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青山学院 由来の地探訪プログラム【ソーパー編】

青山学院は、明治時代に米国のメソジスト監督教会から派遣された3人の宣教師が設立した学校がルーツとなっています。この度、創立から150年の節目に、教職員8名からなるワーキンググループを組織し、米国における学院由来の地を訪ね、そのルーツを探るプログラムを実施しました。メンバーは「団長」「学院史」「国際交流」「広報」「校友会」「後方支援」担当で構成され、全12回に及ぶ事前学習会を経て、自ら掲げた20以上のミッションに臨みました。

 

 

ジュリアス・ソーパーについて

今回、「ソーパー編」では、「青山学院 由来の地探訪プログラム(以下、本プログラム)」におけるジュリアス・ソーパーに関する資料調査や彼とゆかりが深い土地の訪問など6つのミッションについて報告します。

 

ジュリアス・ソーパー(Julius Soper)
ジュリアス・ソーパー(Julius Soper)

 

ジュリアス・ソーパー(Julius Soper)は、1845年にメリーランド州に生まれ、ジョージタウンカレッジ卒業後、1869年にニュージャージー州ドリュー神学校に進学し、在学中に日本での宣教の任命を受けました。来日後には、津田仙など多くの日本人に洗礼を授け、複数の教会創立に携わりました。ソーパーは教育にも力を入れ、1878年に津田ら日本人信徒と協力して、本学の源流の一つである耕教学舎を築地に創立しました。その後身となる東京英和学校、青山学院で教鞭を執り、1908年まで青山学院神学部長を務めるなど、青山学院の歴史を語る上では欠かせない人物です。

本プログラムの団員は、アメリカへ出発する前に『恩師ソーパル博士』(三豊社)を読み、ソーパーに関する知識を深めました。この著書は、第二次世界大戦前の1938年に出版されたもので、ソーパーの没後に、教え子など彼と関わりのあった人物が彼との思い出を記した追悼文集です。著者によっては、旧字体で書いていたり、中には漢文で書いていたりするものまであり、読解には苦労と時間を要しました。しかし、読み進めていくことで、ソーパーがその朗らかで親しみやすい性格ゆえに、皆から慕われていたこともわかり、まるで彼に直接会ったことがあるかのように感じられました。

例えば、「博士はいつもニコニコしておられた」、「語る時によく『ソソソソ』と繰り返し、『イカガデスカ』を連発された」、名前の”Soper”を”Soaper”と間違われた時には「ニコニコ顔で『私はシャボン屋さんとされても結構ですわ』といわれた」など、彼にまつわるクスっと笑えるような思い出が書かれており、読み終わるころには彼のことをもっと知りたいと思うようになりました。

ちなみに、著者の一人である山鹿旗之進は、一度だけ温厚なソーパーがひどく憤ったエピソードを記しています。英和学校で、用務員が小さな釣鐘のついた柱を埋め変えているとき、柱が揺れてガランガランといつまでも鳴りやまなかったため、そのやかましい響きに耐えかねて翻然と顔色を変えて飛び出してきたそう。しかし、事情がわかると「そそそそうでしたか」と大笑いして立ち去ったらしい。このエピソードからも彼の朗らかな性格がよくわかります。

 

ミッション③
ドリュー大学での最初のミッションです!

先述の『恩師ソーパル博士』の中に、ドリュー大学には「眞鍮の扁牌(銅板のようなもの)」にドルー(ドリュー)出身の宣教師の姓名が列記されている」「これを見て幾多の若き神学生が外国伝道の精神を振起した事であろう」とした記載があります。しかしながら、その場所について筆者の山鹿旗之進は「これ等(大学構内の)建物のうちどれかに、或は壮麗な図書館の玄関を入って左側であったかの様にも記憶するが」とあいまいに記しています。これは今回の訪米で調べないわけにはいきません。しかしながら、80年以上も前の本に書いてあり、さらにどこにあるのかもわからない状況です。出発前のワーキンググループでは、後方支援担当の原口団員も「本当に見つけられるのか・・・」と心配そうな様子です。実際にその銅板を発見し、ミッションは達成できるのでしょうか。

 

『恩師ソーパル博士』 関根要八 著(1936年三豊社 )より引用
『恩師ソーパル博士』 関根要八 著(1936年三豊社 )より引用

 

実は、ドリュー大学(旧ドリュー神学校)訪問の実現に至るまでには長い道のりがありました。同大学は、ニュージャージー州のメディソンにある、ソーパーや本多庸一(青山学院第2代院長)が学んだ大学です。ソーパーはこの大学に在学中に、日本宣教の命を受けて、日本にやってきました。青山学院との関係が深いものの、現在、両校の間で学生交換や教育提携といった協定は結んでおらず、担当者ベースで連絡をとる機会が限られているため、どのようにコンタクトをとったらよいのか・・・という問題がありました。後方支援部隊の皆さんが学内のコネクションを使って連絡を試みたものの、なかなか連絡がとれませんでした。

なんとかドリュー大学関係者と初めて連絡が取れたのは「ミッション②」を担当する土肥団員でした。ドリュー大学内の「United Methodist Archives」の担当者と博物館訪問のアポイントメントがとれ、その後、本学のシュー・土戸・ポール先生がドリュー大学神学部のエドウィン・デイヴィッド・アポンテ(Edwin David Aponte)学部長とコンタクトでき、ドリュー大学訪問が確実となったのは10月25日、なんとアメリカへの出発日の3日前です!!

シュー先生によると、アポンテ学部長は、我々団員を歓迎できることを楽しみにしているとお話しされているとのことで、団員は皆安堵します。
しかも、10月29日の朝、ドリュー大学に関する資料や文書を保管する同大学の「United Methodist Archives」を訪問した後、アポンテ学部長が面談の時間を設けてくださること、その後キャンパスツアーを手配してくださったこと、正午からの礼拝に我々団員も参加させていただけること、さらには、大学のカフェテリアで一緒に食事をとることを提案いただいていることなどもわかるなど予想外の光栄でうれしい出来事が続々と訪れて、急展開を迎えました。

ここまで来たら、何が何でも現地でミッションの「眞鍮の扁牌」を見つけたい・・・。
いざ、アメリカ到着の翌日、探訪第1日目でドリュー大学を訪問しました。まずは、資料調査のために立ち寄ったドリュー大学内の合同メソジスト教会資料館で、早速聞き込みです。
合同メソジスト教会資料館長に「ドリュー出身の宣教師の姓名が記されたモニュメントのようなものがあるか知っているか」と質問しました。答えは「NO」です。

やはり広いキャンパス内を、それも本当に存在するかどうかもわからないモノを探すのには限界があるのだろうか・・・。暗雲が立ち込めますが、「神学部の教授に聞けば何かわかるかもしれない」とのことです。一縷の望みをかけて、いざ神学部校舎「Seminary Hall」へ向かいます。

 

ドリュー大学 神学部「Seminary Hall」
ドリュー大学 神学部「Seminary Hall」

 

ここで、神学部のアポンテ学部長にご挨拶するため、学部長の部屋を探します。職員の方から、部屋の外で少し待機するように言われた団員たちは「会ったら扁牌の場所を聞いてみよう」と思いながら、彼の登場を待ちます。辺りを見回すと、先ほど通ったエントランス左手の階段のわきに、黄金色に輝く板のようなものが壁にかかっているのを衣斐団員と江口団員が見つけました。

「まさか・・・」

我々訪問団は、その板に書いてある何やら名前のような文字を確認しました。

「P.M.BUCK…J.C.DAVISON…JULIUS.SOPER…!!!!」

日本で待つ原口団員の心配をよそに、アポンテ学部長に尋ねる前から目当ての銅板をまさかの発見です。

 

発見した眞鍮の扁牌
発見した眞鍮の扁牌

 

おそらく、これまでに、本学院関係者でこの存在を正式に調査した方はいませんでした。今回の訪問で、神学部校舎において、ソーパーの名前が刻まれた銘板が実在することを学院として初めて正式に確認し、その位置まで特定することができました。青山学院の出発点を目の当たりにし、その歴史の長さを感じることができました。堂々のミッション達成です!!!!

そこへ、アポンテ学部長が登場し、ご挨拶を経て2階のミーティングルームへご案内いただきました。発見の喜びが冷めやらぬ中、ドリュー大学の訪問記は続きます。

何はともあれ、これを弾みに次のミッションへの期待も高まります。

 

ミッション④
本多庸一の直筆の手紙から、本多庸一のアルファベット表記を確認せよ

事前学習の一環として、団員たちは、本学の学院史研究所の小林和幸所長、佐藤大悟助教による学院の歴史に関する講義を受けました。その中で、本多庸一の「庸一」の読みについては見解が分かれることや、本人も時期によって異なる読みを使っていたということを知りました。ただし、ドリュー大学内の合同メソジスト教会資料館には、本多がソーパーに送った手紙も保管されているとのことで、その手紙の署名欄を見れば、「庸一」の表記がどのように書かれているかどうかわかるのでは・・・と考えました。

 

出発前の事前学習(学院史研究所 小林所長による講義)
出発前の事前学習(学院史研究所 小林所長による講義)

 

実際に資料館を訪れると、本多庸一に関する文章や手紙、写真などの資料が数多く整理整頓され、それぞれがとても良好な状態で保存されていました。名前の表記が確認できそうな資料としては、主にソーパーとの間に交わされた手紙が残っています。事前にそのような手紙がドリュー大学内で保存されていることは認識していましたが、あったとしても2、3通程度という予想をはるかに上回る20枚の手紙を目にしました。それぞれの手紙の署名の多くは「Y. Honda」と氏名が省略された状態で書かれていましたが、フルネームで書かれたものを4、5枚ほどみつけました。そこには確かに「Yoitsu Honada」の文字が見てとれます。「ほんだ よういつ」という読み方のエビデンスを確認することができました。

 

本多庸一直筆の手紙
本多庸一直筆の手紙

 

このほか、思いがけない発見としては、ソーパーの日本滞在中の写真がいくつか保存されていました。『恩師ソーパル博士』に記録されているエピソードが頭に浮かび、いまにも「そそそそうでしたか」と聞こえてきそうです。あたかもその時代にタイムスリップしたような感覚になりました。

 

和室で食事をするソーパー
和室で食事をするソーパー
 
 
馬にまたがるソーパー
馬にまたがるソーパー
(馬や馬車に乗って北海道や関東一円に足を運び、精力的に伝導した)

 

ミッション⑥
ドリュー大学の学生に、日本伝道の歴史やソーパーの認知度を調査せよ

事前学習を進めていく中で、日本におけるソーパーの活動や青山学院の歴史における彼の影響力についても理解を深めました。一方で、アメリカそしてドリュー大学において、ソーパーの功績がどれだけ知られているのか疑問がわいてきました。そこで、現地の学生に日本伝道の歴史やソーパーについて知っているかどうか聞いてみることにしました。

ドリュー大学神学部長との面談を終え、今度は国際センターに案内されました。
担当者の方とお互いの留学システムや受け入れている留学生のサポート体制などについて情報交換を行ったほか、持参したパンフレット等の資料を見ながら、青山学院の歴史やソーパーとのかかわりについても説明しました。続いて、実際に神学部生2名も合流しました。

 

国際センター前での集合写真
国際センター前での集合写真

 

2名の学生をキャンパスガイドに、キャンパスツアーに参加する機会をいただけました。その際に、日本伝道の歴史やソーパーについて知っているかどうか、キャンパスガイドのお二人に質問しましたが、残念ながら、日本伝道の歴史やソーパーについてはあまり知られていない様子でした。そこで、反対に私たち団員からソーパーがドリュー大学の出身であること、ソーパーが青山学院の歴史に大きくかかわっており、学院創立150周年を記念して、我々団員が彼の由来の地を訪問していることを伝えました。

 

2名の学生によるキャンパスツアーの様子
2名の学生によるキャンパスツアーの様子

 

すると、キャンパスガイドの学生から、ソーパーと同時期に、韓国へ渡った宣教師であるヘンリー・ジェラード・アペンゼラー(Henry Gerhard Appenzeller)については、大学内でよく知られていると教えてくれました。その理由としては、彼の胸像がキャンパス内に建てられおり、学生がよく目にするからとのこと。これは彼が創立した韓国初のプロテスタント教会の建物であるチョンドン・チェイル(貞洞第一)教会より寄贈されたものであり、キャンパスの中でも目立つ場所に建てられています。

 

ヘンリー・ジェラード・アペンゼラーの胸像
ヘンリー・ジェラード・アペンゼラーの胸像

 

また、ドリュー大学訪問当日、韓国の大学からも視察団が来訪しており、キャンパス内の合同メソジスト教会資料館にも韓国に関連する資料が多く残っていることから、ドリュー大学と韓国の強いつながりがあるように感じられました。本学としても、ドリュー大学との関係性をより一層強固にすることで、ソーパーおよび青山学院の知名度向上につなげられるのではと感じました。いつかソーパーの胸像をドリュー大学に寄贈するなど・・・。

その後もキャンパスツアーは続き、ブックストア、ジム、屋内運動場を紹介してもらいました。学生はジムも無料で使用できるそうです。ブックストアにはドリュー大学グッズがたくさん置かれていました。続いて礼拝堂へ移動し、礼拝に参加させていただきました。「only love」など有名な曲を交えながらの進行にあっという間に時間は過ぎていきました。

 

神学部校舎内「礼拝堂」の様子
神学部校舎内「礼拝堂」の様子

 

余談ですが、ドリュー大学は、幽霊が出る大学としてアメリカの中でもTOP10に入るといわれているそうで、キャンパスツアー中にも「Haunted Tour」なる貼り紙を見つけました。訪問する前日(10月28日)には、ハロウィーンを祝う幽霊キャンパスツアーが開催されたようです。もう少し早く到着していれば、団員も参加できたかもしれません・・・。

 

キャンパスツアー中に見つけた貼り紙
キャンパスツアー中に見つけた貼り紙
 
 
ハロウィーンを祝う幽霊キャンパスツアーの案内
ハロウィーンを祝う幽霊キャンパスツアーの案内
ドリュー大学Webサイト ( https://drew.edu/ )より引用)

 

ミッション⑰
現在のソーパーの墓石を記録し、祈りをささげよ

ソーパーは、生まれはメリーランド州ですが、ドリュー大学神学部長を退任後、妻の病気の療養のため、温暖で暮らしやすいカリフォルニア州ロサンゼルス郡グレンデールに赴任し、1914年からノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師となりました。その後、1937年2月5日に、この地で91年間の生涯を終えました。

彼は、「Forest Lawn Memorial Park」に眠っています。「Park」といっても墓地で1.2km²の広大な敷地にはなんと25,000ものお墓があるそうです。先に訪れたスクーンメーカー、マクレイの墓とは形状が異なり、地面に石のプレートのようなものが埋め込まれているような形でした。初めて目にするような形状で驚きがありました。大川牧師(ロサンゼルス市内の教会で牧師をされている本学卒業生)による墓前祈祷に続いて、校友会ロスアンジェルス支部の方々、そして我々団員で祈りをささげました。

 

大川牧師の墓前祈祷に続き祈りをささげる団員
大川牧師の墓前祈祷に続き祈りをささげる団員

 

ちなみに・・・マイケル・ジャクソンやエリザベス・テイラーなど数多くの著名人も、ソーパーと同じ「Forest Lawn Memorial Park」に眠っているとのこと。マイケル・ジャクソンのお墓は遠くからしか見ることができませんでしたが、本学の間島記念館くらいの大きさがあるように見えました。さすがキング・オブ・ポップです。

 

ミッション⑳
ソーパーの自宅跡(カリフォルニア州グレンデール)を訪問せよ

前述の『恩師ソーパル博士』の中には、ソーパーの書簡も収められています。1930年代の書簡には、なんと当時の住所が書かれていました!訪問団として、訪れずにはいられません。

 

ソーパー博士の手紙(『恩師ソーパル博士』 関根要八 著(1936年三豊社 )より引用)
ソーパー博士の手紙(『恩師ソーパル博士』 関根要八 著(1936年三豊社 )より引用)

 

記載されたソーパーの住所をもとに、彼が妻の病気のためアメリカに帰国し、その人生を終えるまで拠点として暮らしていたカリフォルニア州グレンデールにあるメリーランドアベニューを訪問しました。

1930年代の住所のため、現在の地図と完全に一致するかどうかは不明でしたが、辺りは綺麗な一軒家が立ち並ぶ閑静な住宅街で、その自宅跡には現在も民家があり、アドレスプレートには数字がはっきりと読み取れます。ガレージに車が停まっていたことから住人の方もそこで生活している様子でした。
家の前で写真を撮りたかったのですが、さすがに見知らぬ外国人6人が自分の家の前で集合写真を撮影し始めたら、住民の方はきっと怖いだろうということで、車の中から視察しました。

ソーパーは日本から帰国後、この辺りを拠点に、ノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師として在米日本人に宣教を行っていました。車の中から、彼の晩年に思いを馳せました。

以上で、ソーパーや彼にゆかりのある土地などに関するすべてのミッションを達成することができました。150年という学院の歴史について、正直あまりピンときておりませんでしたが、今回の訪問を通じて、創設者が成してきたこと、その軌跡、想いを目の当たりにし、その歴史の重さを、身をもって感じることができました。最後の墓参では、本学の源流とかかわりのある人々に敬意と感謝の意を示し、彼らから始まった学院の歴史を終わらせてはいけないという思いで、本学教職員として青山学院のさらなる発展に貢献していくことを誓いました。

 

ドリュー大学学生によるキャンパスツアー
ドリュー大学学生によるキャンパスツアー
広いキャンパス内にはジムや運動場も完備されていた
広いキャンパス内にはジムや運動場も完備されていた
ドリュー大学の学生と
ドリュー大学の学生と
 
ドリュー大学のマスコット。キャンパス内の複数個所にデザインされていた
ドリュー大学のマスコット。キャンパス内の複数個所にデザインされていた

 

※本ページ掲載の内容は、2024年10月時点のものです。
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