Story ストーリー

三遊亭円楽さんのご逝去を悼んで

 

三遊亭円楽さんが2022年9月30日にご逝去されました。
謹んで哀悼の意を捧げます。

円楽さんは、1950年東京都両国生まれ。青山学院大学法学部に入学され、在学中の1970年に五代目三遊亭円楽師匠(当時、三遊亭楽太郎師匠)に入門。1977年から2022年までの長きにわたり、テレビ番組『笑点』(日本テレビ系列)のレギュラーとして出演されてきました。まさに日本の伝統文化の一つ、「落語」を究められたお人でした。

1979年には放送演芸大賞優秀ホープ賞、1981年に「にっかん飛切落語会」若手落語家努力賞を受賞し、真打に昇進。2010年3月には、三遊亭楽太郎から師匠の名跡である六代目三遊亭円楽を襲名されました。『こころの日向ぼっこ』(法研 1995年)、『楽太郎と税を語る』(ストーク 1997年)などの書籍も著していらっしゃいます。

そして、1994年に盛大に開催した青山学院創立120周年記念行事の一つ「青山が創る文化の集い」では、「音楽と語りのガラ」に、ペギー葉山さん、渡哲也さん、竹脇無我さんらとともにご出演いただきました。

また、円楽さんには、青山学院の公式機関誌『青山学報』191号(2000年3月発行)にもご登場いただいています(当時、楽太郎さん)。
故人を偲び、哀悼の気持ちを込めまして、当時のインタビュー記事をご紹介いたします。
人との出会い・絆を大切にされていた円楽さん。ぜひ円楽さんの語り口調を思い出しながらお読みいただければと存じます。

【写真上:「青山学報」191号より】

 

五十歳からの落語がおいしい

「青山学報」191号(2000年3月発行)【あおやま すぴりっと】インタビューより

三遊亭 楽太郎

〈前文〉

楽太郎師匠は、青山学院大学在学中に三遊亭円楽師匠のもとに入門し、前座修業を勤めながら大学を卒業。伝統芸の良さの中に新たな演出を加え、その構成力、演出法は若手落語家の指標となっている。長寿番組『笑点』にレギュラーとして二十年以上出演し、月初め恒例の両国寄席や独演会も意欲的にこなしている。

落語以外にも多才を究め、客員教授、ゲートボールの普及活動、さらに「現代社会における笑いの大切さ」をテーマに全国各地で講演を行うなど幅広く活動している。

楽太郎師匠は、「いろんな経験を積んだこれからの落語がおいしい」と五十歳を機に、落語にかける意気込みを語ってくださった。

 

在学中に落語界に入門

──楽太郎師匠(以下師匠)は、在学中に円楽師匠のもとに入門されたそうですが、そのきっかけはなんでしょうか。
青山の落語研究会に入ってまして、その当時師範をしていただいたのが二つ目時代の吉生、いまの円窓師匠でした。兄弟子円楽師匠の付き人が足りないから「誰か手伝ってくれないか」という話が一年の秋頃にあったんです。それで新宿の末広亭の楽屋に一、二年生の部員で連れ立って、面接を受けに行ったんですよ。原稿の下書きなどもやらせるのか、「何か多少書いてきてくれ」と言われて、いわゆる小論文テストですね。それで持っていったら、その場で「それじゃ君」って名指しされて。「いつから来られる」って聞かれて、「いつでもいいです」と。師匠のスケジュールに合わせて連絡もらって、翌日からぽつぽつやってました。

──落語家を目指して、落語研究会に入られたんですか。
じゃないんです。落語はもともと好きだったんです。それで付き人になると落語も聞けるし、おもしろいし。
付き人をして一年経った頃に、うちの師匠に「君、卒業したら何になるの」と聞かれ、「放送関係に行きたいと思ってます」と答えると、「どう、弟子にならないか」って聞くんです。それで師匠に言われたら、思わず「お願いします」と……。揺れちゃったんですよ。

僕はスカウトされたと言ってるんですけど、師匠にしてみればタダで使える。それが弟子にするきっかけみたいなもんですよ。実はスカウトじゃなくて、だまされたんですね(笑)。

──結果的には落語家になられたんですから、やっぱリスカウトでしょうね(笑)。本当は放送関係を希望されていたんですね。
そうなんです。付き人する前から、今は放送作家として著名な松本醇先生の下で、文化放送と日本テレビでアシスタントとして仕事をしてましたから。
それ以外にも、同級生の派遣もやったり、とにかくいろんなアルバイトを幾重にもしていました。今の若い人の倍働いてもうかって、学生時代お金に困らなかったんです(笑)。

──すごいですね。どうしてそんなにアルバイトをされていたのですか。
僕は自分で学費とその上教科書代から電車賃まで全部出してたんです。
というのは、もともと青山を目指していたんじゃないんです。だって高校時代は就職組で東京都地方公務員試験の初級に受かって、上位十パーセントは都採用で、都庁に行くことになってたんです。

青山のことは何にも知らず、今でいう記念受験。「なんで青山受けたの」と言われると、要するに友人から借りた大学要覧の一ページ目が“あいうえお順”で青山。それで願書がまだ間に合うし、おやじに当時の受験料五千円借りて、受けたら受かっちゃった(笑)。あの当時法学部の倍率が三十七倍ですって。受かって自分がびっくりしたんです。

──都採用が決定して、その上受験勉強せずに青山に合格。まさに師匠の頭脳明晰さを裏付けてますね。
それで青山に行きたくなって……。ついてはアルバイトをして、親には一銭も迷惑かけないという約束で、うちにいる以外は一銭もおやじやおふくろから金もらってなかったですよ。

苦学生という言葉が今ありますけれど、苦学じゃないですよ、楽しみながら学校行ってました。行ってる間にいろんな人と知り合いになって、それで落研に入って、アルバイトして、その延長に円楽師匠との出会いがあった。いい道に引っ張ってもらって、本当についてますね。

──前座として出られたのは、卒業されてからですか。
卒業前で、鈴本演芸場が初高座です。

──修業でのご苦労がおありになったのではないでしょうか。
よく「苦労したでしょ」と言われますが、苦労してないんですよ。好きでやってることは。つらいと思ったら、もうそれは職業じゃない。掃除とかおかみさんのお手伝い……これは修業じゃなくて恩返しです。出来るのはそれしかないから、修業だと思ったらつらい。自分の落語がうまくなることが修業なんです。

噺家になって一番つらかったのは収入が減ったことですよ(笑)。前座の寄席の収入と師匠の雑文の手直し等ちょっとしたアルバイトの収入だけ。それまで太子堂に六万円の一軒家借りてたのが、六千円のアパートになってしまったんですから。

 

日曜の夕方イコール『笑点』

── 『笑点』の番組は今年の五月で三十五年目を迎えるんですね。長く続いている人気の秘密はなんでしょうか。
お化け番組ですよね。テレビってどんどんテンポが早くなって……。今の風潮はバラエティで、いわゆる、ただにぎやかしのタレントを使って番組も出演者もどんどん変わっていく。その中でもって『笑点』は落語家の最後の砦でしょ。社長をはじめテレビ局の温かみというか、『笑点』は老舗だからしょうがないよ、崩しようがないものって、日曜日の夕方五時三十分という時間帯を絶対動かさないでいてくれた。それで視聴習慣がついて、日曜日の夕方イコール『笑点』って、長嶋流で言えば国民的行事になっているんです(笑)。おかげさまで視聴率がいいし、ありがたいですね。

──そういえば日曜の夕方は思わず『笑点』見ていますね(笑)。
『笑点』はおもしろい番組でね。時事もあれば、風刺もあるし、なるほどっていう部分もあり、ばかばかしいなっていう部分もあるし、いろんな落語家がいろんな個性でぶつかり合って、一つのテーマでもってマンガを送っているわけですよ。

『笑点』に出てるってことで、オピニオンリーダーとしての我々の影響力が強いっていう自覚をもってやってますね。

──師匠は『笑点』で一番若いのに、二十年以上もレギュラー出演されているんですね。
その間に代わるような力をもった落語家が出てこなかった分、助かっています。僕なんかは既に中堅なのに、『笑点』は全部先輩ばかりですから、若手で扱ってもらって逆にやりやすいですよね。下克上できて、それを売り物にさせてもらっています(笑)。

──それだけではなくて、師匠は知識が豊富で、常に最新情報を取り入れているってことも売りですよね。
気障に言えば、知的好奇心が旺盛ってことですね。

──師匠といえば、青山出身というイメージが定着していますね。
少しテレビに出始めた二つ目の頃、世間では青山のイメージというと“坊ちゃん”“かっこ良い”。「あれっ、これって使えるな」って、普段からおしゃれな着物きて、ちょっとかっこ良くして……大いに利用させてもらいました。それでずっとイメージが青山できちゃったでしょ。最近はもう定着しちゃって、言わなくても判るようになりましたね(笑)。

 


大学野球秋季リーグ戦優勝祝賀会でのお祝いのご挨拶(1999.12.13)

 

古典の再構築を目指す

──師匠の落語は、伝統芸の中にも斬新な演出を盛り込んでいると評されていますが……。
それは僕の落語を知らないから言うのであって、僕がやっているのは古典の再構築なんですよ。
たとえば、登場人物が何人かいると、いまスポットが当たっていないこのわき役にスポットを当てると噺が全然違ってくるとか、噺の山を作るとしたらどういうふうに出来るかなと、さらに噺の流れの中でここで言っていることをこっちで言ったほうがくすぐりとして使えるし、このくすぐりを分解すれば三カ所で使えるとか、一人で演出して一人で演じてるんです。要するに落語家って演出家なんですね。古典のテーマを大事にしながら、その破壊と構築をしていくわけです。

──だから師匠の場合は切り口が変わって、斬新な印象を受けるんですね。
同じ作品でも、円生、志ん生とさらに楽太郎がやるのとでは変わってくるはず、それを「毎度バカバカしい……」と誰もが同じようにやっていたのでは、息があがっちゃうわけなんです。たとえば歌舞伎の伝統でいえば、猿之助さんが出てくるような土壌がある。落語もそこを目指したいと、二十数年前の二つ目の頃からやっているんです。

それに落語というのは一つの表現手段。伝統っていうけれどもそうじゃなくて、落語を掘り下げれば、笑いという文化がある。日本人が思っているくだらない“お笑い”という部分ではなく、人間特有の高度の感情である笑いに訴える。ユーモア、ジョーク、ウィット、ナンセンス、ブラックなどというすべての笑いをある程度理解して、そしてその向こうに何を表現していくか。一生求め続ける永遠のテーマですよ。

──高座にはどのくらいの頻度でお立ちになっているんですか。
月初めは両国寄席で、その他あちこちのホールに頼まれます。おかげさまで今は不況のせいか、独演会が増えてるんですよ。前座を連れて行って、あとは一人で二時間位やれる。音楽だ、芝居だっていうと、ライトアップや様々な音響だとか使うけど、舞台の設営はマイクと座布団だけ。後は出囃子をテープで流せば、ずーっとしゃべってるんですもの(笑)。

──落語の人気は、景気に左右されるんでしょうか。
というか景気の好不況に耐えられる産業なんですね。

──今の若い人達にとって、落語はどう受け止められているでしょうか。
若い人はほかにいろんな遊びがあるからいいんですよ。それを前は一生懸命引き入れよう引き入れようと思ったけど、取り込もうったって、若い人は興味がばらばらだし……。そういう人たちだって、たまに寄席に来ると「落語っておもしろいですね」と言う。それで興味を持ってくれればいいんです。それに歳をとれば自然と来るようになるんですから。

 

すべては恩返し

──師匠は、講演や客員教授など多才な活動をされていますが、落語以外の世界に関わるようになったきっかけはなんでしょうか。
自分のアンテナにひっかかって時間が空いてて、嫌でなかったら全部行くんです。結婚式、パーティー、お葬式にだって。外へ出ていろんな人に世話になった商売だから、どっかで返さなきゃいけないと思ってる。そうするとやっぱりなんか頼まれた時に、自分が返してあげられることってあるでしょ。

今やっている税務大学校の講師だって、中村メイ子さんとやっていた『税ミナール』という番組の取材に行ったついでに、税務大学校の校長さんに「何か若い者に話してくださいよ」と頼まれて、昭和五十五年くらいから講師をやってるんです。その時に「落語聞いたことないでしょ。落語もやらして下さいよ」って、授業一時間、落語三十分やったんです。そしたら、これは後輩につなげてほしいと言われて、それからずーっと二十数年間。最初は船橋の東京研修所で始まったのがいつの間にか評判聞いて、四カ所に広がっちゃいました。

もう一つ平成六年から続いているのが、中央福祉医療専門学校の客員教授。そこの理事長さんが僕の講演を聞いて、「是非うちに来て下さい」って熱心に頼まれて、「人間関係論」のゼミを一年間だけという約束が今でも続いています。

 


大盛況の大学同窓祭・落語OB会の高座にて(1999.9.23)

 

──ゲートボールの普及活動もされているそうですが、どういうきっかけですか。
ゲートボールマガジン社の編集長が「ゲートボールの取材やってくれない」って引き受けたのが始まりで、おもしろくて自分でもやり始めたんです。それからテレビ朝日でゲートボールの新番組の司会を探している時に、「楽太郎さんやってる。ちょうどいいや」と頼まれたんです。今では公認審判員の資格をとって、自分のチームまで作って、お年寄りの楽しみですからボランティアで審判やったり、楽太郎杯ゲートボール大会を開催しています。

──ところで、講演依頼も多いそうですが、どんなテーマで講演なさるんですか。
「笑いと健康」「笑いと人生」や若い人たちを対象にする時は、「笑顔で言葉のキャッチボール」だったり……。
人間だけが持っている他の動物と違う特性とは、言語と自我と笑いなんです。笑いは、人間だけが持つ高度な感情だと言われています。
なんで日本人笑わないんだろうってことから、その歴史をたどって、昔の日本人の笑わなさを探る。じゃ今の世の中なぜ笑えないのかというと、現代人のストレスなんです。しかも人間関係が行き詰まっている。

どう打破するのかというと、聖書にも「初めに言(ことば)ありき」とあるように、言葉なんです。自己改革、意識改革、そのきっかけは自分しかないんです。プラスヘスイッチを切り替えれば、そこから一歩踏み出せる。言葉のない人、自分がない人、笑いのない人はだめだし、この三点からいろいろ話しています。それと、いつも笑顔が出るようにして、言葉が自然に交わせるよう、コミュニケーションの大切さも話しています。

落語の話はほとんどしません。引っ張りとしてジョークは使うけれども、ただ笑わせる話だけだったら誰だって笑うんです。僕は学問に裏打ちして、その上職業に裏打ちして、さらに笑わせながら、相手に気づいてもらうところまでやらないと、せっかく呼ばれてるんだから、それくらい意地はってやってます。一カ所でやるとその評判聞いて、ほかでも頼まれて結構忙しいですね。

 

すべては自分の責任

──在学中は、アルバイトや修業でお忙しかったようですが、ストレートで卒業されてますよね。
僕の自慢は、ほとんど受けた科目の単位は落としてないってことです。「可」でもなんでも受かってる。驚いちゃうのはドイツ語なんか出来やしないのに、初級「可」で中級は「優」(笑)。未だに担当の加藤先生とは年賀状のやりとりしてますよ。

付き人している時に「肝心な授業で、落とせないものだけは出ます」って出さしてもらってました。三年の時には教職科目も取ったので、卒業時には一六〇単位超えてましたね。
僕は今、社会的な単位を認められて教師のまね事みたいなのをやってるけれど、七年前に教育実習までやりたくて、教職を取るために聴講生として大学生戻ったんです。結果的には忙しくて年間四回位しか行けなかったんだけど、徳久球雄先生の人文地理学の講義を聞いたらすごくおもしろいの。一度卒業してから授業に出ると頭によく入るんですよ。

──ご多忙な中でも、ご自身の夢を実践されている師匠のパワーは、素晴らしいですね。ところで、昨年の大学同窓祭の青山寄席OB会では、立ち見も出たほど盛況で会場が爆笑の渦でしたね。そのほかにも青山の催しにお出でいただき、いつもありがとうございます。
青山に行くと、理事長や院長に「いつもどうも」と言われて気持ちがいいですよ。卒業生なんだもの。「いえ、こちらこそ学校利用させてもらって、お世話になっています」と答えると、最近は「とんでもない。学校宣伝していただいています」と言ってくださるんです。僕は恩返しになればと思ってますが、ならないという人もいるけれど… (笑)。

それに落研の仲間に会うと、当時は落語家になりたかった人が多かったから、落語家になった僕に夢を託すみたいなところがあって、「楽ちゃん」って言って応援してくれて、うれしいですね。

 


楽太郎師匠のサイン(2000.1.15)

 

──青山学院に何か期待することがありましたら、お聞かせください。
ちょっと寂しいと思うのは、厚木にキャンパスが出来てから、文化系でも体育会系でもクラブ活動が二つに分かれてしまっているってことですね。
厚木の代替地の問題が出ていましたが、高層化にしてでも、ぎゅうぎゅうでもいいから、青山は青山キャンパスにあってもらいたいですね。

──教壇に立たれている師匠から、青山学院の後輩にメッセージをお願いします。
遊んでてもいいよ、やるときやっていれば。アメリカの大学と違って大学に入るのが究極の目的でもいい。でも、しっぺ返しは自分に来るから。学校のこと、勉強すること、就職のこと、全部自分の責任でやりなさい。失敗したら自分のせい、うまくいったら自分の手柄になる。これからのグローバルスタンダードの合言葉であるオウンリスク(own risk)を常に念頭に置いて、人のせい、学校のせい、親のせいに絶対しないで、全部自分のせいだと思いなさい。そうすれば気楽ですよ。

──師匠のこれまでの生き方そのままですね。ぜひ若い人たちに学んでほしいと思います。

 


青山学院創立120周年記念「音楽と語りのガラ」にて(1994.10.29)

 

五十代からが落語の円熟期

──いろんな分野でご活躍されている師匠ですが、今一番力を入れていることはなんでしょうか。
これから力を入れるのは逆に落語なんです。教師をやっていた人が社会的な経験を持って教師に戻ってくるのと同じように、今まではもう本当に引き出しを増やすために、落語以外のいろんなこともやってきた。そして落語家とのつき合いのほかに異業種交流を三十年以上もやってきたら、いろんな情報をもらったし、本当にネットワーク出来たものね。五十歳のこれからが落語やるのにおいしいんですよ。

──具体的にはどんなことをお考えですか。
五十歳を機にとりあえず、すでに持っている二百くらいの噺に、プラスして整理しながらちゃんとした噺を五十くらい固めていきたいですね。二十歳から五カ年計画でやってきて、それが全部うまくいってるんです。三十歳になったら人に知られて、三十五歳になったら少し稼げるように、四十歳になったらそこそこの生活出来るようにとか……。今度はスパンを十年に広げて、六十歳までに全部整理したらあとは定年。六十歳からは好きな落語をやったり、もの書いたり、やりたいことだけやる。自分の人生だからね。

──五十歳になられてますます円熟した師匠の落語を楽しみにしています。
今日は『笑点』収録後のお忙しい時間を割いていただいて、いろいろ興味深いお話を予定の時間を超過して伺わせていただき、本当にありがとうございました。これからもお元気でご活躍下さい。

(2000年1月15日 ホテルニューオータニにてインタビュー)

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