Story ストーリー

病で絶たれた大学設立の夢 第4代院長 高木壬太郎

「大学」の名称を名乗り始める時は、それぞれの大学でまちまちだが、大学令に基づき、私立学校で初めて1920年2月5日に認可を受けたのは、慶應義塾大学と早稲田大学である。そして同じ年に、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大學、同志社大学などが続いた。

青山学院における「大学」は、戦後の「新制大学」として、1949年2月21日付で認可を受け、出発している。

 

高木 壬太郎 たかぎ みずたろう (第4代院長 1913年5月~1921年1月)

1918(大正7)年12月の「大学令」発令に際し、ほかの学校同様に、当時専門学校として神学科、高等科、中等科を擁していた青山学院でも「大学」昇格を目指した。その陣頭指揮をとっていたのが、第4代青山学院院長の高木壬太郎であった。

 

「学院拡張計画」と「大学設立計画」

1913年頃の正門
1913年頃の正門

 

1914年に高木による「学院拡張案」が学院内で承認され、創立後の発展期と位置づけて、キリスト教主義による人格的教育を中心に、英語教育を重んじた大学部の設立、校舎の増設、財政基盤の安定化を目指した。また、社会へ青山学院を広く認知してもらうべく、1914年の卒業証書授与式にて、在野にあった大隈重信侯の演説会、1916年には生徒の前で澁澤栄一による演説会なども実施し、本学院の拡張計画への後援者としての賛同も得られた。
1915年には、それまでの神学科、高等科、中等科を、それぞれ神学部、高等学部、中学部に改組し組織の拡充を図った。
1916年7月に青山学院公式機関誌「青山学報」を発行したのも高木である。

また当時、キリスト教主義の学校が合同しての「合同キリスト教大学設立計画」も進行していたが、意見の分裂や参加校の脱退により、個々に大学を設立するという動きに変わっていく。この運動はジョン・F・ガウチャーが提唱し、アーサー・D・ベリーが熱心だったこともあり、青山学院としては「他校に比べ、独自路線を打ち出しづらい事情があった」(『青山学院大学五十年史』より)。ようやく1920年に「青山学院を大学に昇格にする議」を発表し、同年12月13日の臨時理事会で大学設立計画案が承認された。

その実現に努力を傾注していた時、高木は病(チフス)に罹り、臨時理事会での承認わずか2カ月後の1921年1月27日に急逝した。享年57歳であった。

今年2021年は、高木壬太郎没後100年にあたる。

青山学院を大学に昇格にする議
資料センター所蔵「青山学院を大学に昇格にする議」

 

高木の死後、関東大震災が襲い、校舎は軒並み大破し、財政状況も悪化するなど、「大学」昇格への夢は頓挫してしまう。「高木院長が若くして逝かなければ」との思いが、この青山学院の歴史を知っている青山学院関係者なら誰しもの頭によぎってしまうのだ。

 

高木の生い立ち

高木壬太郎は、1864年に遠江国(静岡県)榛原郡中川根村に生まれ、1878年に静岡師範学校に入学。その時、山路愛山と文学雑誌『呉山一峰』を創刊。雑誌・新聞へ国会開設や条約改正に関する論説を投稿している。
そして1881年には師範学校を卒業し、御殿場村立中郷小学校の校長の職務を果たしている。弱冠17歳である。教育に携わる中、自由民権運動にも奔走している。

その後、最愛の母の死により岐路に迷う時期を経て、キリスト教に触れ、受洗。静岡教会の福音士となる。

そして1889年に上京、東洋英和学校神学部に入学する。
その後カナダのヴィクトリア大学に留学し、神学博士号を取得している。

帰国後、東洋英和学校、青山学院の教授を務め、1913年に青山学院第4代院長に就任した。
メソジスト教会3派合同の機関誌『護教』の主筆を務めたほか、『基督教大辞典』を刊行(1911年)している。この大辞典の編纂はほぼ独力で5年の歳月を費やしたという。

基督教大辞典
資料センター所蔵『基督教大辞典』1500ページ以上の大著

 

福澤諭吉に共鳴したヒューマニスト

川崎司氏の「若き高木壬太郎:静岡での日々」(「キリスト教と諸学」26巻 2011年3月)によると、福澤諭吉の『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などに感化を受け、「時代の要求に鋭く応じたこの遠見なる大革命者を〈最も好める人物〉として敬い続けた」と記されている。

高木は「青山学報」17号(1920年12月)にも自らによる福澤諭吉の評伝を記している。

また氣賀健生青山学院大学名誉教授は「紳士道を説き、常識を説き、また実務尊重、科学精神、人格主義の主張などにおいては多くの共通点を二人の間に見ることができる。ただひとつ決定的な相違は、福澤が『人を標準』としたリベラル・ヒューマニストであったのに対して、高木の生涯は『神を標準』とする信仰者の歩みであったことだろう」と「青山学報」149号(1990年7月)で評している。

 

学生を愛し、学生のために計りたい

高木は院長時代、中学部の教員に対して次のように述べたと氣賀は記している。
「規律はどこまでも正さねばなりませぬ。規則はどこまでも励行せねばなりませぬ。さりながら、あまり厳格に過ぎてはなりませぬ。世の中には、恩威並びに行はる(注:「恩威並行」人の上に立つ者は、適切な賞罰をはっきりと行うことが必要だという意味)ということが人を御する道だ、と考える人がありますが、私はそうは思いませぬ。恩も威も入用ではない。入用なるものは愛のみでございます」と語ったという。そして「学生は兵卒ではありませぬ。(中略)どうか心から学生を愛したい、学生のために計りたいと思っておりますが、これは各先生方においても同様と思います。(中略)すべての学科は人格を養うということを目的として教授しなければなりませぬ」と説いたという。(一部、現代語訳)

そして次の言葉を残している。
「歴史はもとより単に理想によってのみ動くものではありませんが、理想が社会的指導力として有力のものであったということは、疑うべからざる事実であります」
「神を天の父と仰ぐ観念、四海同胞の観念、自由平等の観念等が、過去における人類の歴史を形成する上に、非常な力をもったということは、何人も疑うことはできませぬ」
「哲学を持たぬ国民は滅びる」
「真の偉大というものは、“小さくなること”すなわち“世に奉仕すること”である」

高木は、人格主義、すなわち「神を畏れ、人を愛する人物の育成」を貫いた。
「人に奉仕し人のために尽くす人物、全人類を同胞とする世界主義に立ち、国際精神と平和主義に徹した愛国者、また真理研究の科学的精神が哲学的思索に裏打ちされた品性高尚な実用的人間像を描いていた」と氣賀は記している。

高木の没後100年を迎えた今、高木の理想、そして遺志は、青山学院が掲げる「AOYAMA VISION」に今も受け継がれている。

 

1920年頃の構内風景
1920年頃の構内風景

 

〈参考文献〉
・氣賀健生『青山学院の歴史を支えた人々』2014年 学校法人青山学院 
・川崎司「若き高木壬太郎:静岡での日々」(「キリスト教と諸学」26巻)
・「青山学報」17号(1920年12月25日発行)
・「青山学報」149号(1990年7月15日発行)
・「青山学院120年」1996年 学校法人青山学院
・「青山学院一五〇年史」資料編Ⅰ 2019年 学校法人青山学院
・「青山学院大学五十年史」2010年 青山学院大学
・「官報」2251号(1920年2月6日) 文部省告示第35・36号 慶應義塾大学・早稲田大学
・「官報」6679号(1949年4月20日) 文部省告示第90号 青山学院大学
ほか