さんになってまた来てくれたり、絵本を読んでくれたり、今は後輩が教室を続けてくれている東京と京都教室の合同合宿や練習会ができたりと、時々ご褒美のような素敵なことがあって、その度、思いがけない人と人との繋がりに喜びを感じます。
──絵本作家となられた経緯を教えてください。
25歳で結婚後も、東京で教室を続けていましたが、武術の機構の仕組みや思惑と合わなくなり、主人の提案で2011年の震災を機に京都に移住することにしました。
お仕事も何も決まっていなかったので、さあどうしようと思っていた静かな夕方に、主人が突然プレゼントしてくれたのが12色のクレヨンでした。最初は「おもちゃみたいだな、描けるのかなあ」と思っていましたが、工夫してみたら色がとても美しく鮮やかで、夢中になりました。
初めてクレヨンで描いたのは鹿の絵です。奈良で鹿を初めて見て、びっくりしたのです。そうして絵が増えていくと、「絵は、描いたら飾って見てもらうものじゃないの?」と主人が言うので、たまたま見つけたギャラリーで個展を開くことになりました。その時にもたくさん友人に助けてもらいました。そうしたら、編集者の方がみえて「動物園の絵本をつくりたいので、挿絵を描いてみませんか」とお声がけくださいました。それが初めての絵本『あかりちゃんのつうがくろ』(垣内出版・漆原智良著)です。
それから次第に絵や絵本のお仕事が増え、主人と共に日中は絵を描いたりお話を作り、夕方は教室で武術を教えるという暮らしになっていきました。
主人は2年前の6月に急逝しました。主人は武術は凄いのにとてもシャイな仙人のような人で、今でも一番尊敬しています。私にとって羅針盤のような人で、いつも優しく道を指し示し続けてくれる存在でした。絵本をつくるとき、私の中には森の中の湖というイメージが浮かんでいます。天候が荒れていると湖面にはなにも映りませんが、しーんと穏やかな状態だとそこから作品が出てくる感じです。その穏やかな状況を一緒につくってくれる人だったので、今は体がなくなってしまって、もちろんとても寂しいけれど、夢ではよく会えます。想定外の出来事に遭遇したときも「今の課題はこれだよ」と、主人がぽんと目の前に置いてくれるような気がするので、その目の前の出来事だけに真摯に向き合おうという気持ちで、今はもうちょっと頑張ろうと思っています。
──個展の開催や絵本の出版など、絵本作家として確実にキャリアを積まれてきました。
実は、武術ばかりしていたので、絵本作家になって初めて絵本屋さんに行ったくらい、絵本について知りませんでした。何もよくわかっていないのに不思議と人前でお話をする機会をたくさんいただいて、これは大変なことになった……と必死で片っ端から勉強しました。最初は、絵本の絵と、作品としての絵の違いもわかっていなくて、「絵と、お話があったら絵本だろう」と思っていました。でも、伝えたいことを一冊使って伝えるのが絵本、一瞬を切り取って伝えるのが絵なんですね。どちらも「伝えたい思い」ではあるけれど、アピールの仕方が異なるということを、絵本に携わるようになって理解しました。例えば、最新作の『ぼくのそりすべり』では、編集の方とスキー場で取材を行い、実際にその場にいた4歳の男の子とお父さんとお話をしたり、雪山を幾度もそりで滑って、その速度や冷たさを感じながら、お話の骨子を組み立てていきました。「僕、滑ってみたい!」という気持ちに沿いながら、お父さんが最初は滑り方と止まり方を教えてくれて、見守るなか試行錯誤して、最後には真っ白な世界を一人で滑り、ゴールでお父さんが受け止めてくれる、その爽快感を描きたいと思いました。
実はこの作品を描いていたときは、主人が亡くなった直後で、締切を前に当時は食事も睡眠もろくに取れない状態でした。自分でもどう描いたか覚えていないのです。でもこのときに描けなかったら、絵本のお仕事を続けるのは無理だなと思ってとにかく取り組みました。私にとって特別な一冊です。
──絵本のストーリーはどのように考えるのでしょうか。
暮らしの中から自然に生まれてきています。例えば『いつかはぼくも』(国土社)でペンギンが走っている絵は、渋谷のスクランブル交差点でスーツ姿の社会人が青信号と同時にどどどっ! と走っているシーンを見てペンギンみたいだなと思ったところから着想を得ました。夢見がちで空想が得意なので、お話はどんどん浮かぶのですが、どんな形にするのが一番良いかイメージを決めるのに時間がかかります。描き始めると早い方だと思うのですが、セットするまでに気持ちがあちこちに行ってしまうのが難点です。
──コロナ禍ならではの活動はありましたか。
絵本『まつとき』を制作しました。展示の予定が中止になった大阪の図書館の方から「図書館に行けなくなった子どもたちに向けたメッセージが欲しい」というリクエストがあり、一番伝えたいことを形にしました。登場するのは動物で、いつどんな時代にも〝待つとき〟はあったから、今もこの時間を大切に過ごそうねというお話です。思いがけないほどたくさんの方から温かいメッセージをいただきうれしかったですね。
──絵を描く時にどんな思いを大切にしていらっしゃいますか。
いろいろなものを見て感じて、それを絵にするときは、そのものらしさが出てくるところまで描くことを大切にしています。武術でも、10歳の時に主人に習った技や型を今でも授業の度に行いますが、今は体の中のどこを通して伝えるかという動作の意味を理解しています。絵も同じで、同じ花を描いたとしても、上手い下手ではなくその花らしさをいかに引き出せるか、そこをできるだけ頑張りたいと思っています。
夢の中でピカソに会ったことがあります。そのとき、「良い絵や作品をつくったら、その作品は光になって、もうこの世に体がない人にも届くんだよ」と教えてくれました。ドキドキしながら目を覚まして主人にそれを伝えたら、「きっとそれ、本当だね」と言ってくれました。それから、今も、その思いで描いています。
ありがたいことに、現在も絵本執筆のお話をたくさんいただいているのですが、春まで絵のお仕事で台湾に行ったり、絵本の制作だけに集中できていなくて遅れています……。でも、目の前にあることはなんでも楽しく真摯にやってみようと思っています。そう思えるのは主人の存在はもちろん、幼少時から青山学院というキリスト教の学校で育ったことも、とても大きいと感じます。すべては神様が与えてくれたことで、良い悪いどちらの側面もある、良いこと・悪いこと、良い人・悪い人と区別しない考えが自然と身につきました。国や宗教や立場にかかわらず、縁があり出会った誰とでも気持ちよく過ごしたいと思っています。人との繋がりの大切さも、青山学院が子どもの頃から自然に教えてくれました。礼拝で心を静かにする時間が毎日あったのもかけがえのない体験です。
──最後に在校生へのメッセージを。
友人たちや先生、みんなと仲良くできたらいいなと思います。上手くできない時期もあるかもしれませんが、同じ時代に同じ空間にいる人はそう多くはないです。私も学生時代はそんなに親しくなかったのに、卒業後に親しくなった方がたくさんいます。皆さんもどうかご縁を大切にしてください。お互い今日もご機嫌で過ごせますように……!
吉田瑠美。1983年、東京都生まれ。青山学院幼稚園、初等部、中等部、高等部、女子短期大学芸術学科卒業。10歳から中国武術を始め、1999年ジュニアオリンピックカップ武術太極拳大会で長拳・剣術・槍術部門で優勝。2018年に『はじめてのほんやさん』でデビュー。以来、絵本作家と武術講師という2つのジャンルで活躍の場を広げている。
■絵本
『ぼくのそりすべり』2022年 福音館書店
『いつかはぼくも』2019年 国土社
『わたしはいつも』2019年 国土社
『いつもとなりで』2019年 国土社
『あめあがりのしゃぼんだま』2019年 福音館書店
『はじめてのほんやさん』2018年 垣内出版
■エッセイ
『ルルオンザルーフ』2022年 エディション・エフ