Interview インタビュー あおやま すぴりっと

表現の土台を育んでくれた青山学院での日々〈校友・杏さん〉

今年創立150周年を迎える青山学院。校友として「青山学院150アンバサダー」に就任していただいた杏さんは、幼稚園から中等部までの12年間を青山学院で過ごしました。

中等部時代からモデルの仕事を始め、現在は俳優としても活躍されています。中等部3年次の担任であった山本与志春院長の推薦で、2022年からWFP国連世界食糧計画(国連WFP)の親善大使を務めていらっしゃいます。

そんな二人の対談が実現した今回、当時の「先生と生徒」に戻ったような終始和やかな空気の中、杏さんの青山学院での思い出からフランスでの生活まで、話に花が咲きました。

(2023年12月22日インタビュー)

 

[聞き手]
青山学院院長 山本 与志春 YAMAMOTO Yoshiharu

 

毎日の日記や讃美歌が今の自分の礎に

──このたびは、青山学院150アンバサダーに就任していただき、ありがとうございます。
アンバサダーという大役をいただき、光栄です。

 


「青山学院150アンバサダー」就任式にて
左から山本院長、堀田宣彌理事長、杏さん

 

──杏さんは幼稚園から12年間、青山学院で過ごしていますが、幼稚園でのことは覚えていますか。
園舎の裏にある坂で泥んこ遊びをしたことや卒園制作で小屋を作ったことなどが印象深いですね。幼稚園は園児の創作意欲を後押ししてくれる環境だったという印象があります。

──あの坂は園児たちに大人気でしたね。今秋に園舎が新しくなる際にも同じような場所をつくるので、引き続き楽しんでもらえる場所になるでしょう。
それからページェントでマリア様の役を演じたのもすごく思い出深いです。もともと引っ込み思案だったのに、なぜあんなに目立つ役をできたのか、今でも驚きます。卒園記念でいただいたテレホンカードにそのときの姿が写っていると思います。

──それは素晴らしい思い出ですね。初等部ではいかがでしたか。
日記を書いていたことを真っ先に思い出します。毎日書いていたので文章を書くことが好きになりましたし、今の自分の土台をつくってくれたのは間違いなく初等部での日記だと思います。そしてもう一つ、聖歌隊に入ったことも思い出深いです。讃美歌は毎朝の礼拝でも歌っていましたが、聖歌隊で歌うということには特別感がありました。今でも讃美歌を聴くのですが、当時はただ楽しいだけで歌っていたのが、今は明治時代の古き良き日本語翻訳の歌詞を美しく感じ、歌詞への理解が深まってより心に響くようになりました。

 

 

──幼い頃から毎日礼拝をしているとおのずとイエス様=神様となるでしょうが、杏さんはどうでしたか。
私は洗礼を受けていませんが、キリスト教の行事と神道などの行事も同時に経験してきています。そうした中で感じるようになったのは、土地ごとの言語や方言があるように、その土地に合った神様がいたり、あるいは神様がその土地に合ったものを授けてくれているのだろうなという思いです。

──神様は共存できるものであり、争いの元になるものではないという思いにつながる考えですね。ところで特に思い出に残っている行事はありますか。
点火祭です。当時は本物の火を使っていて、壇上の聖歌隊の席から見た一面の光の美しさは忘れられません。みんなで光を集めるというのも素敵で、また参加したいです。

──昨年末の点火祭はペンライトやスマホの灯りがすごく明るかったですよ。次回の点火祭、ぜひいらしてください。

 

結束力の強い仲間と過ごした中等部

──中等部の友達とは、今でもお付き合いが続いているそうですね。
はい。お弁当を一緒に食べていたメンバーとは今でも会っています。部活はゴルフ部で顧問だった山本先生とも奥志賀(長野県)での合宿で一緒にゴルフをしましたよね。あくまで楽しくゴルフをしようという部活で、放課後、学内のネットに向かって少し打ったり、たまにコースに出て、といった活動が楽しかったです。

──中等部では、私は杏さんの3年生の時の担任でもありました。
私たちの代は少し変わり者が多かったと自覚しているので、先生方は本当に大変だったと思います。ただ結束力は強くて、同級生同士の結婚も10組は超えています。

──そうでしたね。ところで好きな教科は何でしたか。
美術です。教えてくださった武田慶子先生は当時20代で、比較的年が近かったこともあり親しみやすく、よく休み時間に先生のところに行っていましたね。また、聖書の授業があったことをありがたく思っています。聖書の世界観は、映画や小説、マンガ、ゲームなどの場面で出てくることもあり、学び、知っているからこそより楽しめました。青学出身者同士で話していても「このアガペー(※)、すごいわ」と普通に言ったりしていて(笑)。信仰にかかわらず当たり前の感覚としてキリスト教の言葉が出てくるというのは、青学で聖書を学んだからこそだと思います。

※神の人間に対する愛

 

モデル、俳優という仕事は地味な作業の積み重ね

──中等部3年生からモデルの仕事をされるようになりましたが、もともとモデルを目指していたのですか。
いいえ、周りからすすめられて始めました。モデルの仕事を始めた頃は、これを本業にできるとはまったく思っていませんでした。俳優の仕事もお話をいただいたきっかけでデビューしました。「こんな私にもできるのかな」という思いで、受け身でした。ただお話をいただけたということは期待されているのだとは感じました。

──そうだったのですね。お父様が相談にいらっしゃったことがありました。高等部に在籍し、俳優として活動されていた杏さんのお兄さんはドラマの仕事だから比較的予定が立てやすいけれど、モデルの杏はスポット的に仕事が入るので予定が見えにくく、高等部での学業との両立は難しい、と。それで、他の高校へ進学されましたね。
芸能コースのある高校に進んだのですが、並行して通信教育で大学入学資格検定(大検)、現在の高等学校卒業程度認定試験(高卒認定)の勉強もして、1年生の時点で取得できました。そこで「学校には通いたくなったらあらためて通えばいい」とスイッチを切り替え、仕事に専念するようになりました。

──仕事をしつつ大検資格も取得したとは頑張りましたね。モデルの仕事は一見華やかに見えますが、実際は大変なことも多そうです。
真冬に春の服を着て、暖かな日差しの下にいるかのような顔をしますから、体力勝負というところもある仕事です。モデルは服やジュエリー、時計など、その時々で伝えるもの、メッセージは何かを捉え、それを伝えることが使命で、風や光、角度があって、そこから割り出される最適なポーズや表情を瞬時に判断して表現する瞬発力が求められます。さらにそのときに使うカメラや使用するカットの大きさ、さらには雑誌なら紙の質や左右どちらのページに掲載されるかによっても違ってきますから、すごくロジカルで職人的なところがあると感じます。

 

 

──伝えたいことをうまく伝えるためには瞬発力が必要なんですね。では俳優はどうでしょう。
ドラマでは同じシーンを何回も繰り返し撮ります。カメラの場所を変えて撮ったら20~30分セッティング待ち、今度は照明を変えて撮ってまた待ち……その繰り返しです。だから丸1日かけて撮影しても、放送されるのは数分程度、なんてことも。自宅でセリフを覚える時間も長いですし、役作りのための下調べや土台作りにも時間がかかります。

──役によっては楽器を演奏するなど、そのためのレッスンもしなければなりませんから大変でしょうね。モデルや俳優を目指す学院の後輩たちへぜひアドバイスを。
在学中はたくさんの本が読める図書室が大好きな場所でした。当時はスマホもありませんでしたから、本から得られる知識や情報はとても貴重で、私という人間を築く素地となりました。今も仕事の待ち時間は読書が習慣になっています。本だからこそ生まれる思いや感覚も大事にすることをおすすめしたいです。また、青山学院では「子どもたちには本物を見てほしい」という方針から、美術館で芸術鑑賞したり落語を聞いたり、幼い頃からさまざまな「本物」に触れる機会がありました。こういう経験で培われるものは大きいと思うので、本物に触れることを意識してみるといいのではと思います。

──たくさんの本を読んだことや本物に触れたことが、しっかりとした基盤となってその後の人生に生きていく。まさにその通りですね。
それから、日記でアウトプットしていたのも良かったと思います。現在の初等部でも日記が続いていると聞きました。伝統と革新の両方があるのが青学の強みだと思います。また、青学出身の人は現役の方も含めてコミュニケーション能力が高いと感じます。世代が違う人と二人きりになっても物怖じせずに会話できますので、これも大きな強みです。

──それは学校生活の中で慣れるような仕組みにしているのです。初等部の頃を思い出してもらうとわかると思いますが、行事ごとに毎回クラスをばらばらにして知らない子と同じ班になったでしょう。雪の学校でのグループも学年を縦割りにしています。いつものクラス単位で動いたほうが学校側は楽ですが、それではクラスの子としか話す機会がありません。子どもたちのことを考えたら、出会いをたくさんつくったほうがいい。どんな行事にも初対面や年上の人がいるので自然と話をするようになります。そうやって小さいうちから出会いの機会を頻繁につくることが、杏さんの言うようにコミュニケーション能力の高さにつながっているのでしょう。

 


杏さんの中等部時代の担任を受け持った山本与志春院長

 

日本とフランスでの生活 両国のいい点を取り入れる

──フランスにも居を構えて1年半以上経ちました。現地の暮らしには慣れましたか。
まだ手探りで、ようやくスタートラインに立ったという感じです。語学力が不足している状態で移住したので、フランス語の壁も厚いです。しかしパリは案外英語が通じるし、書類などのわからない部分は翻訳にかけますし、スーパーでの買い物もセルフレジと、フランス語が堪能でなくても生活できてしまうんですよね。ただ語学スクールでのフランス語の勉強は続けていて、今も奮闘中です。

──子育てや教育観については日仏でどんな違いがありますか。
フランスの学校は休みが多いこと、赤ちゃんの頃から添い寝しないことという2点が最初に気づいた日本との違いでした。「子どもたちには個別の部屋を与えたほうがいいですよ」と言われたこともあり、フランスでは年齢に関係なく子どもを個人として扱い、各自の時間やペースを大事にする傾向が強いと感じます。その影響もあって、私も子どもと話すときの一人称は「お母さん」だけだったのが、今では半分くらい「私」と言うようになりました。それからフランス人は「権利」という言葉をよく使い、子どもにも「あなたにはそれを選ぶ権利がある」などと言います。戦って権利を勝ち取ってきたフランスの歴史も関係しているのかなと思います。また、フランスで暮らして、調和を重んじる日本の良さも再確認しました。

──日本は親子が一緒にいる時間の長さが愛情のバロメーターと捉えられがちで、とりわけお母さんの負担が大きいと感じますね。フランスではどうですか?
フランスは小学校への送り迎えは義務ですが、親はたいていフルタイムで働いていますから、7割くらいはベビーシッターさんがその役割を担っています。テレビアニメでも「今夜はお父さんとお母さんはデートだからシッターさんと寝ていてね」というのが普通のシーンとして描かれているくらい当たり前のことです。

──考え方は一つではないと理解して受け入れることが大事ですよね。フランスでの生活で、今どんなことが楽しいですか。
最近、念願かなって絵を習い始めました。週に一度、2時間ほど絵を習い、自分の時間に没頭できてすごく楽しいです。そういえば子どもたちの授業では宿題で詩の暗唱がよく出るのですが、その聞き役を子どもたち同士でやってくれて、とても助かっています。詩の暗唱は初等部でも月に一度行っていましたよね。自分では生み出せないきれいな言葉を暗唱するのは大事だと、詩の内容自体を理解できる大人になってからしみじみ感じます。

──讃美歌の言葉が今も残っているのと同じですね。フランスでの生活で大変なことはありますか。
言葉や文化の壁もあって大変なことはありますが、忙しくてもあえて予定を入れるようなところがあるので、多分私は大変なのが好きなんです(笑)。これまでブルドーザーのように仕事をしていたので、10代、20代でもっと遊んでおけばよかったかなと思ったこともありましたが、あの頃頑張ったから今の仕事につながっているのだとも思います。

──今後やってみたいことはありますか。
学ぶ、遊ぶに費やす時間を少しずつ増やしていきたいのと、国内外いろいろなところに行きたいです。聖書の舞台にもぜひ行ってみたいですね。

──その土地の空気や風、匂いなどは、現地に足を運んでこそ感じられるものですからね。いつかぜひイスラエルも行ってみてください。私も行きましたが、昔から変わらない自然が聖書の世界へ誘ってくれます。最後に在校生へのメッセージを。
卒業生同士など、年が離れていても青学というワードだけで何となく仲良くなったり話がはずんだりします。それだけ同じ学び舎で過ごした共通の感覚は、どの世代でも近いのだと思います。青学で過ごしたことで世界中に友達ができたと思って、いろいろな人とつながったり、頼ったり、助け合ったりしてください。青山学院では主体性も重んじてくれたし、いい教育を受けさせてもらいました。家族や社会のあり方もどんどん変わっていく中で、創立150周年を迎える青山学院がこれからどのように変わっていくのか、どこが変わらずに守られていくのか、とても楽しみです。

──今後のご活躍も応援しています。ありがとうございました。

 


杏さん ANNE

1986年生まれ、東京都出身。青山学院幼稚園、初等部、中等部卒業。
2001年モデルデビュー。05年からはニューヨークやパリ、東京などの主要ファッション・コレクションで活躍し、06年には、米ニューズウィーク誌から「世界が尊敬する日本人100人」の一人として選出された。07年に俳優デビューを果たす。以降、映画やテレビドラマなどで活躍。22年7月、国連WFP親善大使に就任。

 

杏さん公式SNS

 

青山学院150アンバサダー

 

「青山学報」287号(2024年3月発行)より転載
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