難民「ウラルの子供たち」を救った義人 勝田銀次郎
2021/03/30
「義人」とは、
キリスト教では、正教会においては聖人の称号のひとつであり、「神の眼から見て正しいことをしている人。他者に対して義(ただ)しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと」と捉えられている。
儒教の教えでは、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として「義」が捉えられている。
義というと、個人的には「義の人」戦国武将・上杉謙信を思い浮かべる。
今回は、義人・勝田銀次郎をご紹介します。
古い時代の青山学院の校友である勝田。
義人といえるほどのいかなる業績を残した人物だったのか?
今からおよそ100年前のこと。
文献を紐解いてみました。
調べていくうちに、実は以前公開した記事『スペルミスの大失態? Unibersity!?【アオガクタイムトラベラー】』で、思いもかけず、学生時代の勝田が登場していることに気が付いた。
写真に写っているユニフォームの「A」がそうだが、青山学院の各所で不思議な書体【ブラックレター】というものが使われていることを調べた記事である。
なんと、写真上段右端が勝田だったのだ。
1893年に撮影された東京英和学校(青山学院の前身)野球部員の姿である。野球部に所属していたことがわかる。
そして先日公開した『「定礎」の中身は? そして勝田館と大隈重信』で、多少触れているが、あらためて、勝田と青山学院の出会いを紹介したい。
1873年10月1日、愛媛県松山市に生まれ、松山中学校卒業後、当時の新天地、北海道を目指した。
その北海道へ向かう汽車の中で、本多庸一と隣り合わせたという。
本多庸一は、当時、東京英和学校校長を務め、後に青山学院第2代院長となる。
運命の出会いであった。
その時本多は、学問の基礎を修めること、世界に雄飛するためには英語を身につける大切さを説き、東京英和学校への紹介状を勝田に渡したという。
そして勝田はその足で東京に向かい、1891年~1894年、青山学院と改称する直前の東京英和学校に学んだ。
東京英和学校の予備学部課程を終え、高等普通学部で学んでいた時、日清戦争が勃発。彼は中途退学し新聞記者となる。その後、神戸において貿易・海運業に身を投じる。
27歳で貿易海運会社「勝田商会」(のち「勝田汽船」)を興し、1914年の第一次世界大戦の船舶需要により会社は興隆し、実業界の大立者にのし上がる。しかし戦争の終結とともに、財産を失った(1929年同社倒産)、と記録されている。ところが勝田は、金銭には恬淡であり、いささかも動じなかったとも記されている。
その後政界に転じ、神戸市議会議員、同議長、勅選貴族院議員、衆議院議員、神戸市長と務めた。
勝田の全額寄付により建設された、勝田氏の名前を冠した当時の青山学院高等学部の校舎、勝田館(かつたホール)。
現在の大学2号館が建っている場所に造られた。
東京駅を設計した辰野金吾が設計。
煉瓦造2階建、総床面積約2000平方m、ひとつの建物をまるごと寄付。
院長館の建設費用も寄付。
寄付総額31万円。
1918年11月16日に盛大に行われた勝田館の落成式の様子は、先の記事でお伝えした通りだ。
その時勝田は、後輩たちへ次のように語ったという。
義人としての勝田の活躍をご紹介したい。
ユダヤ人を救った杉原千畝とまさに軌を一にする、人間として敬服することを実行した。
第一次世界大戦末期の1917年にロシアで起こった「10月革命」の影響で、婦人(87人)・子ども(779人)の難民のほか約900人が行き場を失い、アメリカ赤十字社の保護のもとシベリアで2年以上留めおかれていた。大戦後、この人々の送還が国際問題になったが、どの国も引き受けないという状況だった。
この話を聞いた勝田が輸送業務を買って出て、自社の貨物船「陽明丸」を多くの子どもたちが寝泊まりできるように客船仕様に改装。アメリカ赤十字社の傭船として煙突に赤十字のマークを施し、1920年7月、ウラジオストックで難民を乗せ、地球を右回りし、サンフランシスコ、パナマ運河、ニューヨークを経てフィンランド・ヘルシンキまでの約3か月に及ぶ航海の末、送り届けた。そして難民たちは無事、故郷のペトログラード(現・サンクトペテルブルグ)にたどり着いたという。
今から101年前の話だ。
陽明丸の船長は茅原基治(かやはら もとじ)。彼もまた義侠心熱く、航海の途中で北海道室蘭に立ち寄り、日本を知ってもらうためにと、室蘭の小学生との交流を企画し、市役所に掛け合い、実現させる。室蘭の小学生たちは温かく出迎えたという。その後の航海中、戦争中に撒かれた機雷を避けながらの危険な操船の中、茅原は子どもたちから“ニイサン”と呼ばれ親しまれたという。
2011年、ロシアから一人の女性が日本を訪れた。
オルガ・モルキナさん。
「私が今いるのは、私の祖父母を、ある日本人が救ってくれたおかげなのです」。
オルガさんは陽明丸で救われた難民の方のご子孫だった。
この時、陽明丸が難民を救った91年前の出来事が、初めて世界で知られることになったのだ。
なぜ100年近くもの間、知られることがなかったのか?
それは当時、敵対するロシアの人を救うなどと、この事実を当時の日本人が知れば、非難を浴び、「非国民」扱いにされ、会社も倒産しかねないとして、輸送業務にあたった乗組員たちが、勝田と茅原を守るために、帰国後一切、他人に話さなかったという。
そして勝田も茅原も、自らの勇を誇ることもなかった。
よって、誰も知るところとならない、まさに秘話だったのだ。
オルガさんの来日の2年前に、オルガさんがロシアで出会った日本人・北室南苑(きたむろ なんえん)さんにその話をしたことから初めて日本人に伝わり、北室さんが、茅原船長の消息を調査。勝田のことも知ることとなり、ついに茅原船長と勝田の墓の場所を突き止め、オルガさんが墓参することになったのだった。
2013年10月11日、オルガさんと北室さんは、この件について日本記者クラブで会見を行っている。
北室さんの著書『陽明丸と800人の子どもたち』には、取材内容が詳しく書かれている。
取材の中で岡山県のとある図書館に所蔵されていた唯一現存する茅原船長の手記『露西亜小児輸送記』(1934年)を発見したことが、この義挙を世に知らしめることに繋がった。
同書には、この時の難民となった子どもたち=「ウラルの子供たち」の子孫で構成する「『ウラルの子供たち』子孫の会」の方々が、感謝の記を寄せている。
北室さんはその後、NPO法人「人道の船 陽明丸顕彰会」を設立している。
また北室さんは同書で勝田を次の通り評している。
2014年に開催された「第2回日本・ロシアフォーラム」において、森喜朗元首相らの講演でもこの件が話題にされ、ロシアの下院議長らに伝えられたそうだ。
実はこの話は『得山翁小偲録』(1955年)という故人を偲ぶ追悼集の中に、勝田と一緒に働いていた村瀬麒一氏が書いたひとつの短い追悼文が載っており、難民救助の経緯が紹介されていた。この冊子は非売品であり、関係者以外の目に触れることもなかったのだろう。それから半世紀後のオルガさんと北室さんの登場を待って、ようやく世に知れわたることとなったのだった。
勝田はこのほかにも、第一次世界大戦の捕虜の送還業務にも携わり、ドイツ・オーストリアの捕虜3,000名をウラジオストックからイタリアのトリエステまで運び、またチェコスロバキア(当時)やトルコ人の捕虜の送還にも携わった。
これらは採算を度外視した奉仕事業であり、大戦後に襲った不況の中で行った慈善事業であった。
“人道的要請という事業遂行に自己の使命を発見し、彼は躊躇なく直進した”と、氣賀健生青山学院大学名誉教授は著書『青山学院の歴史を支えた人々』の中で一章を立て語っており、青山学院を支えた一人と捉えている。
「義人」である。
愛媛県松山市教育委員会が編集・発行している書籍『ふるさと松山学 語り継ぎたい ふるさと松山100話 広がれ!ふるさと松山の心』にも勝田の章が立てられ、難民救助の話が語られている。同書は市内の小学5年生から中学3年生までの全児童・生徒に無償で配布され、松山市が生んだ郷土の先人たちのエピソードが語り継がれている。
さらには、1923年に襲った関東大震災では、“東京全市が海中に沈んだ”というデマが流布される中、神戸市議会議長の職にあった勝田が知古をまわり義援金を募り、そのお金で物資を調達。提供元の商店主たちも「こんな時だからお金は要らない」といって、無償提供してくれる者もいたという。それらの物資を満載し、神戸市長らと船で神奈川へ。2か月にわたり、横浜・東京方面への救援物資輸送にあたった。その間、自らの食糧が調達できず、3人で1杯のかけうどんを分かち合った時もあったという。1918年に完成したばかりの青山学院の「勝田館」の安否も気になったであろうが、青山学院に立ち寄ることなく、救援活動に邁進した。
これらの勝田の考え・行動力は、神戸市長の時に最大限に発揮され、「公明正大、明朗闊達、金剛不壊の意志で職務を遂行する」と就任にあたり宣言し、市政にあたったという。市民の利益を断固として貫き、市政を活性化し、大神戸港を建設。最大の懸案であった治山治水事業を完成させた。1938年に神戸大水害が発生した際には、市長室にベッドを持ち込みそこで起居し、復興に全力を尽くしたと、『得山翁小偲録』の回顧録に書かれていた。
“財産にも名誉にも未練をもたなかった彼にとって、神戸市長の8年間は、恐らく生涯における最高の働き甲斐の場であったと思われる”と氣賀は記している。
青山学院が育成を目指している“サーバント・リーダー”の姿そのものである。
1941年12月20日、2期8年間務めた神戸市長を辞す。
「庁舎を去る日、多くの市職員たちが佇立し、涙を流し“万歳”を叫んでやまなかった」と前出の『得山翁小偲録』に回想が載っていた。
第二次世界大戦では自身が住む家屋が焼かれ、戦後はGHQの指令により公職追放を受け、そして脳溢血に倒れる。さらには妻に先立たれ、子どももいなかったため、寂しい晩年だと周りの目に映ったようだ。見かねた当時の神戸市長が神戸市の“最高顧問”を委嘱し、生活を補ったという。
最高顧問になった翌年1952年4月24日逝去。享年78。
市民葬には5,000人が参列したという。
豊田實青山学院院長、阿部義宗青山学院校友会会長らも葬儀に参列した。
『得山翁小偲録』には、勝田を偲び、各界の方の思い出が載っていた。かつて青山学院の理事長を務めた万代順四郎も追悼文を寄せている。冊子名の「得山」は勝田の雅号、唯一の趣味の「書」を嗜んだ。今でも神戸市内各所で勝田の遺墨を見ることができる。
勝田は妻とともに、神戸市を一望に見渡せる丘に眠っている。
〈参考文献〉
・『得山翁小偲録』得山会(神戸)1955年
・『評伝 勝田銀次郎』松田重夫 1980年 学校法人青山学院
・『陽明丸と800人の子どもたち』北室南苑 2017年 並木書房
・『ふるさと松山学 語り継ぎたい ふるさと松山 百話 広がれ!ふるさと松山の心』松山市教育委員会 2018年
・『青山学院の歴史を支えた人々』氣賀健生 2014年 学校法人青山学院
・『青山学院九十年史』1965年 学校法人青山学院
・「青山学報」9号 1918年12月20日発行
・「青山学報」52号 1965年12月1日発行
〈協力〉
・NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会様
・松山市教育研修センター様
・青山学院資料センター